BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

もし第二次世界大戦がなかったなら・・・

今日は、太平洋戦争開戦の日、つまり日本が真珠湾攻撃を行った日である。

78年の歳月が流れ、忌わしい第二次世界大戦が風化したような錯覚に陥ってしまうが、対戦の影響は今も残っていると感じる。

日韓・日中問題を考えれば、全てが第二次世界大戦での敗戦という結果が付きまとって来るからである。

高度経済成長の中、平和な日本で育った自分からすると、戦争という言葉自体に違和感を覚えてしまうが、もしあの戦争が無かったら…と考えた日は多々あるからである。

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東京大空襲


東京大空襲で焼け出され、住む場所も無くなった両親が、知人を頼って北陸の片田舎に移り住んだ戦後に自分が生まれこの地で育った。

小さな田舎町の不自由さを知れば知るほど、もし戦争がなかったら自分は何処に住んでいたんだろうと考えるようになった。

そう、戦争がなかったら違った自分が生まれていたんだろうと考えている時があったからである。

生前、父は戦時中衛生兵として横須賀の基地にいたという話をよくしてくれた。特攻隊が飛び立つ前夜、配給されたブランデーの話とともに、兵隊さんの最後の姿が目に焼き付いている父の目の輝きを今も覚えている。

母はまた、空襲の度に、近所の人たちと一緒に、落ちてくる焼夷弾を家の外に放り投げる姿の話もよく聞いた。

 

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戦争のない平和な地球を!


奇しくも、今日は父の命日。冬の北陸には珍しい晴れ間の見えるお天気だったせいか、ゆっくり墓参りをしながら、第二次世界大戦で両親の運命が変わった事を感じていた。

 

(なぜ日本はあのとき「真珠湾攻撃」を決断したのか)

インフルエンザの予防

 

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予防注射


いよいよ本格的に寒くなってきた。今年もインフルエンザに注意を促す広報が目につくようになり、自分も予防接種をしてきた。

 

 飛まつ感染・接触感染、どちらにしてもインフルエンザにかかるのは嫌だが、もう体力だけでカバー出来るものではないと感じている。

 ネットで調べてみると、「インフルエンザの予防注射には、感染を予防する効果はない。感染とは、ウイルスが鼻や口の粘膜から体に入り細胞内で増殖することだ。とはいえ、厚生労働省の研究班の報告によれば、インフルエンザの発症と重症化を抑える効果はあるという。そもそもインフルエンザワクチンは、接種を受けた人の体にウイルスを排除する抗体を作り、同じウイルスが入ってきたときにそれを攻撃して発症や重症化を抑えるものなのだ。

 研究班の分析では、65歳以上の高齢者はインフルエンザワクチンの接種によって発症リスクを34~54%、死亡リスクを82%減らせる。また、0~15歳では1回接種で68%、2回接種で85%、16~64歳では1回接種で55%、2回接種で82%の発症予防効果があったとする報告もある。

 ただ、どの年齢でも効果が100%ではないことに注意が必要だ。はしかや風疹、水ぼうそうなら、1回でもかかったことがあったり必要な回数のワクチンを接種したりしていればほぼ100%予防できる。

 ところが、インフルエンザワクチンに関しては乳幼児や高齢者は抗体ができにくいうえ、インフルエンザウイルスは毎年少しずつ顔つきを変化させる。そのため、予防接種を受けていても発症したり、インフルエンザに1回かかった人でもまた翌年かかったり、同じ年にA型インフルエンザとB型の両方にかかって2回もインフルエンザに苦しんだりといった事態が起こる。」

という記事が出てきた。

 今は専門家に聞く変えにネットで調べられる時代なのであるが、最終的に信じるか信じないかは本人の判断でしかない。

 この手の話に儲け話なんかが出てきたら、まず信じられないのだが、こと病気のことになると信じる話ばかりだ。

 

効能がある無しに関わらず、予防接種は受けてきた。生まれて初めてである。

今年の冬も、乗り切れると信じて・・・

 

 

超勝寺というお寺

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超勝寺にある「鹿の子の御影」


 

