BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

報恩講

 親鸞聖人のご命日である11月28日が近づいてくるたび、各寺院では御正忌報恩講が行われています。

 親鸞聖人の教えを広めるべく、たくさんの宗派があることは周知のごとくなのですが、いわゆる「真宗十派」と本山をあげてみますと、

浄土真宗本願寺派 西本願寺

真宗大谷派 東本願寺

真宗高田派 専修寺

真宗佛光寺派 佛光寺

真宗興正派 興正寺

真宗木辺派 錦織寺

真宗出雲路派 毫摂寺

真宗誠照寺派 誠照寺
真宗三門徒派 専照寺

真宗山元派 證誠寺
となります。http://wp1.fuchu.jp/~sat/fig36.htm

素人目に考えても、ややこしいなぁ・・・と思ってしまうところです。

そして、本山があって末寺があるのですから、親鸞聖人の流れを汲むお寺が、

本当にたくさんあるわけです。

日程をずらして、そのお寺が「報恩講」をするわけですから、11月末に向けて、

どこかのお寺で「報恩講」を行っているような気がします。

何となく自分からするとこの「報恩講」、お寺の稼ぎ時という風にしか感じていません。

本来なら、「報恩講」の意義である『救主阿弥陀如来並びに宗祖親鸞に対する報恩謝徳』のために営まれるべきだと感じています。

門信徒にとって大切な行事であるという認識が、本当に薄くなっているような気がしています。

親や先祖に対して「恩」を感じることも大切な事なのではないかとも感じています。

 

単なる宗教行事と捉えないで、今生きている事に感謝する気持ちを持って行きたいと、いつも思っています。

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本山での報恩講の様子

真宗会館 https://shinshu-kaikan.jp/

わたしの蓮如さん

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蓮如桜(八重桜)に囲まれて

 


 「蓮如上人、吉崎に~お着~き~」、幾度となく聞いたこのフレーズ。吉崎に生まれ育った自分には、春を告げる蓮如忌の訪れであり、身近に蓮如さんを思い起させてくれる貴重な10日間の始まりです。毎年4月17日、京都の本山に安置されている蓮如さんの御影を吉崎までお運びになるという「蓮如上人御影道中」は令和元年で346回目となりました。

 数々のドラマと多くの方々のご尽力によって、この歴史は続き、蓮如さんの息吹が今なお感じられる貴重な行事です。御影が到着になる4月23日の夜には、過疎化と高齢化に悩む吉崎という町が、年に一番の盛り上がりを見せ、「南無阿弥陀仏」というお念仏の声が今なお吉崎中に響き渡ります。

 蓮如さんが吉崎に御坊を開かれて550年が過ぎようとしています。北陸を布教の地として選ばれ、多くの門信徒の心を掴まれた蓮如さんは、「伝道者」として日本史上最高の方だったと言っても過言ではないと思います。

 御開山様である親鸞聖人が「求道者」として「浄土真宗」を確立されましたが、蓮如さんがこの世にお生まれにならなければ、浄土真宗教団は今のような大きなものにはならなかったと感じています。

 それゆえ蓮如さんは中興の祖と呼ばれているのですが、蓮如さんの御功績が以前のように評価されなくなったと感じています。

 戦国時代の三英傑、信長・秀吉・家康を一番苦しめた「一向一揆」ですが、その内実には痛ましい歴史がありました。

 しかしながら、感謝やありがたさいう言葉をもって、人々を眠らせるようなことを真宗の教えとはせず、「このままでいい」という所に座り込ませない種を撒いたのが、誰であろう蓮如さんであったはずです。

 今一度蓮如さんの志しに思いを馳し、再び吉崎からお念仏の声が大きくなることを望んでいる自分です。

 蓮如さんは4年3か月しか吉崎にお出でになりませんでした。しかしこの吉崎の地には、語り尽くせぬ蓮如伝説と多くの逸話があることを、再確認する事が必要だと思っています。

 昭和50年に国の指定史跡となった「吉崎御坊跡」。そこに吉崎の象徴というべき高村光雲作の蓮如像があり、そして、昭和9年に完成したこの銅像をながめるように、ひっそりと立つお墓があります。

 

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見玉尼のお墓(http://www.city.awara.lg.jp/mokuteki/education/kouminkan-n/komin-yoshizaki/oshirase/oshirase/p000655.html


 蓮如さんの第4子、次女となる「見玉尼」のお墓です。貧しかった本願寺の口減らしのため、わずか7歳で他宗の寺に喝食(かつじき)として出され、本願寺が焼き討ちにあった後、応仁の乱によって京の町が焼け野原となった最中、共に生活をしていた姉と叔母が病で亡くなり、蓮如さんの後を追って北陸の地に足を運ばれました。

 しかしその時すでに、彼女の胸には病が襲ってきており、94日間という隔離生活ののち吉崎で息を引き取りました。

 若干26歳という若さでの旅立ちだったのです。

 その時の様子を蓮如さんが御文(御文章)に残されています。

 多くの門徒衆に見送られる中での一節ですが、「或人の不思議の夢想・・・」として綴っています。

『(前略)8月15日荼毘の夜、あかつきがたに感ぜし事あり。その夢にいはく、所詮葬送の庭において、むなしきけぶり〔煙〕となりし白骨のなかより三本の青蓮華出生す。その花のなかより一寸ばかりの金(こがね)ほとけひかりをはなちていづとみる。 さて、いくほどもなくして蝶となりてうせけるとみるほどに、やがて夢さめおわりぬ。

これすなわち、見玉といえる名の真如法性の玉をあらわせるすがたなり。蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて、法性のそら極楽世界涅槃のみやこへまひりぬるといえるこゝろなりと、不審もなくしられたり。これによりて、この当山に葬所をかの亡者往生せしによりてひらけしことも、不思議なり。ことに茶毘のまへには雨ふりつれども、そのときはそらはれて月もさやけくして、紫雲たなびき月輪にうつりて五色なりと、ひとあまねくこれをみる。まことにこの亡者にをいて往生極楽をとげし一定の瑞相をひとにしらしむるかとおぼへはんべるものなり。(後略)あなかしこあなかしこ。』

 白骨から蓮の花が咲き、その中から小さな金佛が光を放ち、蝶となって空高く舞い上がっていく様子、荼毘に際し降っていた雨も上がり、月が顔を出しその灯りを見上げる様子、文人としても魅力ある蓮如さんを表わしてくれている素敵な御文です。このような蓮如さんだからこそ、多くの門信徒が生まれ、浄土真宗が大教団へと育つに至った事なのではないでしょうか。

 

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映画「鮫」より(https://www.youtube.com/watch?v=giVWeBDjdPo&t=131s


昭和38年、この見玉尼をモチーフとして作家の真継伸彦が「鮫」という小説を残しています。越前三国生まれの非人が京へ上り、極悪非道の荒くれ者となった時に見玉尼と出会い、念仏を知り、浄土真宗に帰依していく様を綴った歴史小説

 その作品は文藝賞を受賞し、翌年、中村錦之助主演で見玉尼役を三田佳子が演じ東映で映画化されました。

 このお話しもまた「方便」かもしれませんが、見玉尼のお墓で合掌するたび、自然の刹那というものを蓮如さんが教えて下さっているといつも感じています。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【あとがき】

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4月23日「吉崎御到着」のようす


 「蓮如さんの心は永遠に永久に」

~御影道中の影に・・・~

 福井県の最北端「あわら市吉崎」。この地で生まれ育った者には、ある言葉を聞きながら大人になって行きました。それは「蓮如さんのおかげ」という言葉です。

最近ではその言葉を口にする人は少なくなりましたが、今では廃校となってしまった吉崎小学校の運動会でも、天気に恵まれ、怪我もなく楽しく一日を過ごした後には、必ず「蓮如さんのおかげ」と語るお年寄りの姿が数多くありました。蓮如さんが亡くなって六百二十年も経っているのに、「蓮如さん」と身近な人のように親しみを込めて呼び、心の中にはいつも蓮如さんへの感謝の気持ちがありました。この吉崎も過疎化と高齢化に悩まされ、宗教離れも備わり、蓮如さんの事を語れる人は本当に少なくなりました。ただ、現代の宗教離れは、特定の教団に属していないという点がかなり大きく、「葬式仏教」という言葉が示すように、葬式のときにしか必要とされない仏教となり、形骸化された結果かもしれません。それが「寺離れ」につながり、蓮如さんを語らなくなった一因だと思われます。

