BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その15】

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山田光教寺(http://www.hb.pei.jp/shiro/kaga/yamada-kokyo-ji/


蓮如上人が吉崎入りする頃、近江で暮らす子ども達のもとに、下間法橋がやってきました。法橋は、法主と呼ばれる本願寺の長の一番身近にいて、それを助けていく立場の人でした。代々本願寺の家老職として勤めていて、宗祖である親鸞の弟子「蓮位坊」が祖先にあたります。

「見玉様、法橋でございます。」

「これはこれは法橋殿、いつもありがとうございます。今日も実如(蓮如の五男)の教学ですか?」

「いえ、今日は見玉殿にお願いがあって参りました。」

「そんなに改まって何事でしょう?」

「先ほど北陸に行っている竜玄から文がまいりまして、吉崎の地での坊舎がもうすぐ完成となるそうでございます。大家彦左衛門殿と法敬坊順誓殿が色々段取りをし、台下(蓮如のこと)が不慣れな吉崎の地で不自由なさらぬよう、用意をしておったのですが、台下の身の回りのお世話を、安心して任せられる人がどうしても見当たらぬという事でございます。まもなく、本覚寺の蓮光もこちらへ出向くことになっておりますが、見玉様に、是非とも越前に来てほしいとのことでございます。」

「父の・・・でございますか?」

「左様でございます。蓮佑さまが昨年にお亡くなりになり、本願寺が打ち壊され、流浪の身になったとはいえ、今まで台下は裏方を娶られず、今日に至っております。これからは、台下のお世話をするものが、吉崎の地には必要と考えまするだけに、加賀におります順誓殿も、いろいろと誰がよいかと考えたようにございます。」

蓮如の最初の妻「如了」は、康正元年(一四五五年)、病によって亡くなりました。

その頃の本願寺は大変貧しい寺で、蓮如は四一歳になっておりましたが、未だ法主ではなく、父「存如」の片腕として、本願寺の家系を助けていたのでした。

「如了」との間に生まれた子どもは七人、そのうちの一人が「見玉」であり、母が他界した時には、貧しいがゆえ本願寺を離れ、喝食(かっしき・かつじき)として他の寺へと奉公に出ていました。

「如了」亡き後、蓮如の妻となったのが、「如了」の妹であり、日野家の「蓮佑」で、正式に本願寺に迎えられたのは、「存如」の意向であったと言われています。まだ幼く、奉公に出せないでいる姉の子どもたちの面倒を見、蓮如を支えていた「蓮佑」が病で命を引き取ったのは、本願寺を焼け出された五年後の、文明二年(一四七〇年)で、その最期を看取ったのが見玉でした。

蓮如本願寺第八代法主となり、いろいろな改革をして本願寺を活気づかせていく事になりましたが、その反面、比叡山など他の寺から疎まれる事態に陥り、寛正六年(一四六五年)、山門衆によって本願寺が焼打ちに会い、家族は流浪の身になりました。蓮如との間に生まれた子どもは十人いました。その後応仁の乱が始まり、乱世を生き抜き、蓮如を助け、幼い子ども達のために生きた「蓮佑」は、本願寺再興のために犠牲になった一人なのかもしれません。

 

下間法橋が帰った後、見玉のもとに弟「実如」とお勝がやって来ました。

「姉上、法橋は何を言いに来たのですか?」

「実如、父のもとへ、越前へ、行ってもらえないかということでした。」

「それはきっと、父上もお喜びなさると思います。私も一緒に参りとうございます。」

「私も父のそばへ行きたいと思っております。しかし、まだ幼い佑心をはじめ、蓮淳や蓮悟などを置いて、越前へは行けません。どのような国なのか、全くわからない土地へ行くのも、不安でいっぱいです。」

その時、そばにいたお勝が云いました。

「見玉様、私も蓮如さまのもとへ行きとうございます。さすれば、佑心さまや弟君も一緒に連れて、皆で参ったらどうでしょう?」

「お勝嬉しゅう思うぞ。お前が来てくれるのなら、私も知らぬ土地で暮らしていけるかもしれんがのぅ。」

「見玉様、皆で参りましょう。蓮如さまと一緒なら、どんな苦労でもきっと耐えられると、お勝は思うております。蓮如さまを信じて、行きましょう越前へ・・・」

そこへ見玉の兄、順如が一人の僧を連れてやって来ました。

「見玉、久しゅうのう」

「兄上、お久しぶりです。」

実如が云いました。

「兄上、そちらのお方は?」

「そうか、お前とは初めて会うかもしれんのう、越前から来た和田本覚寺の蓮光殿じゃ。」

「蓮光でございます、実如様。」

和田本覚寺蓮光、越前の国河口庄の庄官の地位にあり、その地域の荘園を取り仕切る役目を持っていました。当時の吉崎は、河口庄細呂宜郷にあり、領主は大和興福寺でした。その荘官として、蓮光は務めていましたので、朝廷ともつながりを持つ人だったのです。

また、和田本覚寺は、本願寺ゆかりのお寺で、もとは高田派に属していましたが、応長元年(一三一一年)本願寺三世覚如の時代に、本願寺と深い関係になったと言われています。「本覚寺」の寺号は宝徳年間に名乗り、本願寺七世存如から授かったのです。

「見玉様、お初にお目にかかります。本日は、是非見玉様に、越前の国へお越しいただきたく、お頼みに参りました。」

「蓮光殿、わざわざ近江までお出で頂き、ありがとうございます。先ほど下間法橋殿が来られ、お話をお聞きいたしました。父上のそばに使えよという言葉、本当に嬉しゅう思います。しかしながら、弟の事や不慣れな地での暮らしの不安もございまして、迷うておったところです。」

「いかにも左様でございましょう。雪深い地であり、本願寺とは無縁の方ばかり。それに、蓮如さまに対する不穏な動き、越前の国も同様でございます。しかしながらこの蓮光、蓮如さまの教えに陶酔しており、北陸に来ていただけるという事で、色々な方々と話し合っておりました。それゆえこの度、河口庄吉崎に坊舎が建てられ、そこを根城に教えを被って頂けることに喜びを感じており、もしもの事がないよう万全を期してきたつもりでございます。弟君たちをも是非越前へ参って頂き、蓮如さまのお傍にいて頂きたい、ただそれだけを願うものでございます。」

そして蓮光は、蓮如から学んだことの素晴らしさ、教えられた事を色々見玉達に話していきました。応仁の乱以降、この日本という国が争いの国になってしまった事、権力を持つものが、いつしか民百姓のありがたさを忘れ、毎日の暮らしに怯え、いつ死ぬかわからない人が、一番求めているものをも忘れてしまっている事を、切々と話していったのでした。そしてそれはまるで、蓮如が語り掛けてくるそのものだったのです。もちろんそれが、見玉達が吉崎へ移り住むための「安心と希望」を訴えている全てに聞こえていたのでした。

一方、越前を通り過ぎ、越中瑞泉寺から吉崎へ向かった蓮如一行は、加賀の国に入り、大聖寺川を下り、鹿島を望む「竹の浦」という地で船をおりました。

「ここは加賀の国と越前の国の境にありまして、応仁の乱以降、朝廷の手は全く届かない地でございます。海にも近く、たいへん暮らしやすい土地で、この地をまとめている豪族が、大家彦左衛門殿でございます。」

蓮誓がそう云いました。

「彦左衛門の屋敷があるという事じゃな。なるほどここなら海へ通じる場所であり、人をつなげるように、海と山をつなぐ、いい場所じゃ。」

蓮如がそう答えると、山手から人が降りてきました。

蓮如さま、よくご無事で・・・」

「久しゅうのぅ、順誓この度は世話になったのぅ」

蓮如を出迎えたこの男、法敬坊順誓と言い、加賀松任の生まれで、かつて存如蓮如が北陸行脚をした時、たまたま耳にした蓮如法話によって本願寺に帰依し、蓮如の弟子として貧しい本願寺を支えていたひとりでした。今回の蓮如の下向に際し、北陸一帯をくまなく調べ上げ、吉崎に足を下ろすための準備を行っていたのでした。