 自分のふるさと「あわら市吉崎」は、本願寺第8代法主蓮如」が北陸布教の拠点とした場所である。1471年の事である。

 福井県福井市にある超勝寺の開創は1392年で、本願寺第5代法主「綽如」の時である。(蓮如の曽祖父)つまり、「蓮如」が北陸での布教により、本願寺大教団が出来上がる80年前、越前の国に本願寺の流れが生まれているわけである。

(現在超勝寺には東超勝寺と西超勝寺がある)

 その当時の「寺」というものが、京の都ととの関係がどうなっていたかを考える事も必要で、荘園制を引く日本の中世の政治・社会を知るためにも「寺」の存在を知る事が必要な事だと思っていたので、いろいろ調べてみたことがある。

 「蓮如」が比叡山の山門衆に京都を追われ、この北陸の地に流れ着いた時、この藤島超勝寺や和田本覚寺などの助けを借りていたという。そしてこの北陸吉崎の地を拠点に布教活動を行っていった事で、越前の国に流れる真宗の息吹は、加賀の国のそれと供に大きくなり、一向一揆を起こし、加賀を支配するという『百姓の持ちたる国』を作り、信長をはじめ戦国大名を恐怖へと陥れていくのである。

 また、来年から始まるNHKの大河ドラマ麒麟がくる」では、信長を倒した「明智光秀」をモチーフとして使うのだが、その光秀は越前の国との関係も深く、幼い頃「念仏」というものを知り、当時の貧しい越前の国の様子を察していたと考えられている。

 当時越前を支配していた朝倉貞景をはじめとする朝倉一族と真宗門徒(一向宗)との戦いは壮絶を極め、多くの血が流されているが、その時代に信長が比叡山本願寺をはじめとする「寺」との戦いに、複雑な心境があったと自分は思っている。それゆえ本能寺の変に「信仰」というものを重く感じていた光秀に共鳴する一人でもある。

 この超勝寺をはじめとする真宗門徒達は、朝倉勢によって越前を追い出され、やむなく加賀に拠点に移す。そして自分たちの国「越前」に戻る機会を伺いながら、何10年という戦いが繰り広げられたのである。しかし、織田信長の出現により朝倉勢と一向一揆勢が手を結ぶこととなり、門信徒たちは越前に戻ることを許されるのだが、1570年、柴田勝家によって越前平定がなされ、ことごとく寺は焼かれていく。ここに信長によって、戦国時代の終焉を迎えるのである。

 豊臣秀吉の天下統一を経て、本願寺は新たな時代を迎えていく。恐るべき真宗門徒たちの結束力を弱めるために、1600年の関ヶ原の戦い以降、本願寺徳川家康の戦略によって東西に分断された。それ以後、江戸幕府は260年にわたる長い統治を行っていくのであるが、関ヶ原以前の政治と大きく違う点は、政治と宗教を完全に切り離したところに始まり、その最たるものが本願寺の分断を挙げられる。この歴史ある超勝寺も東西に分断されてしまうが、福井藩の多大な擁護によって寺の存続を成し遂げていく。特に西超勝寺は、「御前水」として藩直轄の御上水の一部を寺内に引き入れる事を特認されるほどであった。

 

 さて、この超勝寺と「蓮如」の繋がりは本当に深い。蓮如の第19子の「蓮周」が嫁いだ事でもあげられるが、それより以前、「蓮如」が布教で成果をあげる一因になった「御文章」(真宗大谷派では御文)での一節があげられる。「御文章」とは、浄土真宗の教義や「蓮如」の思いをしたため、各村々へ送っていくもので、現在200通以上存在する。

 これは今では言えば「広報紙」と呼べるもので、500年くらい前に蓮如によって書かれたもので、識字率の低かった時代、字を読める長老や村長、坊主達にそれを読まさせて、信徒を増やし「講」と呼ばれるサークルを築いていく。それが「村」の形成に繋がり結束力を高めていく要因になっている。

 その御文章のいくつかに、「超勝寺にて」と書かれてあるものがある。「蓮如」が超勝寺で書いたものである。その一つ、「5帖御文」第1帖12通には、

 「そもそも、年来超勝寺の門徒において、仏法の次第もってのほか相違せり。そのいわれは、まず、座衆とてこれあり。いかにもその座上にありて、さかずきなんどまでもひとよりさきにのみ、座中のひとにも、またそのほかたれたれにも、いみじくおもわれんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中にこころえおきたり。これさらに往生極楽のためにあらず。ただ世間の名聞ににたり。(中略)あなかしこ、あなかしこ。文明五年九月下旬」