蓮如さんの残してくれたものの一つに「お勤め」というものがあります。日に一度は仏壇の前に赴き、「正信念」や「三帖和讃」を唱えるというものです。今では仏壇も持たない家が増えていますから、このような作法を語ることも無くなりましたし、語れる人も少なくなってしまいました。しかし、この「お勤め」という作法を広めたからこそ、蓮如さんの名前も広がり、「本願寺教団」という日本屈指の大教団が出来上がって行ったことを忘れてはいけないでしょう。

徳川家康が天下統一を成し遂げ、二百六十年続いた江戸幕府の時代が終わってから百五十年経ちました。戦国時代、信長・秀吉・家康の三英傑を困らせた「一向一揆」の始まりは北陸の地からと云われていますが、その種をまいた蓮如さんの業績もまた、忘れ去れようとしているのは事実です。

しかし、「葬式仏教」として形骸化された仏教が残っているように、死者に対する葬礼という弔いは今後も続いていくはずです。どのような宗派であっても、死者への感謝も含む葬礼は、簡素化されても残っていくと思われるだけに、福井・石川県境のこの小さな「吉崎」という地も、蓮如さんの故郷として残って行く事でしょう。

毎年四月二十三日から五月二日まで、吉崎蓮如忌が行われます。これは、真宗大谷派吉崎別院の行事です。

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「御影道中」本山出発


蓮如上人さまのおと~り~」の掛け声とともに、蓮如上人御影道中は、蓮如上人御忌法要が厳修される時期に上人が歩いたといわれる京都市東本願寺(本廟)より吉崎別院までの約二四〇キロの道程を一週間かけて歩き御影を運ぶ「御下向」と、吉崎別院における十日間の蓮如上人御忌法要の後、真宗本廟に向けて、帰路約二百八十キロの道程を七泊八日かけて御影を運ぶ旅「御上洛」があり、東本願寺における御帰山をもって御影道中は終了します。三百年以上続く「蓮如上人御影道中」、御輿が吉崎東別院の石段を駆け登る姿を見ようと、毎年大勢の観光客が訪れます。

蓮如上人御影道中の歴史は古く、平成最後の年である平成三十一年(二〇一九年)で三百四十六回目となりますから、世界に比類のない行事と言えます。

『吉崎の郷土史』に書かれてある「吉崎東別院の記録」に基づくと、「京都の東本願寺に預けられた『蓮如上人の自画像』は、延宝元年(一六七三年)より吉崎への下向が始まりました。この御影道中の扱いようは『蓮如さまのお通り』と連呼し、『御対面』とか『お腰延べ』とかいって、生き仏を拝すると同じようにいたしています。またこの道中には、残雪の山道もあり、風雨の日もありますが、多くの信者の送り迎えが絶えないので、大切に後の世まで伝えたい」と記してあります。

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木の芽峠をすすむ「御影道中」


ご下向の難所は、木の芽峠で、ご上洛は今庄町の湯尾峠です。木の芽峠にさしかかると、御興車を別の道から先廻りさせて、新保町から供奉の人達が御影の櫃を背負って峠の道を登っていきます。四月の峠の道はまだ残雪が方々にみられ、その山道を蓮如上人の櫃をかわるがわる担い、ゆっくり一列になって一歩一歩熊笹を分けながら登ります。一時間程行ったところの、木の芽峠の頂上には、会所(えしょ)があり多勢の人達が出迎えて待っています。会所は藁葺き屋根の家で、一服すると温かい番茶が廻ってきます、囲炉裏には檪の株が赤々と燃えています。

江戸時代の、御下向御上洛のお迎えの伴人は、宰領を入れて四人で、主として越前・加賀の門徒がその御役を引き受けていました。東本願寺から御使僧が供奉人につきそって下向し、蓮如忌の法要を勤めて御影のお供をして京都へ戻ります。この事は「心証院御影往還の記録」の中にあり、宿泊所の寺々と民家の氏名があり蓮如忌中の法行事など、寛政以降の日記に詳しく記載されています。

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供奉人


現在の御下向上洛の道中は、教導(僧)一名、供奉人は宰領を入れて六名で、福井・石川・滋賀・大阪などの各府県門徒衆も加わっています。御坊の指名した供奉人は六人ですが、御影のお供をして道中するのは自由で、自分で御供の道中区間をきめて参加する方が多くなりました。

京都東本願寺(本廟)から吉崎へ下向の主な日程は、四月十五日に、御影お迎えのため宰領供奉人などが吉崎東別院に参集して誓詞を認め、翌十六日、朝六時半に吉崎東別院を出発いたします。そして京都東本願寺で一泊し、四月十七日午前九時、大寝殿で「御影改めの儀」があり「御影お腰のべの儀」を行い、御櫃におさめ東本願寺を出発し、烏丸通りより山科街道を通り大津に至り、琵琶湖西廻りで北陸道に出て吉崎御坊までの六泊七日間、約二百四十キロの道中が始まります。

ご下向最終日となるあわら市細呂木から吉崎までの間、昔は村の若衆が、吉崎御坊さしむけの御影専用の御輿をかつぎ細呂木まで迎えに出向き、御影を輿に移し左右のかつぎ棒に太縄二本を結びつけ、老若男女が縄をひき午後七時頃吉崎御坊に御着きになるよう案内しました。お迎えの門徒は、この縄を持つことで「蓮如さまの温もりを・・・・」と喜んで出迎えたと伝えられています。

現在は、吉崎の商店や近郷の商店、会社の名入りの高張り提灯六十本余りと、老人会の手によって配られるホウズキ(鬼灯)提灯に灯をともして一般の門信徒や観光客、子供達は御影をお迎えします。県内はもとより、石川・富山・岐阜・滋賀県あたりからも日帰りバスをしたてて参詣され、中には東西別院に宿泊を予約して参詣される方も少なくありません。蓮如さんの五百回忌頃は、約五百人以上が宿泊されていました。

御影が吉崎の入り口に着くと、御影を御輿に移して吉崎消防団の方々が担ぎ、「蓮如上人さまのお着き!」の連呼の中で町内を進みます。本堂よりお着きの合図となる半鐘、太鼓堂からはお着きの太鼓が鳴り響き、念仏の合唱が高まる中、お出迎えの人が階段で待つ中央を通り、東御坊の本堂まで担ぎ上げます。隊列の先頭は、古式にのっとり、あわら市長・あわら市議会議長・吉崎地区区長会長、吉崎青壮年団長、次いで東西両別院と願慶寺、吉崎寺などの高張り提灯の列が進み、その後ホウズキ(鬼灯)提灯をもってお迎えする一団がつづきます。

御坊下に着いた御輿は、念仏の声が湧き起る中、消防団員のかけ声もろとも東別院の石段を一気に駆け登る様は実に豪快な一時です。この時が、現在の吉崎で一番賑わう日です。そして、読経の響く本堂のそばでは、七日間蓮如さんと寝食を一緒に過ごした方々が家族と抱き合い、無事に歩いて吉崎に来られた事に感謝し涙する姿を見る事ができます。

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吉崎東別院で


吉崎で生まれ、吉崎で育った人間の一人として、子どもの頃からこの模様を見ていると、真宗とは縁遠い人間でも、蓮如さんに対する熱い心が湧いてしまいます。

室町時代後期から、戦国時代と呼ばれる日本史上乱世の時代を生き抜き、雪深い北陸で自然と闘いながら生きてきた祖先を思い出す時間ともなっています。

吉崎の春は、蓮如上人御影道中と供にやって来ます。この行事が続く限り、蓮如さんが北陸にまいた「真宗の教え」という種は、いつまでも花が咲いていくこととなるでしょう。親鸞聖人から蓮如上人へ、そして多くの宗派が生まれ、多くの寺院があります。「南無阿弥陀仏」の声を聞くたび、宗派や寺院は関係なく、「生きているんだ」と再確認してしまいます。