また、幼くして北陸の地に来た蓮如の三男蓮誓は、大家彦左衛門と同様に、この順誓の力も借りながら日々を暮し、蓮如が来るのを待っていたのでした。

蓮如さま、もう吉崎の小山に、坊舎を建てる用意が整っております。十日もかからず、宿坊は出来上がるはずでございます。」

「そうか、すまぬのぉ順誓。儂は本当にそなたと出会ったことを幸せじゃと感じておる。」

「何をおっしゃいます。順誓の方が蓮如さまから頂いた恩を、嬉しく思い生きているのでございます。」

乱世であり、また大飢饉によって多くの人が命を落とすこの世にあって、仏の教えを通じ、人と人が信頼しながら生きていく事の大切さを、蓮如と順誓は思っているのでした。この順誓だけでなく、これから吉崎を訪れる人々が、この蓮如の言葉に助けられていくのです。

時は文明三年(一四七一年)七月二七日、河口庄吉崎の小高い山「千歳山」に、鍬入れの音が鳴り響きました。それは平和を望む、吉崎御坊建立の音色なのです。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その14】

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蓮如上人子守唄(https://openmatome.net/matome/view.php?q=14900428216258


蓮如には数多くの弟子がいました。そして、部屋済みの時代であっても、蓮如の魅力に取りつかれ、父存如よりも蓮如法話を聞くことが好きになり、蓮如に陶酔して行った門徒も数多くいました。そのような弟子や門徒達がいるおかげで、政犯として賞金のかかった蓮如の子ども達は、琵琶湖のほとりに匿われ、静かな生活をしていたのでした。

「優女(やしょめ) 優女 京の町の優女 売ったるものを 見しょうめ~」

蓮如の子「佑心」を背負いながら、お勝が歌を唄っていました。

「お勝もいつの間にか歌えるようになったのですね。」

微笑みながら見玉がそばにやって来ました。

「おやおや、可愛い寝顔だこと・・」

背負われた「佑心」を見てつぶやきました。眠りに誘われ、お勝の背中で幸せな時を過ごしていたのです。

「この歌は父上もよく歌って下さいました。寺の片隅で、お参りに来られた方々の、お爺さまからのご説法に邪魔しないように、優しく小さなお声で・・・・」

7歳で、貧しかった本願寺を里子に出され、父や母の想い出の薄い見玉でしたが、この歌は数少ない想い出の一つだったのでした。

「まだまだ、見玉様のようにうまくはお歌いできませんが、教えて頂いたこの歌を唄いますと、佑心さまもすぐに眠りについて下さいます。本当に心地よいお歌なので、私も心安らかな気持ちになるのでございます。」お勝は、そう答えました。

 

「優女(やしょめ) 優女 京の町の優女 売ったるものを 見しょうめ~ 金襴緞子(きんらんどんす) 綾や緋縮緬(ひぢりめん) どんどん縮緬(ちりめん) どん縮緬

こう唄われる歌は、蓮如が作ったとされる「子守唄」です。この歌は蓮如の身内だけでなく、本願寺に出入りする門徒達にも広く受け継がれていきました。

「いいお声ですな~、歌に引き込まれやって来てしまいましたよ。」

「これはこれは源兵衛殿、何のたわごとを。」

見玉がそう語りかけると、

「儂もそんな歌を聞きながら眠りとうございましたなぁ、うるさい親父の怒鳴り声しか聞いていねぇもんで・・・」

「源右衛門殿ですね、でも親父様は父上の大の信者。源右衛門殿のお勤めは、堅田一とお聞きします。お声も良い・・・とお聞きしておりますが。」

見玉と源兵衛の会話を横に、お勝は佑心を寝かしに行きました。

家に入り、遠くになっていく二人の会話を聞きながら、お勝にはたまらない幸せを感じていました。卑しい身分に生まれながら、日々の暮らしに怯え、母と姉と3人で過ごした子どもの頃を思うと、この束の間の笑い声のある日々に、ただただ感謝するばかりでした。

これもまた阿弥陀様のおかげ、そしてその教えを広めて下さる蓮如さまのおかげと、そう思うばかりでした。蓮如の子どもたちを、大切に育てながら暮らすお勝。蓮如を慕う心が日に日に増していくのです。

 

文明三年(一四七一年)七月、北陸へ向かった蓮如はいよいよ吉崎入りをすることになりました。越中瑞泉寺で合流した蓮如の四男「蓮誓」の道案内で、加賀の国から越前河口庄細呂宜郷吉崎へと向かう一行は各地で大歓迎を受けていきます。

越前の国で暴漢に襲われ身を隠していた蓮如を探し、瑞泉寺まで同行した心源の計らいで、「京から凄いお坊さまが来る」と先乗りしながら伝え歩いていたのでした。

人目を忍んで北陸路を下向した蓮如にとって、この出向われ方は、言いようのない力を与えられていたのです。

休む処休む処で少しばかりの時間を無駄にせず、集まった民百姓に温かく接し、阿弥陀如来の力を伝えていく蓮如は、毎日の暮らしで気の休まる事のない者たちにとって、それはそれは新鮮であり、逞しく思えた事なのでした。

ある村でのことです。

「お坊さま、ここんとこの日照りで、苗がちいとも育たねえんでございます。村の八幡様にお願えしてもどうにもなんねんでございます。都でお偉いというお坊さまなら、どうにかして下されねぇですかのぉ。」

一人の村人が蓮如にそう申し出をしました。

すると蓮如はあたりを眺めまわし、田から少し離れた場所に向かいました。

そして目をつむり、手を合わせ念仏を唱えたのです。

そして付いてきた村人にこう話したのです。

「ここは川からも遠く水がないと思うておるかもしれん。しかしのぉ、この大地の下には、あの遠くに見える白山から、命の恵みと言える水がたくさん下っておるのじゃ。これも仏のお力じゃと思うて、この場所を掘るが良い。」

村人たちが半信半疑でそこを掘ると、わずか身の丈ばかりの場所からどんどん水が湧きでてきたのでした。遠く流れる場所まで水くみに言っていた村人たちは大騒ぎです。

蓮如さまぁありがとうごぜいます。ありがとうごぜいます。」

蓮如は村人たちにこう言いました。

「これは儂の力ではない。御仏の教えによって学んだものなのじゃ。皆は仏の力を知らぬのかもしれんが、そこにある八幡神社の万神と同じなんじゃ。皆が村祭りと称して春と秋に願いと感謝をささげるように、仏の慈悲にすがり、感謝する事をも忘れるではないぞ。仏も万神も、みな人のためにあるものなんじゃ。全ての民のために力を与えてくれておるのじゃ。」

村人たちは手を合わせ、蓮如に頭を下げるだけでした。

六歳の時に母と生き別れとなり、継母に虐げられながらも、貧しい本願寺にあって、月の明かりで書を読み、父の助けをして書写で金銀を受け取り、苦労に苦労を重ねながら育った蓮如の力の素晴らしさは、知識力が物語っていたのでした。

難しい書を読み、だれよりも知識が豊富であるという力、そして経験から学んだ数々の知識は、全て人のためにあるものと信じ、長い部屋済み生活から四十三歳で本願寺の第八代法主になった事さえ、仏のおかげと感謝し北陸の地を踏んだのでした。

 

「父上、もうすぐでございます。」

蓮誓が言いました。

「蓮誓、潮の香りが強くなったと思わぬか。」

「さようでございますか、自分には同じようにしか感じませぬが。」

「そうか、此処での暮らしが長いからのぉ、苦労をかけたのぉ」

「父上、何をおっしゃいます、蓮誓も仏のお力で加賀の国で暮らせたのでございます。兄上たちと同じように、本願寺の再興にむけ、父上から頂いたお言葉のとおり、働いていただけの事でございます。」

蓮如の四男蓮誓もまた、貧しい本願寺にあって六歳の時に、臨済宗である南禅寺に喝食(かつじき)に出されていた。しかしながら才知に富み、兄順如(蓮如の長男)によって、十三歳のときに越中の加賀土山坊と呼ばれる寺へ出向くことになったのです。