 

 この御文章は「信心の沙汰」の教えとされ有名なものだが、超勝寺での会合で酒宴が催され、上座に上がりたいという事で争う姿を見て書かれたものである。会合の在り方、それに参加する者の意識について書かれたのである。「蓮如」は「平座説法」と言って、決して高座には上がらず、ひざを突き合わせて教えを問う人である。大切な会合であるのに、ただ酒を飲むだけの場としてまい、真宗の教えについて自分の意見も言わず、教えを知っているかどうかで自分の座る位置を上にしたいがために争う人の愚かさを説いているのである。

 この教えこそ、人は皆平等であり優劣をつける事はできず、学ぶ姿勢が大事であるいうものなのである。それ以後、超勝寺ではこのような事は行われなくなり、益々門徒宗の信心が強くなっていった。現代にも通じるこの教えを考えると、いまだに脈々と流れる「蓮如」の存在感を感じる。

 また「蓮如」は、土着宗教を排除するような教化は行ってはいない。特に白山信仰の熱い土地柄の北陸地方では、それとの共存を教え諭している。それを表しているのも、超勝寺で書かれた「5帖御文」第1帖14通の「白山・立山」というものである。当時新興宗教である「浄土真宗」は、旧来の宗教と何ら違いがあるものではなく、各村々にある神社仏閣を信ずる人とも、目的は同じであるという意味の御文章である。つまり、古いものがダメだとか、新しいものが良いとかいうレベルではなく、それぞれの奥の深さを考えていけば、みんな同じ基に繋がるという考え方だ。この辺が「蓮如」の現実性が現れ、多くの民衆に慕われた要因であろう。

  「蓮如」を調べれば調べるほど、現代の日本に欠けたものを知る事が出来る。よく考えれば、中世であれ現代であれ、同じ人間が作る世の中なのであるから、政治に不信感を抱きながら、「仕方ないか・・・」とか「自分には関係ない…」と思って生きている自分には、心に刺さるものがあってしかるべきなのかもしれない。

 

 武士の時代に終焉を告げた明治維新以後、日本古来の歴史的文化財の海外流出を食い止めるべく活動し、近代日本の美術指導者である「岡倉天心」のルーツもまた福井県にあり、その岡倉家の菩提寺福井市浄土真宗本願寺派超勝寺(西超勝寺)であるという。

 福井藩の下級武士だった岡倉天心の父には、真宗の教えが染みついていたのではないかと感じることができ、明治維新という時代の変化の中で、日本の文化を大切にせず欧米化していく中で、必死に旧来の日本文化の良さ、東洋文化の良さを欧米人に問う岡倉天心の姿が、ここで被ってくるのである。西洋人がすぐれているのではない、日本人にも優れたものがあり、人間の優劣をつける事ではないという天心の源流は、超勝寺での教えから来るものではないかと思っている。そしてこれは、日本人である事の誇りと歴史を大切にする気構えが、現代に通じるものだと自分は考える。江戸時代以前から流れる北陸の歴史と文化には、日本人の忘れてしまった「心の文化」が、西超勝寺をはじめ、各地に点在しているのであると考えられるだけに、浄土真宗のみならず、日本の歴史を掘り起こすためにも「仏教」によって創られた日本の歴史を紐解き、現代へ発信していく事が必要なのではないだろうか。

犯罪について考える

犯罪について考えさせられている。

今日のニュースから

① 新潟女児殺害 小林被告に無期懲役の判決
新潟市西区で2018年5月、下校中の当時7歳女児を殺害し、線路に遺体を遺棄したなどとして、殺人や強制わいせつ致死など七つの罪に問われていた小林遼被告の裁判員裁判がありました。新潟地裁は4日、無期懲役(求刑・死刑)を言い渡した。

② 東海道新幹線で昨年6月、乗客の男女3人が殺傷された事件で、殺人や殺人未遂の罪に問われた小島一朗被告(23)は5日午後、横浜地裁小田原支部裁判員裁判の被告人質問で、検察側に被害者やその家族への謝罪の気持ちを問われ、「一切ない」と述べた。