そして、幸せな日本であると感じれば感じるほど、蓮如さんへの心が残っている場所が「吉崎」だと感じるのです。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【最終回】

年が明けた文明四年、見玉尼は咳き込むようになりました。

「見玉大丈夫か?やはり北陸の冬は寒いからのぅ、養生せねば・・・。」

「お父様大丈夫でございます。具合が悪いということを、里のものも気にしてくれて、精の出るものと言っていろいろ持って来てくれますので、本当に助かります。今朝も浜坂浦の喜八殿がやって来て、カニを持って来てくださいました。それはそれは大きなカニで、『雑炊にして食べたら精が出る』というので先ほど頂いたのですが、それはそれは美味しくて美味しくて、全部食べてしまいました。」

「そうかそうか、この海で獲れるカニは本当に旨いでのぉ、冬でないとこの味は出んそうじゃ。食べられてしもうたカニはもちろんじゃが、皆の気持ちも汲んで、早く良くならんとのぅ。」

 

 春を迎え、蓮如の坊舎の周りにも桜の花が咲きました。

「ここで迎える初めての春、このような美しい桜に囲まれて嬉しいものですね、お勝。」

「見玉様、本当に嬉しゅう思います。堅田の桜も、こんなにゆっくり見る事なんてありませんでしたもの。」

「本当ですねぇ、堅田にいた時は、いつ襲われるかと心配な毎日を過ごしておりましたからねぇ。」

「実如様をはじめ、弟気味のお世話で、見玉様も大変でしたし・・・」

「それはお勝、其方も同じではありませんか、今思うと、叔母や姉、妹を亡くし、悲しさに打ちひしがれていたときも、其方がそばに居てくれた事で、どれほど力になった事でしょう。礼を云います、お勝本当に感謝しますね。」

「滅相もございません、お礼を申し上げるのは私のほうこそでございます。住む処を焼け出され、食べるものもなかった時に、見玉様とお会いできなかったらと考えますと、今がある事を本当に嬉しく思うだけでございます。」

見玉とお勝、この同い年の二人は別々の生い立ちを過ごしながら、蓮如を通じ、一番心を許せる二人となっていました。蓮如を慕い、北陸の地「吉崎」で幸せな日々を一緒に過ごしている二人にも、残念ながら別れの日が訪れる事になります。人としての常とはいえ、四苦八苦の道を歩んでいく事は、避けては通れない道です。桜も散った5月、見玉は咳き込むことが多くなり、ついに喀血してしまいます。

「見玉様、見玉様、誰か、誰か~」

「どうされましたお勝殿。」

「竜玄どの、蓮如さまにお知らせを・・・」

やがて人が集まり、医者も立ち合い、決断を下さいます。

労咳(ろうがい)でございます、もはや幾月ばかりかと・・・」

 

文明四年(一四七二年)、五月。

京、東山本願寺比叡山の山門衆に焼打ちにあって七年が経ちました。五十八歳になった蓮如には、貧しい本願寺時代から数えて、十七人の子宝が授かり、後継ぎと言える長子「順如」は三十歳になっていました。「順如」は散り散りになった兄弟たちの連絡係として、また、京と北陸「吉崎」を布教の地として定めた蓮如の連絡役として奔走し、本願寺再興に向けて力を発揮していたのです。

一方、その妹で蓮如の第四子にあたる「見玉」は、口減らしのために七歳にして本願寺を離れ、他宗の寺に「喝食(かつじき)」として預けられていました。その後、応仁元年(一四六七年)当時の日本を二分した「応仁の乱」が始まると、その寺からも焼け出されてしまい、それから蓮如の二番めの妻であり母の妹である叔母「蓮佑」や、蓮如の長女であり「見玉」と一番仲の良かった姉「如慶」などを次々と失ってしまい、安住の地を求め蓮如の後を追って「吉崎」に来たばかりでした。

しかしながら、もう既に胸の病に侵されていて、吉崎に建立された坊舎から少し離れた湖の良く見える場所に、隔離される事となったのでした。当時の胸の病のほとんどは労咳で、咳、くしゃみ、唾より感染するとされるために、人里離れた場所に隔離する事がほとんどで、家族さえも交流は許されず、社会的な差別もおこりました。看病する人もそばには寄れず、それゆえ食べるものにも不自由し、体力がなくなり死への道を、ただ進むだけという、不治の病とされていたのです。

隔離されたなか、蓮如やお勝はもちろん、弟子の女房達や里の者も次から次へと見玉を見舞い、それを気丈に笑顔で受け応えする見玉に、人々は勇気を与えられていきます。

ある日、見玉の容態を気にして京よりやってきた兄「順如」と父蓮如が見舞いに来た時のことです。見玉が二人を前に、か細い声で話したのです。

「お父上、いつもありがとうございます。見玉は父上をはじめ、兄上や皆にこのように大切にされて、本当に嬉しゅうございます。今日は、いつも父上の書き物や法話を読み聞きしながら思っておりますことがございますので、お伝えしてよろしいでしょうか?」

「なんじゃ見玉改まって、申してみよ。」

「たくさんのお書き物がありますが、それを読む度に、あぁこれも聞いた、これもあれも・・・と思うのでございます。」

「ほぅ、それは、今まで見玉が学んで来たという事なのではないのか。」

「いえいえ、自分で学んだことは、もっと昔の幼い時のことばかりでございますので、この地に来て父上の書いたものは、ほとんど読み終えてなぞ、おりません。ただ毎日、ここへ来る『お勝』に聞いておる話ばかりなのでございます。」

「お勝が・・・か。」

「そうでございます。父上のご法話を、弟や妹たちの子守をしながら聞き、家事が終われば床に着くまで父上のお書き物を読み、解らぬ事は竜玄殿や蓮崇殿に聞いておるのでございます。京で戦が始まりました際、自分を頼り本願寺に縁のある寺にまいった時は、字も読めず、字も書けなかったお勝がでございます。今では父上の事を一番敬い、父上の事を少しでも知りたいと、一生懸命学んでいるのでございます。」

「うんうん、儂も知っておる。」

「それゆえ、見玉、最期のお願いとして聞いて頂きたいのですが、お勝を父上の、そして本願寺の嫡妻として迎えてやってほしいのです。」

「・・・。」

蓮如は、弱った体に鞭を打ったように話し出した見玉尼に、その場では返す言葉が見つかりませんでした。

比叡山の荒くれ法師たちに命を狙われ、京をあとにし、北陸の地「吉崎」に来た蓮如は、二番目の妻「蓮佑」を亡くし妻はいませんでした。最初の妻「如了」は公家である下総守伊勢貞房の娘で、「蓮佑」はその妹にあたります。

蓮如は考えていました。

「寛正の法難」と呼ばれる仕打ちで本願寺を焼き出され、妻や子を、本当に幸せにできるのか、布教の地として選んだこの「吉崎」に来たばかりの中で、自分を慕う弟子や門徒達が大勢になった今、「蓮佑」亡き後、本願寺の妻として迎え入れる事ができるのか・・・と。

その夜、順如が蓮如に話し出しました。

「父上、昼間見玉が申した事でございますが・・・。」

「うむ・・・」

ろうそくが温かく炎を燃やす中、蓮如は静かに目を閉じ、順如に耳を傾けました。

「自分が思ぉうていた以上に、この地に民百姓が来られております。誰もかれも、父上のお言葉に胸を打たれ、父上を信じ、御仏の心を理解してきております。それゆえ、父上のそばに居りたいという者も増えて参りました。越中井波の叔父上のお寺をはじめ、遠くの寺から父上にお逢いしたいと願ぉうて来られる者も居ります。弟子たちの住まいも増え、多屋と呼ばれる宿坊も増えて参りました。下働きの女衆たちも増え、弟子の女房達も大勢になりました。それも皆、今の世を生き抜くためには、父上のように生きる事への『教え』を導く者が必要とされておるからだと思うのございます。」