そこは兄蓮乗(蓮如の次男)のいる瑞泉寺とも近く、応仁の乱以降、守護を巡る動乱の続く加賀の国にあって、その動向を調べるには適した場所でした。その後加賀鹿島神社の守役として南加賀の地へ赴いていたのである。

蓮如の一行は加賀江沼の地を歩き進んでいきました。

「父上、もうすぐすると荻生という地でございます。そこに彦左衛門殿が手配してくれた船がございます。そこから吉崎へと向かう事になります。」

一行は、舟に乗りこみ川下へと向かいました。

「これが大聖寺川じゃのぅ?」

蓮如が聞きました。

「そうでございます。この川下に、自分のおります『鹿島』があるのでございます。」

「そうか、その対岸が吉崎、心が湧くのぉ。頼むぞ蓮誓、儂にはまだまだやらねばならぬことがあるのでのぉ」

蓮誓に連れられ吉崎の地に足を運ぶ蓮如。わずか四年三ケ月という吉崎での布教活動が、いよいよ始まろうとしているのです。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その13】

文明三年(一四七一年)六月。北陸の春は夏へと向かい、緑の美しい季節へと変わっていました。蓮如堅田の地を離れ約ひと月。幾度となく暴漢に襲われながらも、人目を避け、初めて歩く山道を、ただひたすらに新たな布教の地へと足を進めていました。

蓮如さま、この川にそって下れば、超勝寺まであと一息でございます。」

蓮如の道案内を務める心源が、明るく語りかけました。

「この川は、何という川なのだ?」

蓮如が聞くと、

「水源は白山でございまして、山から見ると、九つの頭を持つ龍のようだと申します。そこから、九頭竜川などと呼ばれておりますが、大雨が降りますと、白山の雪解け水と一緒になり、龍が暴れた如く氾濫を繰り返しますので、地元では『崩れ川』と読んでおります。

私の生まれた麻生津にも、東に足羽川、西に日野川という川がありますが、それらがすべてこの川と一緒になり、龍が大きく大きくなって、海へと流れ出るのでございます。」

「なるほど、崩れ川か・・・」

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九頭竜川https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%A0%AD%E7%AB%9C%E5%B7%9D

蓮如は以前、この北国行きを奈良の興福寺の前別当「経覚」に相談した折に、越前の国の話を聞いた事を思い出していた。経覚が隠居となった時、その領地として、越前の国河口の庄を拝領し、穀物には心配がない土地と大変喜んだそうである。

この「崩れ川」が、白山から多くの水を運び、土地が肥え、多くの作物が育つのだと、改めて知り得たのでした。それゆえ民百姓は白山を敬い、日々の暮らしに感謝していたのです。古代より白山は、「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰白山信仰」として広がっていたのでした。

「この川を上れば白山平泉寺、海へと下れば三国湊、そうであったな心源。」

「さようでございます。」

「さすれば、今日は超勝寺には寄らず、川を渡り田嶋で待つ円慶の処へ行こうと思うのじゃが。」

「何故でございますか?超勝寺のほうが、守りも固く、多くの僧兵が蓮如さまをお待ち申し上げておるのでは・・・」

「儂を狙うておるもの、この地では平泉寺じゃ。比叡山からの追手も、この川を渡らず、綽如上人由縁の超勝寺に立ち寄ると、誰もが思うておるのではないかのぉ?」

「かしこまりました。では、近くの漁師に頼んで、舟を出させましょう。」

越前の国「藤島超勝寺」は、今で言う福井県藤島の荘にあり、室町幕府の衰退により多くの豪族がこの豊かな土地の利権のために闘っている最中、越前の国の守護、斯波氏ゆかり『藤島城』の寺として、その地位を確立していました。

かつて、本願寺の第五世綽如上人が越前の国に来られ、斯波左馬介豊郷(しばさまのすけとよさと)の館に立ち寄った際、その教えに心を打たれた豊郷が、上人の次男頓円(とんえん)鸞芸(らんげい)を寺主に迎え(一三九二年)建立したと伝えられる本願寺ゆかりのお寺でした。

それゆえ、一介の大坊主たちは中に入り込むことも出来ず、蓮如がそこへ来ることを予想し、その道沿いで待ち伏せしているはずと、蓮如は考えたのでした。

舟で九頭竜川を渡った蓮如と心源は、田嶋にある『興宗寺』へと向かいました。そこには蓮如の教えに陶酔し、蓮如の北陸行きを喜ぶ門徒達が大勢いたのでした。

住持の「円慶」は、興宗寺の第五世です。開基である「行如」は高田門徒の支流に属していましたが、本願寺第三世覚如上人から教えを受け、さらに覚如から「教行信証」を伝授され、宗祖の鏡御影(かがみのごえい)も開帳するなど勧化に務められたこともあり、行如は本願寺系となったのでした。以来、行円・行祐・円祐・円慶と続く興宗寺は、焼き討ちにあう以前の本願寺を支える、有力寺院だったのです。

当然、京都まで本願寺の教えを被る門徒達も多く、その中には、河口庄吉崎一帯を任されていた豪族「大家彦左衛門吉久」がいたのでした。

突然訪れた蓮如に、興宗寺の「円慶」は驚き、門徒宗を呼び集め、堅田で心配する門徒宗たちにも、「無事越前入り」の知らせを送ったのでした。

 

堅田では二人の女性が蓮如の安否を気遣っていました。

「見玉さま、今越前の国から使いのものが来られ、蓮如さまがご無事とのことです。」

嬉しそうに、そして大きな声で見玉に知らせが入りました。

「お勝、まことか・・?」

「はい、田嶋興宗寺殿からの知らせでございます。」

「父上、よくご無事で・・」

仏壇に手を合わせる毎日を過ごした蓮如の次女「見玉」は、涙を浮かべ、その知らせを運んできたお勝の目にも涙があふれ、二人は手に手を取り合うのでした。

そこへ、蓮如の五男で一三歳になる「実如」が入ってきました。

「姉上、父上がご無事だとか・・」

「実如、嬉しい事です。幾度となく命を狙われながら、父上は無事に越前に御到着されたそうですよ。」

「嬉しゅうございます、姉上。」

そう言う実如の目にも涙があふれ、そばにいるお勝にこう伝えたのでした。

「お勝、儂も越前へ向かうぞ。父のそばにいて、父を守り、父の教えを、もっともっと学びたいのじゃ。」

「実如さま・・」

お勝がつぶやくと、見玉が云った。

「まだまだ安住の地とは言えまい。しかし興宗寺の『円慶』殿は力のあるお方。きっと門徒宗と力を合わせ、父の教えを広めようとするお心に、大きな力を与えて下さると信じております。その時からでも良いではないか。」

「姉上、父上の事が心配で心配でならなかった事、文を書いて伝えとうございます。そして今の気持ちを、父と一緒に過ごしたいという気持ちを、素直に伝えとうございます。」

「そうするがよいでしょう、越前は作物豊かな国と聞いております。この乱世、都で苦しむ多くの人たちに、その作物をも運びこむ事ができたなら、乱世も収まるのではないかと思うております。阿弥陀如来の慈悲を学ぶとともに、皆の暮らしが豊かになる事を、父上は望んでおられる事でしょう。そのためには、我ら家族はもちろん、一人でも多くの人が父上の助けをせねばと思いますよ。」

七歳の時に本願寺の「口減らし」として奉公に出された見玉は、数々の苦労を乗り越えながら過ごしてきました。家族でありながら、父と過ごした記憶も薄く、母の旅立つ姿を見送る事も出来ず、宗派の違う寺で過ごしていた日々を、実如をはじめ多くの弟や妹たちに味わいさせたくないと、ただ手を合わすのでした。

そんな見玉を、一番近くで見ていたのがお勝でした。

賤民として生まれ、父も知らず、姉の行方も知らず、焼け落ちる都の明かりを見ながら、母と逃げ回る日々、加茂の河原で飢えに苦しみながら、息を引き取る数多くの人を見て過ごしたお勝には、家族というもの、助け合いながら生きて行くという事の大切さを、見玉から学び取っていたのでした。