小島被告はこれまでの公判で「刑務所に入るのが夢だった」として、無期懲役判決を受けて一生刑務所で生活したいと発言。謝罪しない理由について「(無期懲役なら)謝罪すれば仮釈放されてしまうから」と話した。

 一方で、検察側から死刑になることは考えないのか問われると「死刑になるかもしれないと聞かされ、すごくおびえている」と返答した。

③ 4年前、埼玉県熊谷市で住宅に次々と侵入し、6人を殺害したとして1審で死刑を言い渡されたペルー人の被告に対し、2審の東京高等裁判所は「精神障害の影響が非常に大きく、責任能力が十分ではなかった」として、死刑判決を取り消し、無期懲役を言い渡した。

 

今日は久しぶりに「犯罪」というものを考えてみた。

社会におけるルール違反の「罰」というものに、日本では「死刑」がある。

基本的に「死」への恐怖は誰もが持つ者だと思うが、ルール破りの一番大きなものは「殺人」であろう。

若い頃「なぜ他人を殺してはいけないのか?」「自殺ならいいのか?」という問題にぶち当たり友人と大議論を重ねた事を想い出した。

その昔一世を風靡した「愛と誠」という漫画を想い出しながら、「死」への美徳感も含めて語っていた。

「なぜ生きる」という問題も含め、宗教観の違い・価値観の違いというものが人間にはあるという事を知った頃である。

人が犯した罪を人が裁くという事も、「当たり前」という結論で結びつけてしまうことへの反発心もあった。

「生きていて良かった」と思える人生、「あの時死んでしまっていたら楽だったのに」と考える人生。そんな「人生感」も学ばないといけないと感じ、今に至っている。

「自由である」という日本だから、あの時の考え方が生まれたのだと今は思っている。

せっかく生まれてきたのだから、他人に邪魔されたくないし病気にもなりたくない。

災害もしたり。

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裁判て・・・


生きている事に値打ちがあると今は思っているだけに、「殺人」はやはり極刑にすべきだと今は思っている。司法に携わっている人も大変だなぁと改めて思った。

では、心神喪失で・・・???

心の病気だから殺人を起こしてもいいとも考えられない。

日本における「人間のルール」の必要性と集団で生きているという考え方が、そこにはある。

ふる里が教えてくれたこと-後編-

 蓮如上人御影道中における、現在の御下向上洛は、教導(僧)一名、供奉人は宰領を入れて6名で、福井・石川・滋賀・大阪などの各府県門徒衆も加わっています。御坊の指名した供奉人は6人ですが、御影のお供をして道中するのは自由で、自分で御供の道中区間をきめて参加する方が多くなりました。

 京都東本願寺(本廟)から吉崎へ下向の主な日程は、4月15日に、御影お迎えのため宰領供奉人などが吉崎東別院に参集して誓詞を認め、翌16日、朝6時半に吉崎東別院を出発いたします。そして京都東本願寺で一泊し、4月17日午前9時、大寝殿で「御影改めの儀」があり「御影お腰のべの儀」を行い、御櫃におさめ東本願寺を出発し、烏丸通りより山科街道を通り大津に至り、琵琶湖西廻りで北陸道に出て吉崎御坊までの6泊7日間、約240キロの道中が始まります。

 ご下向最終日となるあわら市細呂木から吉崎までの間、昔は村の若衆が、吉崎御坊さしむけの御影専用の御輿をかつぎ細呂木まで迎えに出向き、御影を輿に移し左右のかつぎ棒に太縄二本を結びつけ、老若男女が縄をひき午後7時頃吉崎御坊に御着きになるよう案内しました。お迎えの門徒は、この縄を持つことで「蓮如さまの温もりを・・・・」と喜んで出迎えたと伝えられています。

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蓮如上人500回忌の時


 現在は、吉崎の商店や近郷の商店、会社の名入りの高張り提灯60本余りと、老人会の手によって配られるホウズキ(鬼灯)提灯に灯をともして一般の門信徒や観光客、子供達は御影をお迎えします。県内はもとより、石川・富山・岐阜・滋賀県あたりからも日帰りバスをしたてて参詣され、中には東西別院に宿泊を予約して参詣される方も少なくありません。蓮如さんの五百回忌頃は、約500人以上が宿泊されていました。