「うむ・・・、うむ・・・。」

蓮如はただ目をつむり、順如の言葉に頷くばかりでした。

順如は続けました。

「しかしながら、我々男衆では、女子の心が今一つ掴みきれない事も、多々あると存じます。『五障・三従の女人』として蔑まされてきた者には、我々の計り知れない事がございます。言葉にはできず、ただ胸の奥底に終うしかない事だと感ずるのです。そのような女子には、やはり女子にしか掛けられない言葉があるのではないでしょうか?」

「うむ、儂もそう思うておる。順如も知ってはおるじゃろうが、儂の母君はのぉ、儂が6つの時に寺を去っていったのじゃ。儂は訳がわからんでのぅ、悲しゅうて悲しゅうて、でも父上の前で涙は見せられず、教学にただただ励むことが母君に逢えるという近道じゃと思うておったんじゃ。しかしじゃのぅ、今では、飯炊き女として寺に居った母が、嫡妻を迎える父上に対しての心の優しさじゃと、そう思うておる。」

蓮如の母は、蓮如の父「存如」の妾として本願寺に居て、正妻を迎えるにあたり、当時京で一番の腕前という絵師に、六歳の蓮如の姿を書いてもらい、その絵を胸に終い入れ、

「願わくば児の一代に(親鸞)聖人の御一流を再興したまえ」(蓮如上人遺徳記)

と言い遺して本願寺を出ていかれたとされています。

後に蓮如は、その絵師を探し出し、同じ絵を書いてもらい、母の消息を探していました。

「のぅ順如、儂はお勝に、母と同じ匂いがすると思うておるんじゃ。」

「と、云いますと・・・」

「順如が生まれる前なんじゃが、儂は母に、逢いとぉうて逢いとぉうて、いろいろ聞いて回ったんじゃが、母がどのような経緯(いきさつ)で寺に来たのか、どのように生まれ、どのように生きてきたのか、さっぱり解らんかった。公家の出でもなく、武家の出でもなく、生きるために寺に入り、そして儂を生んでくれたのじゃ。」

「・・・。」

「儂が母の事で覚えておるのは、素敵な着物を着せてくれた事。じっとして居れと絵師に言われておった事。そして、書かれた絵の事は覚えておらんかったが、母が儂の体を強く抱きしめてくれた事じゃ。今思えば涙を流して居ったような気がするのぉ。」

「さようでございますか。」

「今じゃから話せるのかもしれんが、あの時、母のそばに、母の気持ちを汲んでくれる者など、誰も居らんかった。幼い儂には母を助けるなんて気持ちなぞ、湧いてくる事もなかったしのぉ。生きていて辛いと思うのは、人は誰しも同じかもしれんが、女衆のほうが男衆より、はるかに辛いと感じながら生きておると儂は思うておる。」

「父上・・・。」

「お勝もそうじゃ。父の顔も知らんという。寝る場所もなく母者と京を転々としながら暮らしてきたそうじゃ。

見玉と同じ年でありながら、見玉よりもずっと年が上に見えんはせんかのぅ?

それだけ、苦しみや悲しみを乗り越え生きておるんじゃと、生きて来たんじゃと、そう儂は思うておる。」

順如は蓮如の言葉を聞きながら、深く頷くのでした。

後に蓮如は、文明四年に吉崎を訪れた女性一行に伝えた事として、御文(御文章)にこう書き残しています。

(原文)「なにのやうもなく、ただわが身は十悪・五逆、五障・三従のあさましきものぞとおもひて、ふかく、阿弥陀如来はかかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまゐらせて、ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまふといへるはこのことなり。」(五帖御文第一帖第七通-抜粋)

この御文には、『何の計らいもなく、ただ我が身は、十悪・五逆・五障・三従の浅ましい者であると思い、深く阿弥陀如来は、このような私たちをお助け下さる救いの御姿であると心得、ふた心なく弥陀をお頼み申し上げて、お助け下さいと思う心が一念起こるならば、その時かたじけなくも、如来は八万四千の光明を放たれて、この身を救い取って下さるのです。弥陀如来が念仏の業者を摂取されるというのはこのことです。』と書かれてあります。

(自分の罪の深さを感じれば感じるほど、益々自分は救われる事はないのであろうという思いが強くなり、救われる事への希望が完全に断たれた時に、阿弥陀如来の本願が真実であると確信し、如来の仏恩に報謝しようとする思いがおのずと湧きあがり、念仏するようになるのである。)

この時代、正に虐げていた女性軽視への差別は、仏の前ではありえないという、蓮如が説いていた「女人救済」の原点が、ここにあります。

自分の生い立ちを含め、乱世の中で生き抜く女たちへ、蓮如の教えが広く広がっていった事は云うまでもありません。母と別れ、妻と別れ、子どもと別れ、その全ての経験から蓮如は大きく立ち上がっていったとも言えるでしょう。

 

文明四年(一四七二年)八月、見玉は多くの人に見守られながらこの世を去りました。

二十六歳という若さで命を絶ったとはいえ、見玉は不満ひとつ言わず、幸せな笑顔でこの世を去っていったのです。

本願寺という貧しい寺に生まれ、幼いうちから口減らしのためにその寺を離れ、血で血を洗う惨劇となる京の町を転々としながら生きてきた見玉。その中でも、たくさんの人々に助けられてきた事に感謝をし、「お勝」という心の通じ合った友と出会い、病魔と闘いながらも、父蓮如を慕い敬い、民百姓に希望と勇気を与える姿が、そこにはありました。

またひとり、自分の身内がこの世を去るという悲しみに包まれた蓮如は、どう思っていたのでしょうか?

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明治時代の「見玉尼」墓地


その後蓮如は、見玉の言葉を大切にして、下働きとしてやって来た「お勝」を正式に妻として迎えました。法名に「如勝」と授け、蓮如の身のまわりの事はもちろん、弟子やその女房たちの力となって、北陸の「吉崎」という地で、蓮如の妻として生きていく事になったのです。

賤民と呼ばれた下級階層の女性ではありましたが、蓮如の子ども達をはじめ、親戚や弟子達、そして村人たちの誰一人、蓮如の妻になる事を反対する者はありませんでした。

そして蓮如はまた、母の面影を持つ「如勝」を妻としたことで活力が得られ、教えを広め、益々門信徒を増やしていく事になったのです。

多くの門徒達を持った事で、本願寺蓮如の力は大きくなったと言えますが、蓮如本願寺の再興を願い活動を活発にしていきます。しかし、蓮如の意とは別に、政治に対する不満は大きくなり、各地で「一向一揆」という争いが勃発していきます。

北陸に来てからの蓮如を支え続け、「吉崎」での地位を高め続けていた弟子の「蓮崇」(心源)は、蓮如の意を伝えることなく、一揆を治めず先導するような言葉を各地の村人たちに送っていきます。その心中には、「如勝」となってしまった「お勝」への恋慕がありました。そして、蓮如に破門されてしまいます。

蓮如が吉崎滞在中に、加賀の国の富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入してしまいます。翌年には富樫幸千代を倒した事によって、守護の保護を受ける事を期待していましたが、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明七年(一四七五年)に門徒の弾圧を開始します。そしてその年の八月、室町幕府からは「一揆の責務は蓮如にあり」とみなされ、蓮如は北陸の地からも退去せねばならなくなっていったのでした。

富樫政親に反発した門徒達は、長享二年(一四八八年)、守護職に富樫泰高を擁立して、政親を高尾城に滅ぼしました。「長享の一揆」と呼ばれるものです。それ以降、約百年間、加賀の国は「百姓も持ちたる国」として名を広げ、浄土真宗門徒たちの力は、各地の権力者たちに恐れられていくことになります。