「見玉さま、わたしも、文を書いてもよろしいでしょうか?」

「お勝、それはよい。実如や蓮淳、佑心や弟や妹たちのことを、是非父上に知らせてもらえぬか。父上には、気がかりな事がたくさんあるはずじゃでのぉ。」

蓮如堅田を離れてわずかひと月、幼子の面倒を見ながら、お勝は字を覚えていたのでした。毎日のようにやってくる下間法橋が、実如に学問を教えるときもそばにいて、二歳にもならない末の佑心を背中におぶり、法橋の話を聞いていました。

そして夜になって子ども達が眠りにつくと、見玉や時々訪れる順如に解らない所を質問しながら、学問に励んでいたのです。

その学びの速さに、見玉や順如はもちろん、蓮如の弟子や門徒宗は驚きを隠せなかったのです。乱世ゆえ、楽しみなどもなく、門徒宗が持ち込んでくれる食べ物にありがたさを教えられ、生きているという事に感謝をしながら、毎日を過ごして行くお勝でした。

当時の世の中では、「女性は男性より罪業(ざいごう)が深く、五障三従の罪を背負っている身であり、来世は儚く無間地獄に落ちる身」とされていました。女性は、どんな生き方をしても、仏の慈悲は得られず、極楽浄土へは行けないものとされていた時代です。しかも賤民の身である「お勝」が、文字を覚え、経典を読み、意味を理解していくという事は、普通の暮らしではありえないことでした。

学ぶ事の楽しさ、字を覚えていく事の楽しさ、それがやがて、大きな花を咲かせていく事を、お勝は知る由もなかったのでした。

本願寺という親鸞ゆかりの寺が破却され、流浪の身に転じた蓮如。しかし、志は壊されることなく、益々強く頑強なものに変わっていったのでした。

文明三年(一四七一年)、当時の幕府と強いつながりを持つ「比叡山」の力は、京の町から六十里以上離れた地「北陸」にも広がっていました。当時の「北陸」は「北国(ほっこく)」と呼ばれ、古くから大陸との繋がりもあり、文化水準も高く、京に住む貴族や武士たちのよりどころとなっていました。そんな土地を、蓮如が、自分の布教の拠点として選んだ事は、まだまだ発展する余地を見出していたのかもしれません。

琵琶湖辺の「堅田」から、弟子一人を連れて「北陸」に向かった蓮如には、まだまだ里子にも出せない幼子がいました。最初の妻「如了」との間に生まれた子どもは四男三女の7人で、一番下の四男蓮誓は十六歳になっていましたが、2番目の妻で、「如了」の妹「蓮佑」との間に生まれた子どもは、第9代本願寺法主となる「実如」の十三歳を頭に、三男七女の十人で、一番下の「祐心」はまだ二歳でした。

堅田に残された子ども達の日々の暮らしを支えていたのは、堅田門徒宗であり、後に三番目の妻となるお勝でした。そこには、応仁の乱により京の摂受庵を焼け出された蓮如の第四子見玉もいて、乱世で貧しい暮らしとは言え、父蓮如を慕いその教えを信じ、笑顔の絶えない明るい家庭なのでした。

そこへ、門徒の一人源兵衛が、一人の僧を連れて訪れます。

「見玉さま、見玉さま~」

「これはこれは、源兵衛殿、どうなさいました?」

子どもを背負い、お勝が出てきました。

「お勝さん、山の下の道で、このお坊さまが見玉様に会いたいというので・・・」

そう言うと、となりにいた僧が口を開きました。

「拙僧は乗専というものでございます。越前より、蓮如さまのお手紙をお持ちいたしました」

「それはそれはありがとうございます。さぞやお疲れになった事でございましょう、ささ中へ・・・」

そこへ、見玉がやって来ました。

「見玉でございます。父上から何と・・・」

乗専は、一つの文を見玉に、そしてもう一つをお勝に渡しました。

二人はその文を、すぐさま開きました。

「お勝、父上は越中井波の瑞泉寺にご逗留されておるそうじゃ」

「・・・・・」

「どうしたお勝」

見玉が振り返ると、涙を流すお勝がいました。

「見玉様、生まれて初めて文をいただきました。蓮如さまから、いつも子ども達の面倒を見てくれてかたじけないと・・・」

「そうか、そうか、喜ばしい事じゃのうお勝」、見玉が言いました

「お勝さまは、字がお読みになれるのですか?」

そう乗専が言うと源兵衛が、

「そうでございます乗専様。この娘は儂らと同じ、身分の低いものでございます。しかしながら、蓮如さまのお力により、ちいとばかしの経典も、読みしたためる事ができるようになったんでございますよ」

「それはそれは・・・」

乗専は笑顔を浮かべ、蓮如の子どもを膝に抱くお勝を見ていたのでした。

それから乗専は、北陸に到着した蓮如のことを話していきました。

越前の国では、本願寺ゆかりの超勝寺に入らず、田嶋興宗寺に入り、日々訪れる門徒達と、夜ごと話し合いを持ったのでした。これから進めていく「吉崎」での本願寺の拠点作りについて、蓮如は興宗寺円慶を中心に細かいところまで手配りをし、吉崎にしっかりとした守り固めができるまで、さらに北にある越中に向かったのでした。

その際、蓮如が暴漢に襲われ道に迷い、越前の道案内をしていた心源は乗専の弟子であり、昼夜を問わず蓮如と過ごしたことで、すっかり蓮如に心酔し、蓮如の直弟子となる事を申し出、蓮如もまた心源の聡明さに感嘆し、乗専に自らそばに置きたいと頼み込んだことも語りました。

「安芸心源」、後の下間蓮崇はこうして蓮如の手足となり、北陸の蓮如を支え続け、京に戻った蓮如をも慕い影となって支えていく事になるのです。

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下間蓮崇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E8%93%AE%E5%B4%87

さらに心源は、越中行きを決めた蓮如に、弟子や門徒宗が隠れてお供をし、少しでも多くの村々に立ち寄り、『越前吉崎の地に、都で名高いお坊さまが来られる』と言い広めるように勧めていたのでした。つまり心源は、吉崎での坊舎建設を進めながら、北陸一円に本願寺の布教活動の下地を作っていく事を推し進めていったのでした。

この頃国境にある『吉崎』は、越前の国、加賀の国、どちらともにも属さず、国を治める守護である越前斯波氏、加賀富樫氏の力も弱まり、統治できない場所でした。唯一そこの豪族、大家彦左衛門吉久がすべてを治めていて、彦左衛門吉久は田嶋興宗寺の門徒であり、本願寺と縁戚のある和田本覚寺蓮光と親密な関係にありました。それゆえ武士の介入も出来ず、天台宗ゆかりの白山平泉寺や白山豊原寺などの僧兵すら、来る事ができるような場所ではなかったのです。

蓮如が越前入りした後、すぐに吉崎へ立ち寄る事をせずに向かった先は、越中の国、井波瑞泉寺でした。瑞泉寺は、明徳元年(一三九〇年)、本願寺五代綽如によって開かれた寺です。

当時、中国の明から朝廷に送られてきた難解な国書を読む事ができず、比叡山延暦寺ゆかりの青蓮院門跡が、本願寺の綽如を推挙し、その国書の内容を解読した事から、後小松天皇が、一寺寄進を許されたとされています。そこから勅願寺として、広く加賀・能登越中・越後・信濃・飛騨・六カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立されました。

それ以後北陸の本願寺信仰の中心として多くの信者を集めていて、一四三六年(永享八年)、  蓮如の祖父、巧如(第六代法主)が、蓮如の父存如(第七代法主)の弟、如乗を瑞泉寺へ派遣し、京都の本願寺を支える重要拠点となっていたのでした。

蓮如の叔父にあたる如乗は、本願寺比叡山延暦寺山門衆の暴徒によって焼き討ちされる(寛正の法難)以前に亡くなっていました。しかしながら、本願寺第八代法主として家督争いに陥った際に、蓮如が如乗の後押しによってその座を掴んだ事もあり、男子のいなかった如乗のもとへ、蓮如の次男「蓮乗」を、瑞泉寺へ後継ぎとして送り込んでいたのでした。