 御影が吉崎の入り口に着くと、御影を御輿に移して吉崎消防団の方々が担ぎ、「蓮如上人さまのお着き!」の連呼の中で町内を進みます。本堂よりお着きの合図となる半鐘、太鼓堂からはお着きの太鼓が鳴り響き、念仏の合唱が高まる中、お出迎えの人が階段で待つ中央を通り、東御坊の本堂まで担ぎ上げます。隊列の先頭は、古式にのっとり、あわら市長・あわら市議会議長・吉崎地区区長会長、吉崎青壮年団長、次いで東西両別院と願慶寺、吉崎寺などの高張り提灯の列が進み、その後ホウズキ(鬼灯)提灯をもってお迎えする一団がつづきます。

 御坊下に着いた御輿は、念仏の声が湧き起る中、消防団員のかけ声もろとも東別院の石段を一気に駆け登る様は実に豪快な一時です。この時が、現在の吉崎で一番賑わう日です。そして、読経の響く本堂のそばでは、7日間蓮如さんと寝食を一緒に過ごした方々が家族と抱き合い、無事に歩いて吉崎に来られた事に感謝し涙する姿を見る事ができます。

 吉崎で生まれ、吉崎で育った人間の一人として、子どもの頃からこの模様を見ていると、真宗とは縁遠い人間でも、蓮如さんに対する熱い心が湧いてしまいます。

 室町時代後期から、戦国時代と呼ばれる日本史上乱世の時代を生き抜き、雪深い北陸で自然と闘いながら生きてきた祖先を思い出す時間ともなっています。

 吉崎の春は、蓮如上人御影道中と供にやって来ます。この行事が続く限り、蓮如さんが北陸にまいた「真宗の教え」という種は、いつまでも花が咲いていくこととなるでしょう。

 幸せな日本であると感じれば感じるほど、蓮如さんへの心が残っている場所が「吉崎」だと感じるのです。

ふる里が教えてくれたこと-前編-

~御影道中の影に・・・~
 福井県の最北端「あわら市吉崎」。この地で生まれ育った者には、ある言葉を聞きながら大人になって行きました。それは「蓮如さんのおかげ」という言葉です。
 最近ではその言葉を口にする人は少なくなりましたが、今では廃校となってしまった小学校の運動会でも、天気に恵まれ、怪我もなく楽しく一日を過ごした後には、必ず「蓮如さんのおかげ」と語るお年寄りの姿が数多くありました。蓮如さんが亡くなって六百二十年も経っているのに、「蓮如さん」と身近な人のように親しみを込めて呼び、心の中にはいつも蓮如さんへの感謝の気持ちがありました。

 この吉崎も過疎化と高齢化に悩まされ、宗教離れも備わり、蓮如さんの事を語れる人は本当に少なくなりました。ただ、現代の宗教離れは、特定の教団に属していないという点がかなり大きく、「葬式仏教」という言葉が示すように、葬式のときにしか必要とされない仏教となり、形骸化された結果かもしれません。それが「寺離れ」につながり、蓮如さんを語らなくなった一因だと思われます。
 蓮如さんの残してくれたものの一つに「お勤め」というものがあります。日に一度は仏壇の前に赴き、「正信念」や「三帖和讃」を唱えるというものです。今では仏壇も持たない家が増えていますから、このような作法を語ることも無くなりましたし、語れる人も少なくなってしまいました。

 しかし、この「お勤め」という作法を広めたからこそ、蓮如さんの名前も広がり、「本願寺教団」という日本屈指の大教団が出来上がって行ったことを忘れてはいけないでしょう。
 徳川家康が天下統一を成し遂げ、二百六十年続いた江戸幕府の時代が終わってから百五十年経ちました。戦国時代、信長・秀吉・家康の三英傑を困らせた「一向一揆」の始まりは北陸の地からと云われていますが、その種をまいた蓮如さんの業績もまた、忘れ去れようとしているのは事実です。