蓮如の「吉崎」滞在は四年三か月だけでしたが、この地での暮らしが一番幸せだったともいえるかもしれません。蓮如の認めた御文は、約二百六十通以上が現存しています。その中で身内の死について書かれたものが二通あり、それは、「見玉尼」と「如勝」の事です。如勝は吉崎を去った四年後、三一歳で没しています。

御開山様と呼ばれる「親鸞」の教えを解りやすく広め、「本願寺再興」という目的を持った蓮如には、この北陸の地での想いは、この二人の女性とともに消えるものではなくなっていたのです。そしてまた、北陸の民百姓には、蓮如が植え付け育てた「念仏の心」が今だなお、生き続けているのです。

『夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき』 (蓮如

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その17】

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吉崎御山古図


見玉尼は蓮如の次女です。蓮如の最初の妻「如了」の子で、蓮如法主になったのは四十三歳、彼女が十歳の時でした。しかし、その頃彼女はすでに本願寺にはいなかったのです。

当時の本願寺は大変貧しいお寺であり、長男である彼女の兄「順如」以外は、幼くして口減らしのために他のお寺に預けられていたのでした。見玉もまた、七歳の時禅宗の寺に「喝食(かつじき・かっしき)」として奉公に出ていたのです。その後、蓮如の姉「見秀尼」のいる「浄土宗鎮西派浄華院吉田摂受庵」に移りましたが、本願寺が焼打ちに遭ったあとは、蓮如の二番目の妻で「如了」の妹である「蓮佑」と幼い兄弟、そして仲が良かったけれど離れ離れの成っていた「如慶」も「摂受庵」に移り住むことになったのでした。

しかし、応仁の乱が始まり、京の町が焼け野原と化した後は、皆とともに本願寺ゆかりの人たちの下を、転々としていたのです。

その間、叔母でもある蓮如の二番目の妻「蓮佑」を、そして妹である「妙意」を、また一番仲の良かった姉「如慶」を、次々と見送る役目となったのでした。

その時代、生きていく事がやっとだった時代に、家族がバラバラとなり、次々と亡くなっていく姿を見ていた見玉の心は、一体どのようなものだったのでしょうか?

今ここに、見知らぬ北陸の地へ、父を追い求めてやって来た「見玉」とって、父と暮らせることが、幸せの始まりだったのかもしれません。

蓮如が、越前と加賀の国境にある「吉崎」という地に坊舎を建ててからというもの、吉崎を訪れる人々が後を絶たないようになりました。七、八軒の漁師町は、見る見るうちに膨れ上がり、浜には毎日「市」が立つようになっていったのでした。

それによって財を得たものは、「蓮如さまのおかげ」と称し、布施という形で蓮如の下へ届け、蓮如はそれをまた民に戻すべく、色々な仕事を貧しいもののためにさし与えたのでした。そしてまたそれが北陸に住む貧しい者たちにとって新たな恩恵となり、「吉崎」の地は栄えていくのでした。

朝、昼、晩と蓮如聴聞を受けようと寺の境内は人であふれる中、蓮如は弟子たちと一緒にその対応に追われていく事になりましたが、嫌な顔一つ出さず、民百姓との会話を楽しみながら、蓮如は日々を過ごして行きました。

「お父様、先ほどの聴聞では、皆わかりやすうて楽しかったという声を耳にしましたが、どのようなお話でしたのですか?」

一休みしていた蓮如のそばに、見玉尼とお勝が茶を持ってやってきました。

「見玉か、今日はのぅ御開山様(親鸞聖人)のお言葉を儂なりに話してみたのじゃ、お勝も聞いておったのじゃろうが、どうじゃった?」

見玉尼のそばでお勝は、「抜苦与楽のお話でございますか。」

「そうじゃ、そなたはさすがに良く学んでおるのう、嬉しゅう思うぞ」

蓮如が笑みを浮かべ、嬉しそうに話しだしました。「人というのは生きていく上で、たくさんの苦がある。四苦八苦などと言うが、そのために仏法があるんじゃ。人から苦を厭い、楽を与えよとな。」

見玉とお勝は蓮如の話に聞き入っていきました。

「人が生きて行く道は、『苦しみの花咲く木』とも言われておる。一つの苦しみから脱するために枝を切って楽になったとしても、また次の枝から苦しみの花が咲くんじゃ。だからその根を切ってやらねば苦は断ち切れんのじゃな。では見玉、そのためにはどうするのじゃ?」

阿弥陀様の御慈悲にすがる事でございます。」

「そうじゃ、それをお勝、何と云うか知っておるのぅ」

阿弥陀様の本願、でございましょうか・・・」

「そうじゃそうじゃ、そのために聴聞が大切なんじゃ・・・。」

楽しそうに話している三人の下に、坊官で本願寺の重鎮である下間法橋と心源がやって来ました。

「台下楽しそうでございますなぁ」

笑顔の法橋に、「おう法橋か、乗専はなんと云うておった?」

「心源が望んでおる事ゆえ、蓮如さまのそばに置いてやってほしいとの事です。」

「そうかそうか、それで良いのじゃな心源?」

「ありがたいお言葉でございました。これからもよろしくお願いいたします。」

越前に来た蓮如は、不慣れな地のために道案内として同行した心源を、本当の弟子として受け入れるため、法橋を和田本覚寺に行かせ、本覚寺の蓮光を通じ、心源を真宗の道へ誘い込んだ乗専の許しを得たのでした。

「ではのぅ心源、今日より法橋の下に預けるゆえ、名を蓮崇と名乗るがよい。」

「下間蓮崇でございますか、かたじけのぅございます。」

下間蓮崇と名乗る事となった心源は、吉崎御坊では重官となって蓮如を支えて行く事になるのでした。蓮如は蓮崇を自分の右腕とし、門徒や民百姓との橋渡し役として働いていきます。蓮如の教えに陶酔し、蓮如もまた蓮崇の働きを信じ切っていた二人の仲は、この三年後に壊れていく事になるのですが、この時の二人には全く考える余地はありませんでした。

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小女子「吉崎のこうなご」(むかしばなし)


ある日のこと、浜坂浦の漁師「喜八」が蓮如の下を訪れます。

蓮如さまぁ、近頃さっぱり魚が取れねぇんでございます。何とかお力をお貸しできねぇですかのぉ。」

その時蓮如は、

「お前たち猟師はのぉ、魚を百匹捕ったら、全て食べてしまうじゃろう。それじゃぁ魚もたまったもんじゃねぇし、魚が増える事はないじゃろうて。じゃからのぉ、二匹だけは離してやってはくれまいかのぉ。生きているのは儂ら人も魚も同じじゃからのぉ、皆、阿弥陀様のおかげで生きておるんじゃからのぉ、忘れんでおくれよ。」

現代では当たり前の事だが、限りある資源の大切さを、蓮如は仏法として教えていくのでした。

この後この話は「吉崎の小女子」伝説として語り継がれていくわけですが、蓮如法話が人々に広がりを見せた要因の一つとして、身近な動物をも題材として仏法に取り込み、判り易く話していくという事があげられるのです。

それゆえ、字もろくに読めなかった民百姓が、蓮如の教えに耳を傾け、念仏を唱え、蓮如の力になろうとする人々が増えていったのでした。

そんな中困った事が起こります。

「台下、蓮綱様がお見えです。」

蓮如の下へ竜玄が伝えに来ました。

蓮綱は蓮如の三男で、加賀波佐谷に松岡寺という寺を建立し、その地で蓮如の教えを広めていました。

「父上お久しぶりです。吉崎に久々に参ったのですが、何ともすごい人で驚きました。」

「おぉ蓮綱久しゅうのぉ。波佐谷も信心決定のため、大勢の民で溢れかえっているそうな、嬉しゅう思うぞ」

「ははぁっ、ありがとうございます。しかしですが、ちといざこざが起こりまして、是非父上のお力をお貸しいたしたくて相談に参ったのでございます。」

そう云うと蓮綱は、加賀で起こっている話を伝えたのです。

元々加賀の国には、白山信仰を掌る神社仏閣があったのですが、先祖伝来の信仰を疎んじ、蓮如の教えに帰依するものが徐々に増えて行き、各地で対立が起こっていたのでした。

この争いはやがて北陸一円に広がっていく事となります。応仁の乱以降、将軍家の権力が弱まり、また各地で荘園制度が壊れて行くにつれ、その制度を守ろうとする神社や仏閣の多くが、広がっていく蓮如の教えに対し恐怖を抱いていたのです。

