BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その16】

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馬場大路からの景色


蓮如を吉崎の地で出迎えた「法敬坊順誓」、加賀の国松任生まれのこの男と蓮如の出会いは、吉崎建立から二十五年ほど前のことでした。

蓮如は、父「存如」と三度目の北陸下向を行っていました。その時、行く先々の村々を廻り布教活動をして歩いていたのです。

ある村でのことです。

厳つい顔をした若者が、せっせせっせと麦刈りをしていました。

若者の名は「作治」、この村の長の息子で、働き者で親孝行者。けれど村では一番の乱暴者として名が通っていました。

たまたま、そこを通り過ぎた蓮如は、何かを感じたのです。そして蓮如は、その男の傍へ寄っていき語り掛けました。

「忙しゅうところ、しばし儂の話をきいてくれんかのぅ。」

「なんじゃぁ坊さん、儂は今、麦刈りで急いでるんじゃ、話なんぞ聞いてる暇などねえぇ。」

「儂は京から来たんじゃが、汗流して働くおぬしをみてのぉ、何とかして儂の話を聞いてもらわにゃと思うたんじゃ。」

「坊さんの話を聞きたいなんざぁ思うとらんでのぉ、はよぉあっちゃ行けやぁ」

「そうかそうかそれじゃあな、儂が手伝って、この麦を刈るからのぉ、捗がいったならば、たとえ少しでも儂の話を聞いてくれんかのぉ」。

その時作治は、『こりゃあうまいこと、この坊主手伝わして、今日の仕事を早く片付けることがでける』と喜んで、蓮如に鎌を持たせました。

「さぁ刈らっしゃれ」作治は思っていました。

『この広さ、どっちみち今日中には仕舞われないでの』

蓮如は自分の話を聞いて貰いたいばかりなので、己を忘れて一生懸命、今迄一度も刈ったことのない麦を、次から次へと刈り取っていきました。

作治も、汗を流し流し、蓮如に負けじと刈り取っていくのですが、その速さに付いて行こうとしても蓮如には適わなかったのです。

そうして麦が全部刈られたわけですが、いつもなら三日かかっても出来なかった広さの麦を、たった一日で、しかも陽がまだ高いうちに刈り取る事ができたことに作治は驚き、突然、懺悔の涙に暮れました。

『ハァァーッこのような俺が長い間百姓やっていても適わんということは、これは唯人じゃない、儂に仏法聞かしょう為に死に物狂いで刈ってくれたんじゃ』と、頭を下げて蓮如に言いました。

「坊さんすまんのぉ、いつもは三日もかかるこの畑を、こんなに早く刈る事ができるなんて夢のようじゃぁ。」

そして、田んぼの畦道に腰掛けて、

「じゃあ聞かして下され。坊さんの話をのぅ。」

それから蓮如は作治に、弥陀の本願、南無阿弥陀仏の謂れを、わかりやすく、そして面白おかしく話をしていったのです。

そして段々と時がすすむにつれ、作治の眼から涙があふれ、顔つきもやわらかくなっていきました。日々の暮らしに追われる男に、新たな光を与える事ができたのでした。

その作治が蓮如の弟子となり、法敬坊順誓を名乗る事になったのです。

それから、毎年加賀の国から麦がたくさん京の本願寺に届くようになり、貧しい本願寺を支えて行く事になったのです。

 

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国指定史跡「吉崎御山」

http://www.city.awara.lg.jp/mokuteki/education/kouminkan-n/komin-yoshizaki/oshirase/oshirase/p000467.html
文明三年(一四七一年)、夏真っ盛りの小高い山に、小さなお堂が出来上がりました。

その時、海からの風は涼しく、携わった大工や大勢の人たちにその風は、本当に新鮮で、大きな夢をなびかせるものでした。

蓮如さま、ついに出来上がりました、これからでございますね、北陸でのお勤めは・・・」

十歳から蓮如のそばにつき、苦楽を共にしている慶聞坊竜玄が云いました。

「竜玄、本願寺が山門衆の焼き討ちにあってから、いろいろ世話をかけたのぅ。でものぅ、まだまだ楽は出来まい。そちにもまだ働いてもらうぞ、よいのぅ」

五間四面の御堂の前に、蓮如と弟子たちが集まりました。竜玄や法敬坊順誓をはじめ、蓮如の四男蓮誓、そして越前入りしてから道案内をして吉崎に来た心源。地元の豪族であり、吉崎の地を治めていた大家彦左衛門も笑顔を浮かべてその中にいました。

本願寺蓮如の北陸での布教活動の拠点が、今、完成したのです。

その当時の吉崎の地を知るにあたり、蓮如の一通の御文(御文章)があります。吉崎に御堂が建立された二年後、文明五年(一四七三年)九月の御文に、こう表されています。

『文明第三、初夏上旬のころより 江州志賀郡(ごうしゅうしがのこおり)大津三井寺(おおつみいでら)南別所辺よりなにとなく不図しのびいでて、越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。