 しかし、「葬式仏教」として形骸化された仏教が残っているように、死者に対する葬礼という弔いは今後も続いていくはずです。どのような宗派であっても、死者への感謝も含む葬礼は、簡素化されても残っていくと思われるだけに、福井・石川県境のこの小さな「吉崎」という地も、蓮如さんの故郷として残って行く事でしょう。
 毎年4月23日から5月2日まで、吉崎蓮如忌が行われます。これは、真宗大谷派吉崎別院の行事です。
 「蓮如上人さまのおと~り~」の掛け声とともに、蓮如上人御影道中は、蓮如上人御忌法要が厳修される時期に上人が歩いたといわれる京都市東本願寺(本廟)より吉崎別院までの約二四〇キロの道程を一週間かけて歩き御影を運ぶ「御下向」と、吉崎別院における十日間の蓮如上人御忌法要の後、真宗本廟に向けて、帰路約二百八十キロの道程を七泊八日かけて御影を運ぶ旅「御上洛」があり、東本願寺における御帰山をもって御影道中は終了します。三百年以上続く「蓮如上人御影道中」、御輿が吉崎東別院の石段を駆け登る姿を見ようと、毎年大勢の観光客が訪れます。


 蓮如上人御影道中の歴史は古く、平成最後の年である平成31年(2019年)で、346回目となりますから、世界に比類のない行事と言えます。
 『吉崎の郷土史』に書かれてある「吉崎東別院の記録」に基づくと、「京都の東本願寺に預けられた『蓮如上人の自画像』は、延宝元年(1673年)より吉崎への下向が始まりました。

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木の芽峠をすすむ「御影道中」


 この御影道中の扱いようは『蓮如さまのお通り』と連呼し、『御対面』とか『お腰延べ』とかいって、生き仏を拝すると同じようにいたしています。またこの道中には、残雪の山道もあり、風雨の日もありますが、多くの信者の送り迎えが絶えないので、大切に後の世まで伝えたい」と記してあります。
 ご下向の難所は、木の芽峠で、ご上洛は今庄町の湯尾峠です。木の芽峠にさしかかると、御興車を別の道から先廻りさせて、新保町から供奉の人達が御影の櫃を背負って峠の道を登っていきます。
 4月の峠の道はまだ残雪が方々にみられ、その山道を蓮如上人の櫃をかわるがわる担い、ゆっくり一列になって一歩一歩熊笹を分けながら登ります。一時間程行ったところの、木の芽峠の頂上には、会所(えしょ)があり多勢の人達が出迎えて待っています。会所は藁葺き屋根の家で、一服すると温かい番茶が廻ってきます、囲炉裏には檪の株が赤々と燃えています。


 江戸時代の、御下向御上洛のお迎えの伴人は、宰領を入れて四人で、主として越前・加賀の門徒がその御役を引き受けていました。東本願寺から御使僧が供奉人につきそって下向し、蓮如忌の法要を勤めて御影のお供をして京都へ戻ります。この事は「心証院御影往還の記録」の中にあり、宿泊所の寺々と民家の氏名があり蓮如忌中の法行事など、寛政以降の日記に詳しく記載されています。(つづく)

加賀の国を約100年間統治した「加賀一向一揆」の心意気は・・・

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石山観音(あわら市吉崎)


 福井県あわら市吉崎。

 福井県の最北端にあるこの場所に、本願寺第8世蓮如上人が一宇の坊舎を建てたのは1471年7月の事です。それからこの場所は「蓮如の里吉崎」と呼ばれ、今もなお多くの参拝者が訪れます。
 平安時代から、この場所は海上交通の要所として歴史に刻まれています。加賀の国からそして、それより以北の地から、若狭を経て京都・奈良へと物資が運ばれていく時代、海上交通が主であったのは言うまでもありません。この歴史があるから、蓮如さんの布教が大きく広がりを見せた基本にあると言えます。
 また、日本海を挟み、中国大陸と深い文化交流がこの地にあったからこそ、人々の暮らしの中に高い文化水準があったと云えます。それが、自然との闘いの中で生きている人間が、悩み苦しみ、新たな知恵を生み、親から子へ、そして子から孫へと受け継がれ、新たな歴史を作って今日に至ったのです。