一向一揆という浄土真宗門徒達の造反もまた、守護や地頭という旧来の日本の有り方をも変えていく事になり、世の戦乱の広まりとともに日本中に広がっていく事になるのです。

他宗との諍いが広まる中、文明五年の九月に、蓮如はこの様な御文(御文章)を各地に送っています。

(原文)「抑(そもそも)、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まず越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに『唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)とこそ、これをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗(ほう)ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まず八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、『自法愛染故毀呰他人法 雖持戒行人不免地獄苦』といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」(五帖御文第一帖第十四通)

この時代に蓮如は、本願寺門徒が他宗を謗る事があってはならないと、「無量寿経」の文を引いて厳しく戒め、また他宗の人々も念仏者を謗ってはならないと、いわゆる八宗の祖と言われる龍樹の「大智度論」の文を引いて述べているのです。

蓮如の吉崎進出は、当然のごとく既存の寺院との間に摩擦を生じ、互いに相手の法を謗り合うという事が行われていました。

本願寺門徒に限らず、他宗の教えを謗ることは、その謗った相手の教えもまた仏法に基づいているゆえ、仏法を非難する事になります。この仏法に対する非難は、仏教の存在そのものを根底から揺るがすことになるのですから、最も重い罪とされるのです。それにもかかわらず、自分の信ずる法に愛着して、それと異なる、他人の信ずる法を謗るという行為は、自己に執着する私たちだれもが犯す過ちであるので、蓮如は強くこれを戒めたのでした。

白山がその名のとおり雪で白くなりはじめる頃、蓮如は蓮綱に連れだって加賀波佐谷へ向かいました。

「父上、お気をつけて」そう話す見玉の横にはお勝が、深々と頭を下げて見送りました。

吉崎に根をおろし、北陸布教へと歩き回る蓮如。五十七歳を過ぎて今まだなお、蓮如の布教活動は休む間もなかったのです。

そしてその心の奥底には、全ての民が幸せに暮らせることを、ただただ祈るだけなのでした。

文明三年(一四七一年)、京都から逃れてきた蓮如が、越前と加賀の国境にある「吉崎」という地に坊舎を建て、初めての冬が訪れました。

多くの参詣客や弟子たちの対応に追われながらも、幸せな時間は過ぎて行きます。

いつものように庭に出て、海を見ながら物思いに耽っているとお勝がそばに寄ってきました。

「お寒ぅございませんか?」

「お勝か、風は冷たいがのぅ、これも生きているという証じゃ。都では見られん景色がここにあるように、儂にもいろいろ考えねばならん事があってのぅ、寒いなど感じる事も忘れておったわ、はっはっはっ・・・」

笑いながらお勝に答えました。

坊舎の庭から見る景色が、蓮如はたまらなく好きだったのです。

湖にほんのり浮かぶ「鹿島」、そのむこうに日本海が臨む姿には、蓮如の心を落ち着かせる何かがあるのでした。

貧しく小さな「本願寺」という寺に生まれ、妾である母と六歳の時に別れる事になり、新しい母の仕打ちに虐げられながらも成長してきた蓮如には、苦労という意味も解らず、生きているという現実のありがたさだけが、身に沁みついているのでした。

「ところでお勝、この地での暮らしには慣れたのかのぅ。」

「もちろんでございます、滋賀の海とは違い、北風は寒ぅございますが、皆優しい方ばかりで、毎日が楽しくて仕方がないのです。笑いあって過ごすということが、こんなにも楽しいと、生まれて初めて知り得たのですから。」

お勝もまた、苦労という意味も解らず成長した女でした。当時の日本では、奈良時代からの律令制度のより、民衆を良民と賤民(せんみん)とに分けられていました。その賤民として生まれたお勝は早くに父を亡くし、母と八つ違いの姉の三人で、日々の暮らしだけを考える毎日を過ごして育ちました。

そんな彼女が、本願寺の焼打ち(寛正の法難)から、離れ離れに暮らしていた蓮如の家族を知るきっかけとなったのが「応仁の乱」でした。京の町を焼け野原と化したこの戦いで、幼なじみの「見玉」を頼って身を寄せた寺で、蓮如と出会い、家族の温かさを知り得た事が、その時の彼女には、人生の全てだったのです。

北陸の冬は長い。

どんよりとした空、冷たく肌に突き刺さるような風、暗雲立ち込める中で響く雷の音、そして空から舞い降りてくる白い光を放つ雪。その雪の美しさは、時として白い悪魔となり人々の暮らしを悩ませる。その全てを、蓮如たちは新鮮に受け止めていた事でしょう。

庭にうっすらと白い雪が広がったある日の朝、蓮如はいつものように海を眺めていました。

「台下(蓮如のこと)、風邪をひきますよ、中へお入りください。」

「竜玄か、心配無用じゃ。ここへ座ってみるがよい。」

そう云って、石に座る蓮如の横に座らせるのでした。

「どうじゃ、温く感じるじゃろう。」

「はい確かにそう云われると・・・」

「先だって、彦左衛門が石工を連れて来てのぅ、儂がいつもこの石に座っているのを見て、座りやすく平らに削ってくれたんじゃ。すると、座り心地はもちろん良くなったんじゃが、妙に温く感じるようになったんじゃ。」

「それは気のせいでは・・・」

「そうかもしれんが、その気持ちが嬉しゅうてのぉ。」

蓮如は笑顔で竜玄に話しました。

慶聞坊竜玄、金森(今の滋賀県守山市金森町)に住む道西の甥で、蓮如の人柄に惚れ、自分の代わりに蓮如のそばに居てほしいという気持ちから、蓮如にすべてを預け、そして竜玄もまた、蓮如とは苦楽を共にし、心酔していったのでした。

「竜玄、ところで道西殿はたっしゃか?」

「はい文によると元気にしておるようです。もう七十を超えたというのに、田畑を耕し続けております。」

「そうかそうか、道西殿の事じゃ、荒れた田畑を見るのが嫌なんじゃろうのぅ。天地全てのものから、儂らが生かされているという事を、本当に解っておるからのぅ。儂も見習わねばのぅ。」

「台下のお顔を見たくて、仕方がないみたいです。早く京へお戻りにならねばなりませんねぇ。」

「そうじゃのぅ、三井寺に預けた御本尊も気になるしのぅ。本願寺の再興を願い、いろいろ動いてはいるのじゃが・・・」

「順如様も大変でございます。」

順如は蓮如の長子であり、寛正の法難以降、実質本願寺の寺務を掌っていたのでした。幕府をはじめ、有力大名とのパイプ役をも務めていて、蓮如が北陸の地へ下がったのは、自身の首に賞金が掛けられるほど敵が多くなり、その矛先が本願寺ではなく自分自身にあると、世間の目を「北陸にいる蓮如」に向けさせる為だったので、本願寺の再興を願い、順如は蓮如と連絡を取りながら動いていたのでした。

国指定史跡「吉崎御坊跡」には、今もこの「お腰掛けの石」が残されています。文明六年(一四七四年)に描かれたとされる「吉崎御坊絵図」には、蓮如と思われる僧がこの石に座り、弟子二人とともに会話をしている姿があります。そして蓮如は、この石に座り、多くの民百姓のために法話をし、多くの和歌を詠んだとされています。

『鹿島山 とまり烏の声聞けば 今日も暮れると告げわたるなり』

この蓮如の歌を頭に描き、光陰のごとく過ぎ去る毎日に感謝をし、明日への活力を産み得た場所が、正にこの石の上からだったのではないでしょうか。

「吉崎七不思議」のひとつに、この「お腰掛けの石」の逸話があります。

『どんなに多く雪が降ってもこの石の上には雪が積もらず、また、この石に雪が積もったとしても、その雪は不思議なくらい早く溶けてしまい、雪深い時でもこの石をいつも見つけられる。この石には、蓮如さんの温かさが染み着いている。』と・・・