よつて当国細呂宜郷内吉崎といふこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して、昨日今日と過ぎゆくほどに、はや三年の春秋は送りけり。

さるほどに道俗・男女群集せしむといへども、さらになにへんともなき体なるあひだ、当年より諸人の出入を とどむるこころは この在所に居住せしむる根元は なにごとぞなれば、そもそも人界の生をうけて あひがたき仏法にすでにあへる身が、いたづらにむなしく捺落に沈まんは、まことにもつてあさましきことにはあらずや。

しかるあひだ 念仏の信心を決定して 極楽の往生をとげんとおもはざらん人々は、なにしにこの在所へ来集せんこと、かなふべからざるよしの成敗をくはへをはりぬ。

これひとへに 名聞利養を本とせず、ただ後生菩提をこととするがゆゑなり。しかれば見聞の諸人、偏執をなすことなかれ。あなかしこ、あなかしこ。』

 [帖内御文 第一帖第八通 文明五年九月]

(意訳)文明三年初夏上旬の頃より、江州志賀郡大津三井寺の南別所あたりから、何という目的もなく、にわかにこっそりと出立して、越後・加賀のあちらこちらを巡り歩きました。

そうして、当越前国細呂宜郷の内、吉崎というこの土地がとりわけすばらしいところでしたので、長年、獣が住むような荒れた土地であったのを切り開いて、 七月二十七日より形ばかりの一宇の坊舎を建立し、昨日、今日と過ぎゆくほどに、早くも三年の月日を送りました。

こうしているうちにも、この吉崎へ、道俗男女の人々が群がり集まるようになりましたが、全く何の甲斐もない様子であるので、今年より人の出入りを禁止することとしました。

この吉崎の地に暮らしている理由は何かと言えば、そもそも人間界に生を受けて、遭い難い仏法にまぎれもなく出会った身が、無益にむなしく地獄に沈むようなことは、本当に嘆かわしい事ではありませんか。そのように思ってのことです。それゆえ、念仏往生の信心を決定(けつじょう)して、極楽への往生を遂げようと思わない人々は、どうしてこの地に集まってこられましょう、そのようなことは許さないと処置を与えたのです。

この吉崎に坊舎を建立した理由は、世間的な名誉や利益の追求ではありません。これもひとえに、後生の菩提だけを願ってのことです。ですからどうぞ見聞きなさる人々よ、身勝手に悪く言う事がありませんように。あなかしこ、あなかしこ

 

ついに、吉崎に坊舎を建てた蓮如の下に、これから多くの人々が集まるようになっていくのですが、その人々の心は、蓮如の理想としているものではなく、現実にそれを知るにつれ、蓮如は益々布教活動に励んでいく事になっていきます。

あくまでこの「吉崎建立」は、蓮如の人生の通過点ではあり、波乱万丈の中で、ささやかな幸福感を与えてくれた暮らしなのでした。

 

その頃、琵琶湖のほとりの堅田では、旅支度に追われる一行がおりました。

「姉上、これでよろしいでしょうか。」

「実如、荷はなるべく少なめになさい。越前の国へは、険しい山道が多いと聞きます。女や子どもが、ゆっくり歩いて行けるような所ではないのですよ。」

蓮如の次女見玉が、弟の実如にそう云いました。

「見玉様、儂たちも同行させて頂きますので、安心してくださいませ。」

「法橋殿、かたじけのうございます。越前の事を良く知っておられる本覚寺殿も追従していただけるとか、父上のもとへ早く参りたいと思うわれらには、何事にも代えられない強いお味方でございます、のぅお勝。」

「本当でございます。心強う思います。」

そばにいたお勝が頷きました。

本願寺家老職の下間法橋をはじめ、蓮如の子ども達が父を慕って吉崎へ向おうとしていました。離れ離れになって暮らしている家族が、吉崎の地で暮らす決意をしていたのでした。

文明三年(一四七一年)、蓮如が越前の北にある小さな「千歳山」に坊舎を建てひと月が経とうとしていました。小さな坊舎の横に庫裏なども建ち並ぶ様になり、「御坊」と呼ばれるようになりました。

ある朝、日が昇りはじめる薄暗い中で、蓮如は海を眺めていました。

そこへ慶聞坊竜玄がそばへ寄ってきました。

「台下(蓮如のこと)おはようございます、相変わらずお早くお目覚めですね。」

「竜玄か、ぬしも早いのぉ。」

笑顔を交わすふたり。夏も終わろうとしている頃だけに、少し肌寒く、海からの風は冷たく感じてはいたものの、この二人の温かい笑顔の周りには吹き込む余地もなかったかもしれません。

