BAMUのつぶやき

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山ぞ恋しき~蓮如上人「吉崎建立ものがたり」~【その7】

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賞金がかかった蓮如さん


第2章

 蓮如が吉崎に布教の地を求めた十年前から、日本では餓死者が何万という大飢饉がおこり、「応仁の乱」という戦乱と飢饉で、人々の暮らしはどん底状態のありさまでした。本願寺の再興を願う前に、今一度お念仏の尊さを教え広めるという考えが、蓮如には大きかったのです。

 蓮如上人の布教手段の一つに「御文(御文章)」というものがあります。

 浄土真宗の教えや、蓮如の考えを、「文」という形で各地へ送り、識字率(しきじりつ)の低かった民百姓に、村長や長老、そして京から流れていった坊主達からそれ読み聞かせ、浄土真宗の教えを広めていくという手法です。

 現存する御文(御文章)で一番古いものは一四六一年、蓮如本願寺をついで四年目のことで、本願寺が焼き討ちにあう四年前のものです。それは、堅田門徒の、道西に与えられたものです。

 それを読んでみると、災害や犯罪で涙を流す現代に通じるものがあると思ってきます。引用してみましょう。

(原文より)『当流上人の御勧化の信心の一途は、つみの軽重をいわず、また妄念・妄執のこころのやまぬなんどいう機のあつかいをさしおきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念おこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまうなり。

 これすなわち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ、信心を如来よりあたえたまうというもこのこころなり。

 さればこのうえには、たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず。

 ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることの、かたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なり、とこころうべきなり。

 これまことの専修専念の行者なり。これまた当流にたつるところの一念発起平生業成ともうすもこのこころなり。あなかしこ あなかしこ 寛正二年三月日』

 

簡単に意訳すると、「親鸞聖人がお広めになった一筋(ひとすじ)の信心(しんじん)は、私たちの罪の軽重(けいちょう)や、つねに忘念(ぼうねん)や忘執(ぼうしつ)にとらわれる私たちの愚かな人間性を、いっさい問題にしないということです。

 私たち在家の者は、さまざまな仏道修行にたいする執着を捨てて、ひたすら阿弥陀如来の悲願に帰依し、疑いなく如来の慈悲を頼む信心さえ起こりますと、すぐさま如来が光明を放って摂取してくださるのです。

 ですから、仏様のほうから助けてくださるというのが、私たちの信心です。私たちは、こういう信心さえも、実は如来が授けてくださるのだと信じているのです。

 だから私たちはいったん信心を得たなら、その後で、たとえ名号をとなえるとしても、もう、仏様お助け下さいとは祈ってはいけないのです。後はただ、ひたすら弥陀をたのむ信心が起こったことによって、容易に助けていただけることをかたじけなく思って、如来のご恩にお礼を言うために念仏するのです。それが本当の念仏ひとすじの行者の態度です。私たちの宗旨で言っている『信心さえ起これば、死にぎわを待つまでもなく、平生のままで極楽往生が約束されている』というのも、この絶対他力の信仰を意味しているのです」

 これが、親鸞聖人の教えだと御文(御文章)に書かれています。

 本願寺第八代法主蓮如上人はこのような御文(御文章)をたくさん書き、信徒の輪を広げていきました。この時代に、飢えや争いで、ただただ悲しく死んいく人たちのために、自分の出来ることが信心を与えることだと思い、布教に励まれて行ったのです。本願寺という自分の家をなくし、後に、京から遠く離れた北陸の地「吉崎」を布教の地と定めて旅する彼の心の中には、社会不安の情勢が、大きく深く関わりあったものなのでした。

 後々、戦国時代の三英傑と言われる「信長・秀吉・家康」を恐れさせた「一向一揆」。日本という国を動かした日本人の心には、この蓮如の人柄や行動力から生まれたものだけでなく、自分の生い立ちからの苦労を背負って生まれた、「幸せに生きる」という責任感だけなのでした。

 血で血を洗う「応仁の乱」。室町時代の日本を二つに分けて争うこの戦いが、京の町を全て焼き尽くしたのは、応仁元年、一四六七年のことです。

 室町時代の将軍家は、守護大名による合議制の連合政権であるため、権力基盤が脆弱でした。そして当時の将軍「足利義政」は気まぐれな文化人であり、政治的混乱が生じても何ら策を取らないため、幕府を支える三管領四職守護大名たちの力が大きくなっていったのです。

 そのような中、二十九歳の義政は政治が嫌になり、早々と隠居を決意しました。そしてそれが、継嗣争いとなり、管領家細川勝元」と四職山名持豊」らの、守護大名の争いに発展し、日本中を東西に分けた争いへと広がっていったのです。

 寛政六年、一四六五年に「本願寺」を焼き討ちされた蓮如は、滋賀堅田門徒たちの力を借り、応仁の乱の真っただ中でも、焼きだされた庶民の力になるため、各地で布教活動を進めていました。

 当時、蓮如には、比叡山から多額の賞金がかかっていました。その額「金一貫文」。今の額にすると、約二千万円以上になりますが、当時の相場ではそれ以上の金額ではないでしょうか。それゆえ、金目当てで蓮如の命を襲うものはたくさんいました。