パレードを見ていて・・・

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191110-11100753-nksports-soci

テレビを見ない自分なのだが、ネットで天皇陛下の即位パレードの記事ばかり見ている。

なんとなく「嬉しい」。

そして、やたら涙が出てくるのは、何故だろう。

改めて日本人だ!!!と感じてもいる。

天気も良くて良かった。

 

 

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即位の礼パレード

 

平和な日本、もちろん、この国への不平不満もたくさんあるけれど、

今日はただ、ただ平和に感謝し、祖先に感謝し、両親に感謝し、
今まで出会った人たちに感謝し、いろいろお世話になった人に感謝し、
神や仏に感謝し、生きている事に感謝している。

 

お金はないし夢もないし、毎日無力感を感じながら生きているのだけれど、

何かしら嬉しくて、気分がよくて、明日に希望の持てる一日となった。

 

天皇陛下万歳」と小声で言う自分がいる。
日本人だけでなく、地球上のみんなが、幸せになれる日を祈って止まない。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その16】

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馬場大路からの景色


蓮如を吉崎の地で出迎えた「法敬坊順誓」、加賀の国松任生まれのこの男と蓮如の出会いは、吉崎建立から二十五年ほど前のことでした。

蓮如は、父「存如」と三度目の北陸下向を行っていました。その時、行く先々の村々を廻り布教活動をして歩いていたのです。

ある村でのことです。

厳つい顔をした若者が、せっせせっせと麦刈りをしていました。

若者の名は「作治」、この村の長の息子で、働き者で親孝行者。けれど村では一番の乱暴者として名が通っていました。

たまたま、そこを通り過ぎた蓮如は、何かを感じたのです。そして蓮如は、その男の傍へ寄っていき語り掛けました。

「忙しゅうところ、しばし儂の話をきいてくれんかのぅ。」

「なんじゃぁ坊さん、儂は今、麦刈りで急いでるんじゃ、話なんぞ聞いてる暇などねえぇ。」

「儂は京から来たんじゃが、汗流して働くおぬしをみてのぉ、何とかして儂の話を聞いてもらわにゃと思うたんじゃ。」

「坊さんの話を聞きたいなんざぁ思うとらんでのぉ、はよぉあっちゃ行けやぁ」

「そうかそうかそれじゃあな、儂が手伝って、この麦を刈るからのぉ、捗がいったならば、たとえ少しでも儂の話を聞いてくれんかのぉ」。

その時作治は、『こりゃあうまいこと、この坊主手伝わして、今日の仕事を早く片付けることがでける』と喜んで、蓮如に鎌を持たせました。

「さぁ刈らっしゃれ」作治は思っていました。

『この広さ、どっちみち今日中には仕舞われないでの』

蓮如は自分の話を聞いて貰いたいばかりなので、己を忘れて一生懸命、今迄一度も刈ったことのない麦を、次から次へと刈り取っていきました。

作治も、汗を流し流し、蓮如に負けじと刈り取っていくのですが、その速さに付いて行こうとしても蓮如には適わなかったのです。

そうして麦が全部刈られたわけですが、いつもなら三日かかっても出来なかった広さの麦を、たった一日で、しかも陽がまだ高いうちに刈り取る事ができたことに作治は驚き、突然、懺悔の涙に暮れました。

『ハァァーッこのような俺が長い間百姓やっていても適わんということは、これは唯人じゃない、儂に仏法聞かしょう為に死に物狂いで刈ってくれたんじゃ』と、頭を下げて蓮如に言いました。

「坊さんすまんのぉ、いつもは三日もかかるこの畑を、こんなに早く刈る事ができるなんて夢のようじゃぁ。」

そして、田んぼの畦道に腰掛けて、

「じゃあ聞かして下され。坊さんの話をのぅ。」

それから蓮如は作治に、弥陀の本願、南無阿弥陀仏の謂れを、わかりやすく、そして面白おかしく話をしていったのです。

そして段々と時がすすむにつれ、作治の眼から涙があふれ、顔つきもやわらかくなっていきました。日々の暮らしに追われる男に、新たな光を与える事ができたのでした。

その作治が蓮如の弟子となり、法敬坊順誓を名乗る事になったのです。

それから、毎年加賀の国から麦がたくさん京の本願寺に届くようになり、貧しい本願寺を支えて行く事になったのです。

 

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国指定史跡「吉崎御山」

http://www.city.awara.lg.jp/mokuteki/education/kouminkan-n/komin-yoshizaki/oshirase/oshirase/p000467.html
文明三年(一四七一年)、夏真っ盛りの小高い山に、小さなお堂が出来上がりました。

その時、海からの風は涼しく、携わった大工や大勢の人たちにその風は、本当に新鮮で、大きな夢をなびかせるものでした。

蓮如さま、ついに出来上がりました、これからでございますね、北陸でのお勤めは・・・」

十歳から蓮如のそばにつき、苦楽を共にしている慶聞坊竜玄が云いました。

「竜玄、本願寺が山門衆の焼き討ちにあってから、いろいろ世話をかけたのぅ。でものぅ、まだまだ楽は出来まい。そちにもまだ働いてもらうぞ、よいのぅ」

五間四面の御堂の前に、蓮如と弟子たちが集まりました。竜玄や法敬坊順誓をはじめ、蓮如の四男蓮誓、そして越前入りしてから道案内をして吉崎に来た心源。地元の豪族であり、吉崎の地を治めていた大家彦左衛門も笑顔を浮かべてその中にいました。

本願寺蓮如の北陸での布教活動の拠点が、今、完成したのです。

その当時の吉崎の地を知るにあたり、蓮如の一通の御文(御文章)があります。吉崎に御堂が建立された二年後、文明五年(一四七三年)九月の御文に、こう表されています。

『文明第三、初夏上旬のころより 江州志賀郡(ごうしゅうしがのこおり)大津三井寺(おおつみいでら)南別所辺よりなにとなく不図しのびいでて、越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。

よつて当国細呂宜郷内吉崎といふこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して、昨日今日と過ぎゆくほどに、はや三年の春秋は送りけり。

さるほどに道俗・男女群集せしむといへども、さらになにへんともなき体なるあひだ、当年より諸人の出入を とどむるこころは この在所に居住せしむる根元は なにごとぞなれば、そもそも人界の生をうけて あひがたき仏法にすでにあへる身が、いたづらにむなしく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。

しかるあひだ 念仏の信心を決定して 極楽の往生をとげんとおもはざらん人々は、なにしにこの在所へ来集せんこと、かなふべからざるよしの成敗をくはへをはりぬ。

これひとへに 名聞利養を本とせず、ただ後生菩提をこととするがゆゑなり。しかれば見聞の諸人、偏執をなすことなかれ。あなかしこ、あなかしこ。』

 [帖内御文 第一帖第八通 文明五年九月]

(意訳)文明三年初夏上旬の頃より、江州志賀郡大津三井寺の南別所あたりから、何という目的もなく、にわかにこっそりと出立して、越後・加賀のあちらこちらを巡り歩きました。

そうして、当越前国細呂宜郷の内、吉崎というこの土地がとりわけすばらしいところでしたので、長年、獣が住むような荒れた土地であったのを切り開いて、 七月二十七日より形ばかりの一宇の坊舎を建立し、昨日、今日と過ぎゆくほどに、早くも三年の月日を送りました。

こうしているうちにも、この吉崎へ、道俗男女の人々が群がり集まるようになりましたが、全く何の甲斐もない様子であるので、今年より人の出入りを禁止することとしました。

この吉崎の地に暮らしている理由は何かと言えば、そもそも人間界に生を受けて、遭い難い仏法にまぎれもなく出会った身が、無益にむなしく地獄に沈むようなことは、本当に嘆かわしい事ではありませんか。そのように思ってのことです。それゆえ、念仏往生の信心を決定(けつじょう)して、極楽への往生を遂げようと思わない人々は、どうしてこの地に集まってこられましょう、そのようなことは許さないと処置を与えたのです。