「竜玄、カラスの声を聞いたか?」

「はい、今少し前に・・・」

「明け烏の声を聞くと、夜を共にする男女にとってはつれなく感じるものじゃ。じゃがのぉ、儂には弥陀の叱り声に聞こえるのじゃ。はよぉ起きて仏法を唱えよとなぁ。」

「さようでございますか、台下が追手を恐れ、今までゆっくりと、眠る事もなくおいででしたので、やむを得ないことかと・・・」

「いやいやそうではなく、遠くで聞こえる海鳴りの音が、烏より前に夢の中で語り掛けてるのではと、儂は思うのじゃ。」

そして蓮如は和歌を詠んだのでした。

『浜坂の 山のあなたに打つ波も 夢驚かす 法の音かな』

浜坂というのは、北潟湖をはさんで吉崎の対岸にある場所で、やや大きな砂山で出来ている場所です。そしてその向こうには日本海がありました。

この頃、吉崎浦も浜坂浦も、小さな漁村でした。海へ出て漁をしながら毎日の生業としている村々だったのです。しかしながら蓮如がこの地に腰を下ろすと、北から南からと多くの人が入り込んできていました。浜から、小高い山にある蓮如の寺まで通じる道も、険しいとはいえ人が登りやすくなっていきました。その山もいつしか「御山」と呼ばれるようになり、弟子や訪れる人々の宿舎としての草庵が立ち並び、それは、多屋と呼ばれていました。御山は南北と西を湖水で囲まれていて、陸続きの東側には門ができ、山頂に続く道の両脇には、大坊主と呼ばれる蓮如の側近たちによる家が立ち並んだのでした。

それは、京にあった「本願寺」が焼打ちされてから、身を守るべく蓮如の経験から生まれた、一つの城塞としての働きを持つようになっていたのでした。三方を水で囲まれた御山は、自然の要塞として働き、そのうえ、御山全体を囲むように土塁をめぐらした姿は、民百姓の眼にはどう映っていたのでしょうか?

人のうわさは早いものです。

『北陸の吉崎という地に、京から来た偉い坊さんがおる・・・』

そのうわさを聞きつけ、越前北部や加賀の国からのみならず、白山山麓の村々や越中・越後から、次から次へと蓮如に会いに来たのでした。その対応に追われながらも、次から次へと蓮如に帰依する人が増え、蓮如の弟子となり吉崎に住む者も増えて行ったのでした。三方を水で囲まれていた事で、陸路から訪れるものより船を使って訪れるものが多く、その際いろいろな品を一緒に持ってくるようになり、吉崎の浜では「市」が立つようになっていったのです。

北潟湖の湖水に、舟の行き来が多くみられるようになった頃、「慶聞坊竜玄」は湖を眺めていました。

「竜玄様、如何にされましたのでしょうか、このような場所で。」

「本向坊殿か、この地にはなれましたかな?」

本向坊とよばれたこの男は、この地の荘園を治めていた本覚寺に縁があるもので、古くから蓮如の教えに共感し、本覚寺を通じ蓮如の弟子となり、竜玄と共に蓮如の側近として吉崎で暮らすようになった者でした。

「台下のそばに使える事ができ、竜玄様のおかげで、無事に作務を終えられる毎日でございます。」

「それはそれは、良い事でございます。私も訪れる方々の対処に追われる身となり、台下のそばに、ずっと居られる事ができなくなりました。安心して他の作務に付ける事も、本光坊殿や皆のおかげでございます。」

そうして二人は、毎日の暮らしの事について、笑顔を交えて話しておりました。

すると突然竜玄が湖を見て、

「おぉ、あれかもしれんのぉ」

「何がでございます?」

「女人が乗っておられるじゃろう?赤子を抱いている女人もおられる。幼子も幾人か・・・、そして、その後ろに厳つい僧も・・・」

「はい、たしかに・・・」

「台下のお子様たちがお着きになられたのじゃ」

堅田に居られたという、お子様がぁ・・・ですか」

二人は走ってその舟の到着する場所へと向かった行きました。

 

「見玉様、よくご無事で。」

「法敬坊殿、ありがとうございます。これから世話になりますが、どうぞ良しなにお願いいたします。」

見玉達を出迎えたのは、法敬坊順誓と心源を含めた側近たちでした。

「見玉様、お久しゅうございます。堅田からの旅、さぞやお疲れの事と思います。

本覚寺殿はどうなされました?」

「越前に入ったので、一度自坊へ戻るとの事でした。法橋殿は歩いて参りますので、今暫くかと・・・」

「さようでございますか・・・」

そう語り合う二人の横で、二人に視線を落とさず、舟から下り荷物をまとめている子ども達を、じっと見つめる男を見つけ、

「其方は・・・」

「ははぁ、この僧は『心源』と申しまして、台下が越前入りしてから、ずっと共をしてきたものです。」

自分の名を呼ばれ我に気づいた心源は、

「心源と申します。お初にお目にかかります。」

「そう、あなた様が暴漢に遭われ山へ逃げ込まれ、道に迷うた父上をお連れしたという・・・かたじけのぅございます。」

見玉の語る事を上の空で心源は聞いていました。

それは、蓮如の幼子を連れて歩いてくる「お勝」のことが気になって仕方がなかったからでした。見玉同様、お勝にも心源は初めて出会ったのでした。