 京都にあった「本願寺」が比叡山の荒法師たちに焼打ちされ、自分の寺を亡くした蓮如さんの事を知るには、「御文」(本願寺派では御文章)を読むといろいろわかってきます。500年以上前に書かれた「御文」は、現在約260余通が残っていると云われています。

 蓮如さんの孫にあたる「円如」が、この御文の中から八〇通を選んで五帖に編集し『五帖御文』と称し、宗門信条の基本とするなどの教団改革を行い、戦国期の本願寺体制の基礎を築きました。蓮如さんの布教の広がりから、加賀を中心に一向一揆が沸き起こり、いわゆる浄土真宗大教団の礎を築く基本の考え方が、この『五帖御文』の中にあります。

 ところで、その第一帖第八通に「文明第三初夏上旬のころより、江州志賀郡大津三井寺南別所辺より、なにとなくふとしのび出でて、越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。よつて当国細呂宜郷内吉崎といふこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して・・・」という書き出しで始まるものがあります。
 意訳すると、「文明三年(一四七一年)初夏、滋賀県大津三井寺の南別所あたりから、何という目的もなく、にわかにこっそりと出立して巡り歩いて来た吉崎というこの土地が、とりわけ素晴らしいところでしたので、長年人が足を踏み入れた事のない荒れた土地であったのを切り開いて、七月二七日より形ばかりの一宇の坊舎を建立して・・・」ということなのですが、この御文から吉崎は人が住みついていない場所だったのです。

 吉崎という地名は、湖岸に植物の蘆(あし)が数多く茂っているところから、「蘆﨑」そして「吉崎」へと変わっていったと云われていますが、一方で、吉崎の国指定史跡「吉崎御坊跡」(通称吉崎御山)は、当時「千歳山」と呼ばれ、本当に見晴らしのいい場所で日本海まで望めます。この場所に立ってみますと、「良い岬」から「吉崎」という地名になったという説があるというのも頷けます。
 蓮如さんがこの場所に坊舎を建立した以後、道俗男女の人々が群がるように集まるようになりました。戦国時代の三英傑「信長」「秀吉」「家康」の生まれる70年ほど前の話です。室町幕府の力が衰退し、徳川時代が生まれるまで、約150年。日本国は飢餓と戦のため力の弱い民百姓には大変な時代でした。「生きていく事がやっと」の時代に、蓮如さんの教えは民百姓に希望という二文字を与えていったのです。

 人が住むような土地でなかった「吉崎」は、蓮如さんが一宇の坊舎を建ててからというもの、多くの参拝客でにぎわう場所へと変わっていきます。「多屋」と呼ばれる宿坊も数多くできていきます。それに伴い、海、川を使う海運が盛んにおこなわれていた土地柄から、山の幸、海の幸を運んでくる「市」が立っていき、近隣の貧しい農村や漁村に、大きな経済力が働いていく事になります。そして経済が潤っていく事に連れ、民百姓は「蓮如さんのおかげ」と、山の上の坊舎にいる蓮如さんに深く感謝していく事になります。

 その感謝の念は、坊舎への寄進に繋がり、わずか五間四面の小さな坊舎の周りに、幾つもの伽藍が立ち並ぶようになり、それが「吉崎御坊」と呼ばれて行くようになったのでした。
 蓮如さんは、人が集まれば金が動き、それに吊れて「本願寺の再興」という自分の思いが現実になってくると信じていたのでしょう。それが、後の京都山科本願寺を産み、大阪石山本願寺の建立へと繋がっていきました。このような事から、浄土真宗では蓮如さんを「中興の祖」と呼んでいるのです。

 

 蓮如さんが入滅した100年の後、下剋上と呼ばれる戦乱の世に別れを告げ、徳川幕府により日本に平和な世がやってきます。五街道を整備し、日本中で行き来が盛んになればなるほど、当時の高速運輸事業である海運業は勢力を拡大していきます。その中でも日本海を中心とした「北前船」は、大阪と北陸・北海道を結ぶ航路の発展が目覚しく、日本の商業の発達を支えて行きました。
 

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吉崎古図(文明六年)