「蓮乗」は、蓮如の最初の妻「如了」との間に生まれた第三子で、見玉の兄にあたります。見玉同様、貧しかった本願寺のもとを七歳の時に喝食(かつじき/かっしき)として出され、臨済宗南禅寺で少年期を過ごしました。

蓮如本願寺第八世法主となった長禄元年(一四五七年)、十二才の時に本願寺に戻り、兄順如とともに蓮如の補佐役として活動し始めます。二人の息子はどちらも聡明で、衰退していた本願寺を盛り立てていきました。そのため、瑞泉寺の門跡如乗は、自分の息子のように可愛がっていました。当然、自分の後継ぎとして、井波に迎える事を拒む理由もなかったのです。

蓮如が田嶋興宗寺を離れ、弟子の慶聞坊竜玄とともに、井波瑞泉寺に着くと、そこには多くの人が待ち受けていました。

「父上、お待ち申しておりました、良くご無事で・・・」

涙を流しながら、瑞泉寺の門跡となっている蓮乗が言いました。

「蓮乗、ひさしいのぉ、達者であったか?」

その横で、

「父上、私もお待ちもうしておりました」

そう言ったのは、蓮乗の妹、蓮如の第6子「寿尊」でした。

「寿尊」は、見玉の妹にあたり、蓮乗とともに如乗のもとへ来ていたのです。

そしてまた、

「父上、蓮綱でございます。」

「おお蓮綱、逞しくなったのぉ、嬉しゅう思うぞ」

「父上、明日には蓮誓も参りましょう、今宵は兄者の寺で、ゆっくりなされて下さい。」

「蓮綱」は、蓮如の第5子で三男である。

京の都から遠く離れた北国の地で、本願寺で苦楽を共にした家族が集まって来ていました。

次男蓮乗、三男蓮綱、三女寿尊、いずれも貧しい本願寺にあって、父らしいことも出来ず、ただ、口減らしのために、離れ離れになっていた兄弟姉妹が、父を慕い、父を支えて行くという信念を持ち、強い繋がりの中で、蓮如は北陸の地での布教活動を行っていくのでした。

瑞泉寺に集まっていた多くの門徒衆を前に、蓮如法話を行いました。子ども達のみならず、全ての人に、この乱世の中で生きて行く辛さ、そして悲しみの中に、一筋の光明を与えられるよう、あたたかく優しく、そして何より親身になって言葉をかけていったのです。涙ぐみながら語り掛ける蓮如の眼の底には、新しい『本願寺』が、すでに写っていたのは言うまでもありませんでした。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その12】

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蓮如窟(http://nipponn-daisuki.seesaa.net/article/278968830.html


「法住さま~、法住さま~」

堅田門徒宗のまとめ役でもある法住のもとへ、蓮如と一緒に北陸へ向かったはずの、慶聞坊竜玄が、行き絶え絶えに、青ざめた顔でやって来たのです。

「慶聞坊ではないか、蓮如さまの身に何か・・・」

敦賀を無事に過ぎ、木の芽峠を越えようとしたときに襲われましたぁ・・・」

涙をこらえながら法住に伝える慶聞坊。

「申し訳ございません、蓮如さまと離れ離れになってしまい、しばし行方を探してみたのですが見つからず。見知らぬ山道、まして一人ではどうする事も出来ずに戻って参りました。どうかお力をお貸しください・・・」

賞金のかかった蓮如の首を狙うものは、北陸の地までも広がっていたのでした。

法住はすぐさま門徒宗の中から、腕に覚えのあるものを集め北陸へ旅立ったのでした。

「どうかご無事で蓮如さま・・・」

それだけを願い・・・

 

蓮如が暴漢に襲われ行方知れずになった事は、すぐさま見玉やお勝の耳にも伝わりました。心配するお勝を横に見玉は、

「お勝、心配はいらぬ。父上は阿弥陀様に守られておる。堅田門徒衆の動きを見ても分かるであろう。阿弥陀様にすがる多くの人は皆、父上がお招きした方々ばかり。その多くの人の心は皆同じ。父上はどこかで誰かに助けられ、そこでもまた、仏の道をお教えしておられるとわらわはそう思う。信ずることじゃ。」

「見玉さま・・・」

母を亡くし、二番目の母となった叔母を亡くし、姉を亡くし、重なる不幸の続く見玉ではあったが、その心は動じずじっと手を合わせるその姿に深く頭を下げるお勝であった。

「お勝、弟たちといっしょに学問なさい。そして父上の申されておる『仏の教え』をしっかりと学ぶがよいでしょう。」

見玉が、賤民であるお勝に、『学べ』と言ったのである。

当時の律令制度の中、身分の低い民、いわゆる賤民には、非人・河原者などとよばれた被差別民が存在し、きびしい差別が行われていた時代でした。毎日食べていく事だけが精いっぱいで、「学ぶ」という社会でなく、良民と呼ばれる身分の高い人と同様に学問をすることなど、賤民には全くできない時代だったのでした。

お勝が蓮如の子ども達の世話をしている中、後に第九代本願寺法主となる実如は十二歳。当時は光養丸と呼ばれ、本願寺の家老職と言われる執事の、下間法橋の指導によって法門を学んでいたのでした。そしてまた、光養丸のもとを時々訪れる蓮如の長男順如も、しっかりとした知識を弟に学ばせようと指導していたのです。

字の読めないお勝でしたが、見玉の勧めにより、家事の傍ら文字を覚えようと見玉をはじめ、蓮如の弟子たちに教えを乞うようになったのでした。その姿は真剣で、見玉や順如ですら驚くほどの速さで、字を覚えて行ったのでした。

 

さて、この頃暴漢に襲われた蓮如は無事に逃げ延び、越前の山中、奥深い場所に居ました。

木の芽峠から十里ばかり北東へ行く山中に、「芋ヶ平」という地があります。人里離れたこの場所の岩屋に、蓮如は隠れ住んでおりました。多勢の暴漢に襲われる姿を見た里の老婆が、蓮如を案内しここに隠れさせたのでした。

「お坊さま、お坊さま、儂でごぜいます。」

岩屋からそっと顔をのぞかせる蓮如

「おぅ、婆さまか」

「食い物、持ってきたでの~」

「婆さま、毎日すまんのぅ。」

「大した食いもんじゃねえがのぅ、しっかり腹こしらえにゃの~」

「すまん、すまん」

そう言って蓮如は老婆の持って来てくれた食事に口を動かし、笑みを浮かべるのでした。また、食事を運ぶ老婆は、蓮如の話しに一生懸命耳を傾け、それが毎日の楽しみになっていたのでした。

都の話、飢えで苦しむ民百姓の話。土一揆が起こった話。応仁の乱という戦で、京の町が焼け野原となっていった話。そして、仏と言うもののありがたさの話。

どの話をとっても老婆には新鮮でした。老婆もまた毎日の暮らしの苦しみに耐え、木の芽を取り、芋を掘り、鳥を捉え、季節の中で生きているものから貰える命の尊さに感謝する毎日だったのです。そのような老婆が、蓮如の話に耳を傾けないわけがありませんでした。

