BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【最終回】

年が明けた文明四年、見玉尼は咳き込むようになりました。

「見玉大丈夫か?やはり北陸の冬は寒いからのぅ、養生せねば・・・。」

「お父様大丈夫でございます。具合が悪いということを、里のものも気にしてくれて、精の出るものと言っていろいろ持って来てくれますので、本当に助かります。今朝も浜坂浦の喜八殿がやって来て、カニを持って来てくださいました。それはそれは大きなカニで、『雑炊にして食べたら精が出る』というので先ほど頂いたのですが、それはそれは美味しくて美味しくて、全部食べてしまいました。」

「そうかそうか、この海で獲れるカニは本当に旨いでのぉ、冬でないとこの味は出んそうじゃ。食べられてしもうたカニはもちろんじゃが、皆の気持ちも汲んで、早く良くならんとのぅ。」

 

 春を迎え、蓮如の坊舎の周りにも桜の花が咲きました。

「ここで迎える初めての春、このような美しい桜に囲まれて嬉しいものですね、お勝。」

「見玉様、本当に嬉しゅう思います。堅田の桜も、こんなにゆっくり見る事なんてありませんでしたもの。」

「本当ですねぇ、堅田にいた時は、いつ襲われるかと心配な毎日を過ごしておりましたからねぇ。」

「実如様をはじめ、弟気味のお世話で、見玉様も大変でしたし・・・」

「それはお勝、其方も同じではありませんか、今思うと、叔母や姉、妹を亡くし、悲しさに打ちひしがれていたときも、其方がそばに居てくれた事で、どれほど力になった事でしょう。礼を云います、お勝本当に感謝しますね。」

「滅相もございません、お礼を申し上げるのは私のほうこそでございます。住む処を焼け出され、食べるものもなかった時に、見玉様とお会いできなかったらと考えますと、今がある事を本当に嬉しく思うだけでございます。」

見玉とお勝、この同い年の二人は別々の生い立ちを過ごしながら、蓮如を通じ、一番心を許せる二人となっていました。蓮如を慕い、北陸の地「吉崎」で幸せな日々を一緒に過ごしている二人にも、残念ながら別れの日が訪れる事になります。人としての常とはいえ、四苦八苦の道を歩んでいく事は、避けては通れない道です。桜も散った5月、見玉は咳き込むことが多くなり、ついに喀血してしまいます。

「見玉様、見玉様、誰か、誰か~」

「どうされましたお勝殿。」

「竜玄どの、蓮如さまにお知らせを・・・」

やがて人が集まり、医者も立ち合い、決断を下さいます。

労咳(ろうがい)でございます、もはや幾月ばかりかと・・・」

 

文明四年(一四七二年)、五月。

京、東山本願寺比叡山の山門衆に焼打ちにあって七年が経ちました。五十八歳になった蓮如には、貧しい本願寺時代から数えて、十七人の子宝が授かり、後継ぎと言える長子「順如」は三十歳になっていました。「順如」は散り散りになった兄弟たちの連絡係として、また、京と北陸「吉崎」を布教の地として定めた蓮如の連絡役として奔走し、本願寺再興に向けて力を発揮していたのです。

一方、その妹で蓮如の第四子にあたる「見玉」は、口減らしのために七歳にして本願寺を離れ、他宗の寺に「喝食(かつじき)」として預けられていました。その後、応仁元年(一四六七年)当時の日本を二分した「応仁の乱」が始まると、その寺からも焼け出されてしまい、それから蓮如の二番めの妻であり母の妹である叔母「蓮佑」や、蓮如の長女であり「見玉」と一番仲の良かった姉「如慶」などを次々と失ってしまい、安住の地を求め蓮如の後を追って「吉崎」に来たばかりでした。

しかしながら、もう既に胸の病に侵されていて、吉崎に建立された坊舎から少し離れた湖の良く見える場所に、隔離される事となったのでした。当時の胸の病のほとんどは労咳で、咳、くしゃみ、唾より感染するとされるために、人里離れた場所に隔離する事がほとんどで、家族さえも交流は許されず、社会的な差別もおこりました。看病する人もそばには寄れず、それゆえ食べるものにも不自由し、体力がなくなり死への道を、ただ進むだけという、不治の病とされていたのです。