この吉崎に坊舎を建立した理由は、世間的な名誉や利益の追求ではありません。これもひとえに、後生の菩提だけを願ってのことです。ですからどうぞ見聞きなさる人々よ、身勝手に悪く言う事がありませんように。あなかしこ、あなかしこ

 

ついに、吉崎に坊舎を建てた蓮如の下に、これから多くの人々が集まるようになっていくのですが、その人々の心は、蓮如の理想としているものではなく、現実にそれを知るにつれ、蓮如は益々布教活動に励んでいく事になっていきます。

あくまでこの「吉崎建立」は、蓮如の人生の通過点ではあり、波乱万丈の中で、ささやかな幸福感を与えてくれた暮らしなのでした。

 

その頃、琵琶湖のほとりの堅田では、旅支度に追われる一行がおりました。

「姉上、これでよろしいでしょうか。」

「実如、荷はなるべく少なめになさい。越前の国へは、険しい山道が多いと聞きます。女や子どもが、ゆっくり歩いて行けるような所ではないのですよ。」

蓮如の次女見玉が、弟の実如にそう云いました。

「見玉様、儂たちも同行させて頂きますので、安心してくださいませ。」

「法橋殿、かたじけのうございます。越前の事を良く知っておられる本覚寺殿も追従していただけるとか、父上のもとへ早く参りたいと思うわれらには、何事にも代えられない強いお味方でございます、のぅお勝。」

「本当でございます。心強う思います。」

そばにいたお勝が頷きました。

本願寺家老職の下間法橋をはじめ、蓮如の子ども達が父を慕って吉崎へ向おうとしていました。離れ離れになって暮らしている家族が、吉崎の地で暮らす決意をしていたのでした。

文明三年(一四七一年)、蓮如が越前の北にある小さな「千歳山」に坊舎を建てひと月が経とうとしていました。小さな坊舎の横に庫裏なども建ち並ぶ様になり、「御坊」と呼ばれるようになりました。

ある朝、日が昇りはじめる薄暗い中で、蓮如は海を眺めていました。

そこへ慶聞坊竜玄がそばへ寄ってきました。

「台下(蓮如のこと)おはようございます、相変わらずお早くお目覚めですね。」

「竜玄か、ぬしも早いのぉ。」

笑顔を交わすふたり。夏も終わろうとしている頃だけに、少し肌寒く、海からの風は冷たく感じてはいたものの、この二人の温かい笑顔の周りには吹き込む余地もなかったかもしれません。

「竜玄、カラスの声を聞いたか?」

「はい、今少し前に・・・」

「明け烏の声を聞くと、夜を共にする男女にとってはつれなく感じるものじゃ。じゃがのぉ、儂には弥陀の叱り声に聞こえるのじゃ。はよぉ起きて仏法を唱えよとなぁ。」

「さようでございますか、台下が追手を恐れ、今までゆっくりと、眠る事もなくおいででしたので、やむを得ないことかと・・・」

「いやいやそうではなく、遠くで聞こえる海鳴りの音が、烏より前に夢の中で語り掛けてるのではと、儂は思うのじゃ。」

そして蓮如は和歌を詠んだのでした。

『浜坂の 山のあなたに打つ波も 夢驚かす 法の音かな』

浜坂というのは、北潟湖をはさんで吉崎の対岸にある場所で、やや大きな砂山で出来ている場所です。そしてその向こうには日本海がありました。

この頃、吉崎浦も浜坂浦も、小さな漁村でした。海へ出て漁をしながら毎日の生業としている村々だったのです。しかしながら蓮如がこの地に腰を下ろすと、北から南からと多くの人が入り込んできていました。浜から、小高い山にある蓮如の寺まで通じる道も、険しいとはいえ人が登りやすくなっていきました。その山もいつしか「御山」と呼ばれるようになり、弟子や訪れる人々の宿舎としての草庵が立ち並び、それは、多屋と呼ばれていました。御山は南北と西を湖水で囲まれていて、陸続きの東側には門ができ、山頂に続く道の両脇には、大坊主と呼ばれる蓮如の側近たちによる家が立ち並んだのでした。

それは、京にあった「本願寺」が焼打ちされてから、身を守るべく蓮如の経験から生まれた、一つの城塞としての働きを持つようになっていたのでした。三方を水で囲まれた御山は、自然の要塞として働き、そのうえ、御山全体を囲むように土塁をめぐらした姿は、民百姓の眼にはどう映っていたのでしょうか?

人のうわさは早いものです。

『北陸の吉崎という地に、京から来た偉い坊さんがおる・・・』

そのうわさを聞きつけ、越前北部や加賀の国からのみならず、白山山麓の村々や越中・越後から、次から次へと蓮如に会いに来たのでした。その対応に追われながらも、次から次へと蓮如に帰依する人が増え、蓮如の弟子となり吉崎に住む者も増えて行ったのでした。三方を水で囲まれていた事で、陸路から訪れるものより船を使って訪れるものが多く、その際いろいろな品を一緒に持ってくるようになり、吉崎の浜では「市」が立つようになっていったのです。

北潟湖の湖水に、舟の行き来が多くみられるようになった頃、「慶聞坊竜玄」は湖を眺めていました。

「竜玄様、如何にされましたのでしょうか、このような場所で。」

「本向坊殿か、この地にはなれましたかな?」

本向坊とよばれたこの男は、この地の荘園を治めていた本覚寺に縁があるもので、古くから蓮如の教えに共感し、本覚寺を通じ蓮如の弟子となり、竜玄と共に蓮如の側近として吉崎で暮らすようになった者でした。

「台下のそばに使える事ができ、竜玄様のおかげで、無事に作務を終えられる毎日でございます。」

「それはそれは、良い事でございます。私も訪れる方々の対処に追われる身となり、台下のそばに、ずっと居られる事ができなくなりました。安心して他の作務に付ける事も、本光坊殿や皆のおかげでございます。」

そうして二人は、毎日の暮らしの事について、笑顔を交えて話しておりました。

すると突然竜玄が湖を見て、

「おぉ、あれかもしれんのぉ」

「何がでございます?」

「女人が乗っておられるじゃろう?赤子を抱いている女人もおられる。幼子も幾人か・・・、そして、その後ろに厳つい僧も・・・」

「はい、たしかに・・・」

「台下のお子様たちがお着きになられたのじゃ」

堅田に居られたという、お子様がぁ・・・ですか」

二人は走ってその舟の到着する場所へと向かった行きました。

 

「見玉様、よくご無事で。」

「法敬坊殿、ありがとうございます。これから世話になりますが、どうぞ良しなにお願いいたします。」

見玉達を出迎えたのは、法敬坊順誓と心源を含めた側近たちでした。

「見玉様、お久しゅうございます。堅田からの旅、さぞやお疲れの事と思います。

本覚寺殿はどうなされました?」

「越前に入ったので、一度自坊へ戻るとの事でした。法橋殿は歩いて参りますので、今暫くかと・・・」

「さようでございますか・・・」

そう語り合う二人の横で、二人に視線を落とさず、舟から下り荷物をまとめている子ども達を、じっと見つめる男を見つけ、

「其方は・・・」

「ははぁ、この僧は『心源』と申しまして、台下が越前入りしてから、ずっと共をしてきたものです。」

自分の名を呼ばれ我に気づいた心源は、

「心源と申します。お初にお目にかかります。」

「そう、あなた様が暴漢に遭われ山へ逃げ込まれ、道に迷うた父上をお連れしたという・・・かたじけのぅございます。」

見玉の語る事を上の空で心源は聞いていました。

それは、蓮如の幼子を連れて歩いてくる「お勝」のことが気になって仕方がなかったからでした。見玉同様、お勝にも心源は初めて出会ったのでした。