吉崎の近くに「瀬越」という土地があります。この場所は蓮如さんとの関係も深く、古くは「竹の浦」と呼ばれ漁業も盛んな場所でした。蓮如さんが吉崎に来られ、坊舎を建立するための資材などは、この「竹の浦」に住む豪族「大家彦左衛門」が調達しました。大家彦左衛門は、後に弟子となり蓮如さんを助けた人の一人です。
当時、吉崎から「竹の浦」へ行く場合、いくつも瀬のあった大聖寺川を越えて行きました。そこから「竹の浦」の事を「瀬越(せごえ)」と呼ぶようになったと言います。名付け親は蓮如さんです。
 江戸時代になり、北前船の寄港地となった「瀬越」には、広海二三郎(廣海家)という豪商が生まれています。その関係もあり、江戸時代の後期から明治時代にかけて、この吉崎も海運業で栄えました。

 ある日の事です。海難が続き船頭衆が集まりその対策を相談し、仏さまの石像を作ろうという話が持ち上がっていた夜の事です。一人の船頭の枕もとに女性が立ち、「観音様をお造りになるのなら、石山寺の観音様を作りなさい」とのお告げがありました。次の日の朝、その話を他の船頭たちにすると、俺も俺もと、みんな同じ事を言いだします。皆同じお告げがあったのです。
 その事から、古くから漁師たちの目印ともなっていた、ある奇岩に祠を作り観音様を祀ったのです。それ以後、海難騒ぎはなくなり、海運業を営む問屋たちは、「これも蓮如さんのおかげ」という事で、吉崎の浦沿いに幾つもの観音様を祀りました。
最初の観音様は、お告げのとおり大津にある石山寺とそっくりなものを作りました。この石山寺、京都にほど近いこのお寺にも、蓮如さんの伝説が残っています。
 蓮如さんが17才で比叡山に入山し、修行を続けていて5年が経過した時の事、本願寺は日々衰退し、このまま断絶に及んだのでは、高祖・親鸞聖人に申し訳が立たないとして、苦悩にさいなまれていました。そして12月28日の夜、蓮如さんの夢の中に一人の化女が現れたのです。
 「蓮如よ、心を痛めたもうな。やがて他力本願が弘通(ぐずう・あまねく広まること)するときは近い。よく仏法を守るのです。」
厳然と告げる化女に対して、蓮如さんは夢の中にありながら、
 「この山は女人結界の霊地で、女人堂より上に登る事ができないはずですが…あなたは誰ですか」
と訊ねました。化女はにっこりと笑い、
 「わたしはこの山より四、五里ばかり離れた所に住む、そなたと有縁のものです」
と告げるやいなや、たちまち光明が輝き、紫雲がたなびいて虚空はるかにのぼったかと思ったところで夢から覚めました。あたりには妙なる香りがただよっていました。
蓮如さんは、比叡山から四、五里の石山観音の化身という母が、自分を慰めるために現れたのだと感じ入り、大いに力を得て学問に没入したそうです。
 実は蓮如さんが六歳のとき、父・存如上人に正式な結婚話が持ち上がり、本願寺の下女だった蓮如さんの母は、これ以上寺に留まるべきでないと判断し、かねてより用意していた「鹿の子の小袖」を布袋丸に着せ、当時、京で随一の腕前という絵師にその姿を描かせ、いつか「御流を興したまえ」と言い残して本願寺を去っていきました。実の母と生き別れになったのです。
 そして、あるとき石山寺でどこかで見覚えのあるこの絵を見つけ、母はこの地にいると確信したのです。石山寺の観音様が蓮如さんの母という伝説もここから生まれているのですが、この縁が、江戸時代末期に吉崎に創られた「岩崎観音群(岩屋観音群)」の、石山観音の由来とも言えます。
 北前船の全盛時代、吉崎の船頭衆によって造られた「石山観音・如意輪観音像」の岩窟の前に、一つの歌碑があります。
『後の世を ねがふ心はかろくとも 仏の誓ひ重き石山』
母から学ぶ事への力を貰い、多くの民百姓に生きる力を与え、それもみな「蓮如さんのおかげ」と感謝をし、次から次へと歴史を作ってきた北陸で生きる人たち。蓮如さんが広めた教えを、親から子へ、子から孫へとつなげていく歴史の重さ。この吉崎の地には永久にその想いも込められている場所なのです。