何日か過ぎ、老婆が蓮如にこう伝えました。

「お坊さま、儂らの村に一人の坊さまがいらしての、蓮如という坊さまを探しておるというんのじゃが、もしかして坊さまの事じゃねぇかと思ってのぅ」

「いかにも儂が蓮如じゃが」

「今度来た坊さまは、前にぬしを切り殺そうとしたような人ではねぇような気がしてのぉ。もしかしたら、お味方が助けに来られたのかと・・・」

「その僧、名は名乗ったか?」

「ずいぶん昔にも儂らの村に来た事があっての、たしか『心源』さまとか・・・」

「そうか、『心源』か、ならば婆さま、すまぬが『乗専』という坊主を知っているか聞いてくれんかのぅ。『乗専』というのは自分の弟子なのじゃが・・・」

「そいで、どうすれば・・・」

「儂の弟子を知っているのであれば、儂を探しに来たのに違いないゆえ、ここに連れて来てほしいのじゃが」

「わかったぞ」

そう言って老婆は里へ降りて行った。

暫くすると老婆は、若い僧を連れて蓮如のところへ戻って来た。

「坊さま~坊さま~、儂ですじゃ」

老婆の声を聞き、岩屋からそっと顔を出した蓮如。それを見るなり若い僧は駆け寄り涙を流しました。

蓮如さま、よくご無事で・・・」

「心源と申したのぉ、儂を探しに来てくれたのか?乗専は達者か・・・?」

「はい蓮如さま、乗専さまから使者があり、越前の国で蓮如さまの行方が解らなくなったので、探してくれと・・・」

「そうかそうか、心源は確か越前の生まれであったな」

「そうでございます、麻生津の生まれでございます。ここから北へ、八里ほどの処でございます」

「ならば北へ向かいたいのじゃが、案内してくれるか?」

「もちろんでございます。」

そう二人の話す会話のそばで急に老婆が泣き出したのである。

「坊さま、いやぁ蓮如さま、いよいよお別れのときが来たんじゃのぅ」

「すまぬ婆さま、本当に世話になった、かたじけない、かたじけない。婆さまの事は、この蓮如、一生忘れはしまい。阿弥陀様と共に婆さまの事を案じておるぞ。」

そう言って蓮如は六字のご名号を書き与えたのである。

「この字はのぉ、『南無阿弥陀仏』と読むんじゃ。この六字を儂と思って大切にしてくれよの。」

泣きながら老婆は蓮如からの名号を手に取り、土下座して蓮如に頭を下げるのであった。

『こいしくば 南無阿弥陀仏を唱うべし われも六字のうちにこそ住め』

そう句を詠み別れを告げる蓮如

ただ涙を流す老婆。蓮如の傍には心源と呼ばれる若き僧がいた。後の「下間蓮崇」である。

この二人、京都を追われた本願寺の再興に向け、北陸の地での布教活動を、大きく膨らませ、後の政(まつりごと)さえ左右させていくのであるが、そのことを知る由もなかった。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その11】

<第3章>

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  文明三年(一四七一年)、小舟で近江堅田を旅立った蓮如は北国へと向かいます。準備万端と思っていてもその旅は、各所で刺客が待ち受ける旅でした。琵琶湖を北上し、北陸は敦賀へ向かう旅も、賞金首のかかる蓮如には、明るい道を歩く事ができず、人里離れた山道を、北へ北へと隠密裏に進んでいったのでした。

その頃、堅田の法住をはじめとする門徒衆も、次から次へと北国へ向かう旅支度をしていました。蓮如を慕う多くの仲間たちが、後を追って行こうとしていたのでした。その心のうちは、少しでも蓮如の力になれればというもので、当時、未開の地と呼ばれる北陸での暮らしを心配でたまらなかったのでした。

蓮如が北国へと旅立った近江堅田には、幼い蓮如の子ども達が残されていました。

応仁元年(一四六七年)、有力大名の細川勝元山名宗全の対立、畠山・斯波両管領家の内紛、そして将軍家の継嗣問題が絡んで勃発した「応仁の乱」は、この頃には近畿一円、北陸はもとより、東海、中国、北九州など、広い地域に及び日本中が乱世と呼ばれる時代に突入しておりました。

当時吉崎は、「春日社・興福寺領河口庄細呂木郷」に属していて、大家彦左衛門吉久というものが名主をしておりました。彦左衛門は、河口庄庄官の地位にあった和田本覚寺蓮光と近しい関係にあり、本願寺の末寺「田島興宗寺」門徒の一人として、吉崎一帯を任されていたのでした。

彼は、幾度となく堅田の法西・法住のもとを訪れ、蓮如の北陸進出の手助けをしておりました。特に、加賀・越前の守護職争いが、悲惨なものへと広がっている現状をいち早く蓮如に知らせ、いろいろと北陸の情報を伝えていたのでした。

国境にある「吉崎」の地は、加賀・越前のどちらの守護が治めて行くのかが、まだ定まらない状態だったので、彦左衛門の情報は蓮如にとって本当に大切なものでした。そしてまた、堅田に残された蓮如を慕う者たちにとっても、まだ見ぬ北国の様子を知る上でも、大切なものなのでした。

応仁の乱」は日本の歴史上、戦国時代への突入の時とも呼ばれ、大名同士の争いに巻き込まれ数多くの死者が生まれ、民百姓の涙がどれほど流れた事でしょう。戦乱の地となった京の町は火の海となり、多くの人が焼け出され、雨露をしのぐために寺に迷い込んだ者も多かったのでした。

 

蓮如が北陸へと旅立った時、蓮如の二番目の妻「蓮佑」の残した子ども達の生活を助けたのは、法西・法住をはじめとした堅田門徒衆でした。そして、里子にも出せない子ども達と門徒衆の信頼をつかみ、蓮如の子ども達を、一人の女がしっかりと育て上げていく事になります。その名は「お勝」。後に法名を「如勝」として蓮如の三番目の妻となるのでした。

お勝の父は早くに亡くなり、母と八つ違いの姉の三人でひっそり暮らす賤民(せんみん)の家族で、お勝の母は、室町幕府四職のひとり、山名宗全の屋敷に奉公していました。

お勝の姉「お夕」は米問屋に奉公に出ていて、時たま家に帰るだけなのでお勝は母と二人きりの暮らしをしていました。小さいころから家事を手伝い、働き者の子どもでしたが毎日の生活に苦しみながらもお勝には楽しみがありました。家の近くにある寺に同い年の娘がいて、その子と遊ぶことが唯一幸せなひと時なのでした。寺の雑務に追われるその娘もまたお勝と過ごす時間が楽しくて仕方なかったのです。

その娘の名は見玉、蓮如の第四子です。見玉は七歳で里子に出され貧しかった本願寺を後にしました。見玉の最初の奉公先は、本願寺とは宗派の違う禅宗のお寺でしたが、大飢饉や土一揆の影響で京の町の治安も悪くなり、蓮如の叔母のいる摂受庵に移っていたのでした。

里子に出された見玉をはじめとする子ども達と蓮如のいる本願寺との連絡役は、長男順如が行っていました。見玉と順如とは六歳離れていて、父の事本願寺の事、そして見玉の知らない土地の事を教えてくれる兄を、見玉は本当に慕っていました。

ある日の昼下がり、見玉とお勝が楽しそうに話をしているところへひょっこり順如が顔を出しました。

「あっ兄上」

「見玉、達者か?」

その時、初めてお勝は順如を知ったのです。

「兄上、この子はお勝、わたしの友達です。」

「そうか、お勝、見玉から聞いているぞ、子どもなのに働き者でしっかり者だと・・・」

「こんにちは」

可細い声でお勝は答えるのがやっとでした。

「見玉が達者でやっているかと気になって、今日は父上と一緒に来たんじゃ」

「えっ本当でございますか、父上は何処に・・」

「今、叔母上にご挨拶に行っておいでだ、お爺さまがお隠れになった際のお礼も兼ねてだがね」

この前年蓮如の父存如が亡くなり、本願寺第八代の座を異母兄弟の応玄と争い、本願寺には長男蓮如の時代が訪れたのでした。

順如と見玉、お勝が楽しそうに話をしている時です。蓮如が近くに現れました。

見玉は父のところへ走り寄って行きました。

「ちちうえ~~」

「見玉、久しいのぉ、達者そうで何よりじゃ」

「父上、お久しぶりです、元気で過ごしております。」

久しぶりに父の顔を見て、見玉は嬉しくてたまりませんでした。

見玉の母「如了」はすでに他界していて、「如了」の妹「蓮佑」が蓮如の2度目の妻として本願寺に嫁いでいました。見玉は叔母にあたる蓮佑尼も小さい時から知っていたので、本願寺の温かい家庭の雰囲気が懐かしくて仕方がありません。貧しくても心の通い合っている家族の話しが飛び交っていました。

そんな中、少し離れた場所から父と子、兄と妹の会話を横に、お勝はじっと蓮如の顔を眺めていました。お勝は父の顔を覚えていませんでした。賤民としての生き方の中では、家庭と呼ばれる雰囲気というものが、全く理解できませんでしたし、字も読めず、外の世界の事も何も知らない自分がいるという事を、この時に分かったのかもしれません。何かしら心の中に、温かいものを欲しがる気持ちが芽生えた時でもありました。

