BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その1】

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如意輪観音


序章

 地球上には多くの宗教が存在しています。そして宗教で作られている国家が多く存在しています。そしてそのために戦いも起こっています。

 平和な現在の日本には政教分離という概念があり、「無宗教」だと名乗る人が多くいますが、葬式仏教が残っているように、日本人の心の中にはどこかに宗教観が眠っていると思うのです。

 そして今、六百年あまり昔にある一人のお坊さんが現れた事を、今一度思い出さないといけない時代が来ていると感じているのです。

 現代の日本は、長く続いた江戸時代の流れが深く刻み込まれた世の中になっていると感じています。「天下分け目の合戦」と呼ばれる「関ヶ原の戦い」以降、徳川の時代は徳川政治に反発した勢力を抑え込みながら「安泰」のその時代を創り上げました。

 現代と同じような感覚の中、日本は平和を望む国となって行ったのです。そして、歴史は勝者によって造られていくという当たり前の世の風潮が、本当に日本人に大事なものを消し去っていると感じているのです。

 戦国時代の三英傑、信長・秀吉・家康を一番苦しめたのが「一向一揆」という宗教勢力でした。「南無阿弥陀仏」その六文字には抱えきれない悲しみと同じような重さの、「未来への戦い」があった事を今一度思い出す時が来ているのではないかと思うのです。そこには痛ましい歴史があるのですが、「感謝」や「ありがたさ」という言葉をもって、人々の感情を眠らせるという「信仰心」だけではなく「このままでいい」というところに座り込ませない「教え」を広めたお坊さんがいた事を。

 そのお坊さんの名前は「蓮如」。北陸地方では今でも「蓮如さん」と呼ばれるほど愛され続けるお坊さんです。

 このお話しは、蓮如さんが北陸で撒いた「信仰心」の種が、世の中を動かすようになった意味を知ってほしいと書き溜めたものです。

 

第1章「本願寺に生まれた蓮如さん」

 浄土真宗では、法然上人を元祖と仰ぎ、親鸞聖人を宗祖と仰ぎ、蓮如上人を中興の祖と読んでいます。この三人が浄土真宗では最も大切な方々と呼んでも過言ではありませんが、なかでも蓮如上人のご出生がなければ、今の世の中にこれほど多くの念仏者が生まれることはなかったと思われています。

 そして、その人生は波乱万丈に飛び、大変なご苦労の中で平和を求め、布教に努められた事を忘れてはいけないのです。宗祖親鸞聖人も、大変ご苦労をされ布教にあたりました。そして、九十歳の長寿を全うされ、お亡くなりになる前に弟子の蓮位坊にこう述べたそうです。

 「自分の人生を振り返ってみると、いろいろ苦労もあったが、日本国中津々浦々にお念仏の声が聞こえるようになったことを考えると、無駄ではなかった。しかし蓮位坊、今、仏法は繁昌致しておれど、やがて念仏の火が消える時期が来るであろう。その時は親鸞、この娑婆に再び現れ念仏を広めねばならない。」

 そう言い残されてご浄土へ旅立たれた親鸞聖人、その言葉を蓮位坊は涙ながらで『我が家の記録』として書き残したそうです。

 それから約百五十年後、蓮位坊から八代目にあたる下間法橋というものがおり、代々本願寺の家老職として勤めておりましたが、ある日のことです。眠っている枕もとで、

「こりゃぁ法橋、こりゃぁ法橋・・・」という声がするので眺めてみると、そこには親鸞聖人が立っていて、

「そなたの先祖の蓮位坊に約束したとおり、この親鸞、恥ずかしながらまた来たぞよ。」

と話し出しました。あまりのことに驚いた法橋は目を覚まし、

「今のは夢か・・・しかし尊い夢を見せていただいたもんだ…」

とつぶやいたその時、本山からの使者が、

「法橋殿、法橋殿、ただ今、男のお子様がお生まれになりました~」とあわてて告げに来たのです。

法教が取るものも取りあえず本山へ馳せ参じると、そこには少し前に見た夢の中に現れた御開山様のお顔と、瓜二つの赤ちゃんがいらっしゃったのでした。

「あぁー、これは唯人ではない、御開山様が堪り兼ねて、この娑婆に再びお出まし下さった・・・」

そう下間法教は心の中で蓮如上人を親鸞聖人の御再誕であると確信したのでした。

本願寺第八代法主になる蓮如上人は、応永二十二年二月二十五日に産声をあげました。一四一五年、室町時代のことです。