隔離されたなか、蓮如やお勝はもちろん、弟子の女房達や里の者も次から次へと見玉を見舞い、それを気丈に笑顔で受け応えする見玉に、人々は勇気を与えられていきます。

ある日、見玉の容態を気にして京よりやってきた兄「順如」と父蓮如が見舞いに来た時のことです。見玉が二人を前に、か細い声で話したのです。

「お父上、いつもありがとうございます。見玉は父上をはじめ、兄上や皆にこのように大切にされて、本当に嬉しゅうございます。今日は、いつも父上の書き物や法話を読み聞きしながら思っておりますことがございますので、お伝えしてよろしいでしょうか?」

「なんじゃ見玉改まって、申してみよ。」

「たくさんのお書き物がありますが、それを読む度に、あぁこれも聞いた、これもあれも・・・と思うのでございます。」

「ほぅ、それは、今まで見玉が学んで来たという事なのではないのか。」

「いえいえ、自分で学んだことは、もっと昔の幼い時のことばかりでございますので、この地に来て父上の書いたものは、ほとんど読み終えてなぞ、おりません。ただ毎日、ここへ来る『お勝』に聞いておる話ばかりなのでございます。」

「お勝が・・・か。」

「そうでございます。父上のご法話を、弟や妹たちの子守をしながら聞き、家事が終われば床に着くまで父上のお書き物を読み、解らぬ事は竜玄殿や蓮崇殿に聞いておるのでございます。京で戦が始まりました際、自分を頼り本願寺に縁のある寺にまいった時は、字も読めず、字も書けなかったお勝がでございます。今では父上の事を一番敬い、父上の事を少しでも知りたいと、一生懸命学んでいるのでございます。」

「うんうん、儂も知っておる。」

「それゆえ、見玉、最期のお願いとして聞いて頂きたいのですが、お勝を父上の、そして本願寺の嫡妻として迎えてやってほしいのです。」

「・・・。」

蓮如は、弱った体に鞭を打ったように話し出した見玉尼に、その場では返す言葉が見つかりませんでした。

比叡山の荒くれ法師たちに命を狙われ、京をあとにし、北陸の地「吉崎」に来た蓮如は、二番目の妻「蓮佑」を亡くし妻はいませんでした。最初の妻「如了」は公家である下総守伊勢貞房の娘で、「蓮佑」はその妹にあたります。

蓮如は考えていました。

「寛正の法難」と呼ばれる仕打ちで本願寺を焼き出され、妻や子を、本当に幸せにできるのか、布教の地として選んだこの「吉崎」に来たばかりの中で、自分を慕う弟子や門徒達が大勢になった今、「蓮佑」亡き後、本願寺の妻として迎え入れる事ができるのか・・・と。

その夜、順如が蓮如に話し出しました。

「父上、昼間見玉が申した事でございますが・・・。」

「うむ・・・」

ろうそくが温かく炎を燃やす中、蓮如は静かに目を閉じ、順如に耳を傾けました。

「自分が思ぉうていた以上に、この地に民百姓が来られております。誰もかれも、父上のお言葉に胸を打たれ、父上を信じ、御仏の心を理解してきております。それゆえ、父上のそばに居りたいという者も増えて参りました。越中井波の叔父上のお寺をはじめ、遠くの寺から父上にお逢いしたいと願ぉうて来られる者も居ります。弟子たちの住まいも増え、多屋と呼ばれる宿坊も増えて参りました。下働きの女衆たちも増え、弟子の女房達も大勢になりました。それも皆、今の世を生き抜くためには、父上のように生きる事への『教え』を導く者が必要とされておるからだと思うのございます。」

「うむ・・・、うむ・・・。」

蓮如はただ目をつむり、順如の言葉に頷くばかりでした。

順如は続けました。

「しかしながら、我々男衆では、女子の心が今一つ掴みきれない事も、多々あると存じます。『五障・三従の女人』として蔑まされてきた者には、我々の計り知れない事がございます。言葉にはできず、ただ胸の奥底に終うしかない事だと感ずるのです。そのような女子には、やはり女子にしか掛けられない言葉があるのではないでしょうか?」