「見玉、達者で暮らせよ。何かあったなら、兄者に伝えるのじゃぞ」

蓮如はそう言ってその場を去っていったのでした。

父という存在、家庭という温かさ、お勝は見玉から学んだと言っていいでしょう。賤民としての暮らしの中で明るく生きるお勝。そんなお勝の人生に、大きな転機が訪れる事になります。血で血を洗う「応仁の乱」により、お勝の家も焼け出され、母は傷つき、姉も行方不明となります。お勝は母を連れ、見玉のいる摂受庵をたよりとするのでした。そこには蓮如の二番目の妻「蓮佑」をはじめ、見玉の姉「如慶」など、本願寺が焼打ちにあった事から多くの蓮如の肉親が集まっていました。食べるのもやっと時代、大勢の人間の中で、新たな生き方を学ぶお勝なのでした。

見玉とお勝、この二人のきずなは、やがて北陸の地「吉崎」へと繋がっていくことになります。蓮如にとっても、人生の転換期を迎える「吉崎」での布教の大きな活力を、この二人から授かる事になるのでした。

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その10】

 本願寺が焼打ちにあい、布教の地を捜し歩き考え抜いた蓮如は、目的地を京から遠く離れた北陸の地に求めたのでした。

 本願寺の御本尊と呼べる「親鸞聖人の御真影」は持って行く事が出来ないため、

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http://www.higashihonganji.or.jp/about/higashihonganji/


蓮如は、その御真影三井寺へ預ける事にしました。

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http://www.shiga-miidera.or.jp/

 寛正六年(一四六五年)一月八日、 比叡山延暦寺本願寺蓮如を「仏敵」とし、翌一月九日に本願寺の焼打ちを行いました。その火中から、家老職である下間法橋が背負って逃げ出し、難を逃れた御本尊でしたが、吉崎へ向かう道中、自分の身に何が起こるかわからず、等身大の親鸞の木像を運べば、目立つ事にもなるからでした。

 当時、大津にある三井寺は、同じ天台宗でありながら、比叡山とは敵同士でした。しかし、敵とはいえ宗派の違う三井寺に、御本尊を預けるという蓮如の覚悟は、どれほどだったのでしょう。御本尊の事が心配で、長男の順如を吉崎へは連れて行かず、京に残させたのも、そのためだとも言われています。

 

 その準備を済ませ、京からの帰りの夜のことです。雪明かりの山道で、蓮如は暴漢に襲われます。山法師姿のその男は、

「お前が蓮如だな、お前の命を貰いに来た。さっさと首を出せ!」

「儂の命は阿弥陀如来の下にある。しかし、まだまだこの世でせねばならぬ事があるのじゃ。ぬしのような者にこそ、儂の話を聞いてほしいのじゃ。如来の慈悲を・・・」

「うるさい、聞く耳など持っておらぬわ~」

そう言って荒くれ者は大長刀を振り落したのです。

とっさに交わした蓮如上人。そこへ大勢の声が響いてきました。

蓮如さま~蓮如さま~」

たくさんの灯りが近づき、声が大きくなってきました。

「くそ~、多勢に無勢、今日のところは引き上げるが、また命を貰いにくるからな。」

そう言って荒くれ者の山法師は去って行ったのです。

蓮如さまご無事で~」

堅田門徒衆が、助けに来てくれたのでした。たちまち、蓮如の周りに人だかりができ、無事を確かめ、涙する者もいました。

「源兵衛か、すまぬな。皆の者もすまぬ」

「この道を通りかかった者が、怪しい山法師がいると伝えに来たので、蓮如さまが心配で心配で、皆大慌てで集まったのでございます。」

「そうかそうか、すまぬ、すまぬ」

そう言って手を合わす蓮如

蓮如さま、足から血が!」

見渡すと、白い雪に赤い血が飛び散っていました。

「そうか、間一髪でよけたからな、擦り傷だろう。大したことはない。」

この時、蓮如は足を怪我してしまい、吉崎の地に来た時は、足の指先二本がなかったといわれています。そのような足で、これから先も、蓮如上人は多くの距離を歩かれ、布教活動を行うのでした。

 雪深いこの年の二月一日。蓮如の身を案じる堅田の法住の下で一夜をあかした蓮如に、訃報が飛び込みます。

「父上、妙意が息を引き取りました。」

知らせに来たのは、長男の順如でした。

妙意は、蓮如上人の十番目の子で、第五女になります。順如とは異母兄弟ですが、本願寺を焼け出された後、母蓮佑に連れられ、蓮如の叔母にあたる見秀尼のいる「浄土宗浄華院摂受庵」に身を預けていたのでした。

「なんとな、まだ十を過ぎたばかりではないか、儂の代わりになったようなものじゃなぁ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

手をあわせ、涙する蓮如の心に、何とも言えない悲しみが舞い降りていたのでした。

 本願寺を焼け出され、流浪する蓮如と離れ離れになって暮らしていても、心の中で通じ合う家族でしたから、本当に寂しい思いが走りました。そしてまた、ほんの数か月前の十二月に、妙意の母蓮佑が他界し、後を追うような死に、自分の至らなさを悔やむとともに、乱れる世の不条理に対し、新たな誓いを立てるのでした。

 しかし、訃報はまたも続きました。それからわずか五日後の事です。京都の常楽台寺に嫁いだ蓮如の第二子、如慶が他界したのです。順如のすぐ下の妹で、蓮如の最初の妻「如了」との間に生まれた長女でした。わずか三か月の間に、妻、長女、五女を亡くした蓮如の心は、いくばくかのものだったでしょうか。相次ぐ身内の死に対し、蓮如は悲しんでばかりではなく、その悲しみを力に変え、北国の地へと足を運ぶことになるのでした。

 春を迎え、夏へと向かう五月、蓮如は琵琶湖の浜辺の小さな漁村にいました。

賞金首のかかった蓮如を探す輩が増えたため、蓮如に心酔し、ずっと支え、守り続けている金森の道西をはじめ、少しばかりの門徒達に見送られ、舟に乗り込む蓮如でした。

 お供は、慶聞坊竜玄をはじめ船頭一人。隠密裏に行動し、まだまだ未開拓で、荒れる北国へと向かう蓮如の身を案じる者の心は、この場所に居なくても、蓮如の心には充分伝わっていました。

 この時蓮如には、乳飲み子の佑心をはじめ、第九代本願寺法主となる実如など、里子にも出せない子ども達が六人いましたが、順如を通じ、道西をはじめ、法住など蓮如を支え続ける人たちに、行く末を託して行ったとされています。

 父と離れ離れに生き、母も亡くしてしまった子ども達に、父としての蓮如はどう映っていたのでしょうか。

 順如は父の見送りに、異母兄弟の実如をはじめ、兄弟たちを連れて来ていました。

「実如、兄の下でしっかり学び、阿弥陀様の慈悲を、儂達より苦しみながら生きている民百姓に広めよ。それが儂の願いじゃ。頼んだぞ」

「・・・・」

言葉にならず涙ぐむ順如。

ただまっすぐと蓮如を見続ける実如。

そしてその横に、乳飲み子を抱く女がいました。

「父上、佑心でございます。」

涙をこらえ、順如は言った。

「そうか、そうか、大きゅうなったのぉ。生まれた時も会いに行ってやれんかったからのぅ、すまんな佑心。」

そう言った蓮如に、集まった人々は涙するのでした。

「どうれ、抱かせてくれんかのぅ。」

女から佑心をわたされ、微笑んだ蓮如には、自分の行く末がどうなるのか、予想がつかない不安な旅が、これから始まるのでした。

「父上、この女子は『お勝』と申しまして、見玉が連れて参ったものでございます。母無き子となった佑心ですが、この『お勝』に抱かれると、よく笑うのでございます。」

「そうか、そうか、お勝とやら、この子らを頼むのぉ。何かあったら、文をよこせよ。離れていても、家族は家族じゃ。本当に頼むのぉ」

「・・・」

字を読めず、字も書かれないお勝は、何を言っていいのかわからず、下を向いて頷くだけでした。見玉は、蓮佑の最期を看取った蓮如の第4子で、お勝とは摂受庵で知り合ったのでした。

