BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その11】

<第3章>

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  文明三年(一四七一年)、小舟で近江堅田を旅立った蓮如は北国へと向かいます。準備万端と思っていてもその旅は、各所で刺客が待ち受ける旅でした。琵琶湖を北上し、北陸は敦賀へ向かう旅も、賞金首のかかる蓮如には、明るい道を歩く事ができず、人里離れた山道を、北へ北へと隠密裏に進んでいったのでした。

その頃、堅田の法住をはじめとする門徒衆も、次から次へと北国へ向かう旅支度をしていました。蓮如を慕う多くの仲間たちが、後を追って行こうとしていたのでした。その心のうちは、少しでも蓮如の力になれればというもので、当時、未開の地と呼ばれる北陸での暮らしを心配でたまらなかったのでした。

蓮如が北国へと旅立った近江堅田には、幼い蓮如の子ども達が残されていました。

応仁元年(一四六七年)、有力大名の細川勝元山名宗全の対立、畠山・斯波両管領家の内紛、そして将軍家の継嗣問題が絡んで勃発した「応仁の乱」は、この頃には近畿一円、北陸はもとより、東海、中国、北九州など、広い地域に及び日本中が乱世と呼ばれる時代に突入しておりました。

当時吉崎は、「春日社・興福寺領河口庄細呂木郷」に属していて、大家彦左衛門吉久というものが名主をしておりました。彦左衛門は、河口庄庄官の地位にあった和田本覚寺蓮光と近しい関係にあり、本願寺の末寺「田島興宗寺」門徒の一人として、吉崎一帯を任されていたのでした。

彼は、幾度となく堅田の法西・法住のもとを訪れ、蓮如の北陸進出の手助けをしておりました。特に、加賀・越前の守護職争いが、悲惨なものへと広がっている現状をいち早く蓮如に知らせ、いろいろと北陸の情報を伝えていたのでした。

国境にある「吉崎」の地は、加賀・越前のどちらの守護が治めて行くのかが、まだ定まらない状態だったので、彦左衛門の情報は蓮如にとって本当に大切なものでした。そしてまた、堅田に残された蓮如を慕う者たちにとっても、まだ見ぬ北国の様子を知る上でも、大切なものなのでした。

応仁の乱」は日本の歴史上、戦国時代への突入の時とも呼ばれ、大名同士の争いに巻き込まれ数多くの死者が生まれ、民百姓の涙がどれほど流れた事でしょう。戦乱の地となった京の町は火の海となり、多くの人が焼け出され、雨露をしのぐために寺に迷い込んだ者も多かったのでした。

 

蓮如が北陸へと旅立った時、蓮如の二番目の妻「蓮佑」の残した子ども達の生活を助けたのは、法西・法住をはじめとした堅田門徒衆でした。そして、里子にも出せない子ども達と門徒衆の信頼をつかみ、蓮如の子ども達を、一人の女がしっかりと育て上げていく事になります。その名は「お勝」。後に法名を「如勝」として蓮如の三番目の妻となるのでした。

お勝の父は早くに亡くなり、母と八つ違いの姉の三人でひっそり暮らす賤民(せんみん)の家族で、お勝の母は、室町幕府四職のひとり、山名宗全の屋敷に奉公していました。

お勝の姉「お夕」は米問屋に奉公に出ていて、時たま家に帰るだけなのでお勝は母と二人きりの暮らしをしていました。小さいころから家事を手伝い、働き者の子どもでしたが毎日の生活に苦しみながらもお勝には楽しみがありました。家の近くにある寺に同い年の娘がいて、その子と遊ぶことが唯一幸せなひと時なのでした。寺の雑務に追われるその娘もまたお勝と過ごす時間が楽しくて仕方なかったのです。

その娘の名は見玉、蓮如の第四子です。見玉は七歳で里子に出され貧しかった本願寺を後にしました。見玉の最初の奉公先は、本願寺とは宗派の違う禅宗のお寺でしたが、大飢饉や土一揆の影響で京の町の治安も悪くなり、蓮如の叔母のいる摂受庵に移っていたのでした。

里子に出された見玉をはじめとする子ども達と蓮如のいる本願寺との連絡役は、長男順如が行っていました。見玉と順如とは六歳離れていて、父の事本願寺の事、そして見玉の知らない土地の事を教えてくれる兄を、見玉は本当に慕っていました。

ある日の昼下がり、見玉とお勝が楽しそうに話をしているところへひょっこり順如が顔を出しました。

「あっ兄上」

「見玉、達者か?」

その時、初めてお勝は順如を知ったのです。

「兄上、この子はお勝、わたしの友達です。」

「そうか、お勝、見玉から聞いているぞ、子どもなのに働き者でしっかり者だと・・・」

「こんにちは」

可細い声でお勝は答えるのがやっとでした。

「見玉が達者でやっているかと気になって、今日は父上と一緒に来たんじゃ」

「えっ本当でございますか、父上は何処に・・」

「今、叔母上にご挨拶に行っておいでだ、お爺さまがお隠れになった際のお礼も兼ねてだがね」

この前年蓮如の父存如が亡くなり、本願寺第八代の座を異母兄弟の応玄と争い、本願寺には長男蓮如の時代が訪れたのでした。

順如と見玉、お勝が楽しそうに話をしている時です。蓮如が近くに現れました。

見玉は父のところへ走り寄って行きました。

「ちちうえ~~」

「見玉、久しいのぉ、達者そうで何よりじゃ」

「父上、お久しぶりです、元気で過ごしております。」

久しぶりに父の顔を見て、見玉は嬉しくてたまりませんでした。

見玉の母「如了」はすでに他界していて、「如了」の妹「蓮佑」が蓮如の2度目の妻として本願寺に嫁いでいました。見玉は叔母にあたる蓮佑尼も小さい時から知っていたので、本願寺の温かい家庭の雰囲気が懐かしくて仕方がありません。貧しくても心の通い合っている家族の話しが飛び交っていました。

そんな中、少し離れた場所から父と子、兄と妹の会話を横に、お勝はじっと蓮如の顔を眺めていました。お勝は父の顔を覚えていませんでした。賤民としての生き方の中では、家庭と呼ばれる雰囲気というものが、全く理解できませんでしたし、字も読めず、外の世界の事も何も知らない自分がいるという事を、この時に分かったのかもしれません。何かしら心の中に、温かいものを欲しがる気持ちが芽生えた時でもありました。

「見玉、達者で暮らせよ。何かあったなら、兄者に伝えるのじゃぞ」

蓮如はそう言ってその場を去っていったのでした。

父という存在、家庭という温かさ、お勝は見玉から学んだと言っていいでしょう。賤民としての暮らしの中で明るく生きるお勝。そんなお勝の人生に、大きな転機が訪れる事になります。血で血を洗う「応仁の乱」により、お勝の家も焼け出され、母は傷つき、姉も行方不明となります。お勝は母を連れ、見玉のいる摂受庵をたよりとするのでした。そこには蓮如の二番目の妻「蓮佑」をはじめ、見玉の姉「如慶」など、本願寺が焼打ちにあった事から多くの蓮如の肉親が集まっていました。食べるのもやっと時代、大勢の人間の中で、新たな生き方を学ぶお勝なのでした。

見玉とお勝、この二人のきずなは、やがて北陸の地「吉崎」へと繋がっていくことになります。蓮如にとっても、人生の転換期を迎える「吉崎」での布教の大きな活力を、この二人から授かる事になるのでした。