「うむ、儂もそう思うておる。順如も知ってはおるじゃろうが、儂の母君はのぉ、儂が6つの時に寺を去っていったのじゃ。儂は訳がわからんでのぅ、悲しゅうて悲しゅうて、でも父上の前で涙は見せられず、教学にただただ励むことが母君に逢えるという近道じゃと思うておったんじゃ。しかしじゃのぅ、今では、飯炊き女として寺に居った母が、嫡妻を迎える父上に対しての心の優しさじゃと、そう思うておる。」

蓮如の母は、蓮如の父「存如」の妾として本願寺に居て、正妻を迎えるにあたり、当時京で一番の腕前という絵師に、六歳の蓮如の姿を書いてもらい、その絵を胸に終い入れ、

「願わくば児の一代に(親鸞)聖人の御一流を再興したまえ」(蓮如上人遺徳記)

と言い遺して本願寺を出ていかれたとされています。

後に蓮如は、その絵師を探し出し、同じ絵を書いてもらい、母の消息を探していました。

「のぅ順如、儂はお勝に、母と同じ匂いがすると思うておるんじゃ。」

「と、云いますと・・・」

「順如が生まれる前なんじゃが、儂は母に、逢いとぉうて逢いとぉうて、いろいろ聞いて回ったんじゃが、母がどのような経緯(いきさつ)で寺に来たのか、どのように生まれ、どのように生きてきたのか、さっぱり解らんかった。公家の出でもなく、武家の出でもなく、生きるために寺に入り、そして儂を生んでくれたのじゃ。」

「・・・。」

「儂が母の事で覚えておるのは、素敵な着物を着せてくれた事。じっとして居れと絵師に言われておった事。そして、書かれた絵の事は覚えておらんかったが、母が儂の体を強く抱きしめてくれた事じゃ。今思えば涙を流して居ったような気がするのぉ。」

「さようでございますか。」

「今じゃから話せるのかもしれんが、あの時、母のそばに、母の気持ちを汲んでくれる者など、誰も居らんかった。幼い儂には母を助けるなんて気持ちなぞ、湧いてくる事もなかったしのぉ。生きていて辛いと思うのは、人は誰しも同じかもしれんが、女衆のほうが男衆より、はるかに辛いと感じながら生きておると儂は思うておる。」

「父上・・・。」

「お勝もそうじゃ。父の顔も知らんという。寝る場所もなく母者と京を転々としながら暮らしてきたそうじゃ。

見玉と同じ年でありながら、見玉よりもずっと年が上に見えんはせんかのぅ?

それだけ、苦しみや悲しみを乗り越え生きておるんじゃと、生きて来たんじゃと、そう儂は思うておる。」

順如は蓮如の言葉を聞きながら、深く頷くのでした。

後に蓮如は、文明四年に吉崎を訪れた女性一行に伝えた事として、御文(御文章)にこう書き残しています。

(原文)「なにのやうもなく、ただわが身は十悪・五逆、五障・三従のあさましきものぞとおもひて、ふかく、阿弥陀如来はかかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまゐらせて、ふたごころなく弥陀をたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かたじけなくも如来は八万四千の光明を放ちて、その身を摂取したまふなり。これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまふといへるはこのことなり。」(五帖御文第一帖第七通-抜粋)

この御文には、『何の計らいもなく、ただ我が身は、十悪・五逆・五障・三従の浅ましい者であると思い、深く阿弥陀如来は、このような私たちをお助け下さる救いの御姿であると心得、ふた心なく弥陀をお頼み申し上げて、お助け下さいと思う心が一念起こるならば、その時かたじけなくも、如来は八万四千の光明を放たれて、この身を救い取って下さるのです。弥陀如来が念仏の業者を摂取されるというのはこのことです。』と書かれてあります。

(自分の罪の深さを感じれば感じるほど、益々自分は救われる事はないのであろうという思いが強くなり、救われる事への希望が完全に断たれた時に、阿弥陀如来の本願が真実であると確信し、如来の仏恩に報謝しようとする思いがおのずと湧きあがり、念仏するようになるのである。)