京を離れ、越前へ向かう蓮如。家族への想いは熱くなる一方で、応仁の乱で国が乱れ、行く末の不安がいっぱいの旅立ちでした。

月明かりも薄く、夜陰に隠れながらの旅。

櫓を漕ぐきしむ音と、涙をすする音が、琵琶湖に重く響くのでした。

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琵琶湖

 

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その9】

 第一子で長男である順如は、蓮如が27歳の時に生まれました。

 貧しい本願寺にあって、口減らしで他宗の寺に預けられていく妹や弟たちの事を気がけ、いつも連絡を取り合っていました。

 よき相談役でもあり、蓮如の教えを皆に伝える役をもしていましたから、弟や妹たちからも慕われ尊敬されていました。そんな順如の人柄と優秀さを見抜いていた蓮如は、早くから本願寺再興に向けての寺務を、全て順如に任せていました。

 本願寺比叡山の山門衆により打ち壊され、蓮如の首に賞金がかかっている頃、本願寺の対外折衝の役割を負い、宮廷、武家との交渉事をあたっていたのです。

 越前の国吉崎は、当時、「春日社・興福寺領河口庄細呂宜郷」に属していました。そして、興福寺の大乗院、前門跡の「経覚」という人の隠居料地となっていたのが、この吉崎です。

 蓮如は幾度となく北陸行脚を行っていましたので、この吉崎という地が、自然の要害として適している事をいち早く知っていました。それは、北潟という湖と大聖寺川河口に突き出た、ほんの小さな山でしたから、一方を守れば水に囲まれた絶壁となり、「後ろ堅固」という要塞として、充分、敵から身を守るための土地であると感じたからでした。

 そこに自分の「住みか」を作り、北陸への布教の拠点とすべく、長男の順如を各処へ使者として向かわせていたのでした。

 雪の降り積もるある日のこと、堅田に隠れ潜む蓮如上人のもとに、順如が現れました。

「父上、順如でございます。」

「おお、今戻ったか。寒かったであろう、早く中へ中へ。」

蓮如上人は順如を呼び入れ、茶で暖を与えました。

「ご苦労じゃった。経覚どのは息災であったか。それと、北陸へのご返事は何と・・・」

「お喜びください。大変お元気で在られました。そして、本願寺再興のためになるならと、吉崎を使わせて頂くことにお許しいただきました。」

「そうかそうか、経覚殿は父存如上人の従兄妹にあたられる。本願寺の行き先を、大変心配なさっておられたからのぅ。ありがたや、ありがたや。」

「それでは父上、いつ頃ご出発なさいましょうか」

堅田の民にはたいへん世話になったが、この地も儂の首を狙うものが、次から次へと押し寄せるでのぅ。雪が解ければ、すぐにでも向かうつもりじゃ。」

「さようでございますか。それでは、加賀にいる蓮誓にも伝えておきましょう。慣れない地で、今か今かと父上のお出でをお待ちしておりますので・・・」

「そうか蓮誓には、たいへん心細い思いをさせてしもうたな。繋ぎを頼むのぅ。」

蓮如上人の第七子蓮誓は、貧しい本願寺の口減らしの一人として、幼い時から南禅寺の喝食として本願寺を離れてはいましたが、兄順如を慕い、本願寺再興のために尽力した一人でした。

順如の導きにより、十四歳という若さで、加賀の国の門徒宗のところへ行き、蓮如上人の教えを広めながら、吉崎の対岸にある小さな島「鹿島」の山頂にある、鹿島神社の堂守として、吉崎周辺の連絡係として動いていたのでした。

当時の「鹿島」は、吉崎入り江への海からの進入口として重要な場所でした。大聖寺川河口にある「弁天崎」とともに、その場所に灯される「明神燈」は、現代でいう「灯台」の役割を果たし、海上交通が主のこの時代にあっては、無くてはならないものだったのです。蓮誓はその「灯り」を点す役目をおっていたのでした。

「それでは父上、まだまだ行かねばならぬところがありますので、これにて失礼させて頂きます。

「そうか順如、よろしく頼むのぉ。」

そう言って玄関先まで見送ると、一匹の犬がおりました。

「この犬はどうしたのじゃ。」

「山道で出会いまして、腹を減らしておりましたので、経覚殿から頂いた飯を与えましたところ、ここまでついてきたのでございます。人に怯えておったのですが、どうやら私を味方じゃと感じてくれたみたいで・・・」

「お前らしいのぉ、どうせお前の食う分をあたえたのであろう。しかし、これも阿弥陀様のお導きじゃろう。今やこの国は病んでおる。食べるものもなく、戦ばかりの世の中じゃ。そんな中にあって、犬はおろか、人とて食われてしまう世の中じゃ。しばらくの間じゃが、ここに住まわせばよい。」

「父上、ありがとうございます。この犬も喜んでおるみたいで、尻尾を振っておりますぞ。」

犬の頭をなでながら、順如も笑顔で言いました。

「父上、お体を大切に、そして、くれぐれもご用心なさってください。」

「お前も、気をつけてのぉ」

順如はその場を去り、雪降る夜道へ、紛れて行きました。

蓮如はその後ろ姿に、ただじっと手を合わせるのでした。そばには順如の置いていった犬が、その姿を見守っていました。まさかこの野良犬が、蓮如の命を助けることになるとは、二人には知る由もありませんでした。

雪積もる野山にも、わずかながら小さな春の芽が息吹きだす頃、蓮如のもとに、多くの門徒衆が集まっていました。

蓮如さま、やはり行かれるのでございますか・・・儂は淋しゅうてなりません。」そう言うのは堅田門徒宗の長老株の源右衛門で、息子の源兵衛とともに、熱く蓮如を慕う男でした。源兵衛が生まれるとすぐに妻を亡くし、男手一人で息子を育てていたのです。

「源右衛門、儂とて同じじゃ。堅田の皆と離れるのはつらいが、ここにおっては皆の衆にも迷惑がかかる。それに、御開山様の遺徳を偲ぶ北陸の地にも、儂を待っているものもおる。御開山様の教えを、誤った形で広めておる者もおる。だからのぅ、行かねばならん。」

蓮如さまぁ、蓮如さまぁ、儂は蓮如さまにお会いできんければ、どうなっていたか判らん者です。魚を獲っている時も、家に帰って飯を食う時も、ただただ、手を合わせ、感謝をする気持ちを、蓮如さまから頂きました。儂の命なんざぁ大したもんじゃねえと、毎日を過ごしていた儂がです。」

「源右衛門、その言葉を聞いただけで、儂は嬉しゅうてたまらん。源兵衛と仲良く暮らせよ・・・」

源右衛門と蓮如上人の周りにいる門徒たちも、皆手を合わせ、聞き入っていました。

「上人、ささやかではございますが、食事の席ができましたので・・・」

そういって、蓮如上人の片腕ともいうべき「法住」が入ってきました。法住は堅田門徒衆の指導的な人で、ずっと本願寺の再興のために尽力した一人です。

法住に連れられて、宴席に座った蓮如上人のもとに、順如の連れてきた犬が寄ってきました。蓮如の下に来て以来、門徒宗を前に法話するときには、必ずそばにいる犬でしたが、この日ばかりは違った雰囲気がありました。

堅田門徒宗との別れの宴席、蓮如が食事に箸をつけようとすると、袖口を犬が噛み、箸をつけさせません。法住はそれを見て、

「この犬も上人との別れを惜しんでいるのかも・・・」

とそう言った時、突然、蓮如の飯を食べ出したのでした。

そしてその瞬間、犬は急に苦しみだし、死んでしまったのです。誰かが蓮如の食事に毒をもっていたのです。

言葉もなく、法住をはじめその場を見守る門徒宗に囲まれ、蓮如は手を合わせ、こうつぶやきました。

「儂を助けようとしてくれんたんじゃな、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

命を奪おうとする輩は、蓮如上人のすぐそばまで、来ているのでした。

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犬塚(http://www.shiga-miidera.or.jp/about/walk/119.htm