この時代、正に虐げていた女性軽視への差別は、仏の前ではありえないという、蓮如が説いていた「女人救済」の原点が、ここにあります。

自分の生い立ちを含め、乱世の中で生き抜く女たちへ、蓮如の教えが広く広がっていった事は云うまでもありません。母と別れ、妻と別れ、子どもと別れ、その全ての経験から蓮如は大きく立ち上がっていったとも言えるでしょう。

 

文明四年(一四七二年)八月、見玉は多くの人に見守られながらこの世を去りました。

二十六歳という若さで命を絶ったとはいえ、見玉は不満ひとつ言わず、幸せな笑顔でこの世を去っていったのです。

本願寺という貧しい寺に生まれ、幼いうちから口減らしのためにその寺を離れ、血で血を洗う惨劇となる京の町を転々としながら生きてきた見玉。その中でも、たくさんの人々に助けられてきた事に感謝をし、「お勝」という心の通じ合った友と出会い、病魔と闘いながらも、父蓮如を慕い敬い、民百姓に希望と勇気を与える姿が、そこにはありました。

またひとり、自分の身内がこの世を去るという悲しみに包まれた蓮如は、どう思っていたのでしょうか?

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明治時代の「見玉尼」墓地


その後蓮如は、見玉の言葉を大切にして、下働きとしてやって来た「お勝」を正式に妻として迎えました。法名に「如勝」と授け、蓮如の身のまわりの事はもちろん、弟子やその女房たちの力となって、北陸の「吉崎」という地で、蓮如の妻として生きていく事になったのです。

賤民と呼ばれた下級階層の女性ではありましたが、蓮如の子ども達をはじめ、親戚や弟子達、そして村人たちの誰一人、蓮如の妻になる事を反対する者はありませんでした。

そして蓮如はまた、母の面影を持つ「如勝」を妻としたことで活力が得られ、教えを広め、益々門信徒を増やしていく事になったのです。

多くの門徒達を持った事で、本願寺蓮如の力は大きくなったと言えますが、蓮如本願寺の再興を願い活動を活発にしていきます。しかし、蓮如の意とは別に、政治に対する不満は大きくなり、各地で「一向一揆」という争いが勃発していきます。

北陸に来てからの蓮如を支え続け、「吉崎」での地位を高め続けていた弟子の「蓮崇」(心源)は、蓮如の意を伝えることなく、一揆を治めず先導するような言葉を各地の村人たちに送っていきます。その心中には、「如勝」となってしまった「お勝」への恋慕がありました。そして、蓮如に破門されてしまいます。

蓮如が吉崎滞在中に、加賀の国の富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入してしまいます。翌年には富樫幸千代を倒した事によって、守護の保護を受ける事を期待していましたが、逆に政親は本願寺門徒の勢いに不安を感じて文明七年(一四七五年)に門徒の弾圧を開始します。そしてその年の八月、室町幕府からは「一揆の責務は蓮如にあり」とみなされ、蓮如は北陸の地からも退去せねばならなくなっていったのでした。

富樫政親に反発した門徒達は、長享二年(一四八八年)、守護職に富樫泰高を擁立して、政親を高尾城に滅ぼしました。「長享の一揆」と呼ばれるものです。それ以降、約百年間、加賀の国は「百姓も持ちたる国」として名を広げ、浄土真宗門徒たちの力は、各地の権力者たちに恐れられていくことになります。

蓮如の「吉崎」滞在は四年三か月だけでしたが、この地での暮らしが一番幸せだったともいえるかもしれません。蓮如の認めた御文は、約二百六十通以上が現存しています。その中で身内の死について書かれたものが二通あり、それは、「見玉尼」と「如勝」の事です。如勝は吉崎を去った四年後、三一歳で没しています。

御開山様と呼ばれる「親鸞」の教えを解りやすく広め、「本願寺再興」という目的を持った蓮如には、この北陸の地での想いは、この二人の女性とともに消えるものではなくなっていたのです。そしてまた、北陸の民百姓には、蓮如が植え付け育てた「念仏の心」が今だなお、生き続けているのです。

『夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき』 (蓮如