BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【あとがき】

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4月23日「吉崎御到着」のようす


 「蓮如さんの心は永遠に永久に」

~御影道中の影に・・・~

 福井県の最北端「あわら市吉崎」。この地で生まれ育った者には、ある言葉を聞きながら大人になって行きました。それは「蓮如さんのおかげ」という言葉です。

最近ではその言葉を口にする人は少なくなりましたが、今では廃校となってしまった吉崎小学校の運動会でも、天気に恵まれ、怪我もなく楽しく一日を過ごした後には、必ず「蓮如さんのおかげ」と語るお年寄りの姿が数多くありました。蓮如さんが亡くなって六百二十年も経っているのに、「蓮如さん」と身近な人のように親しみを込めて呼び、心の中にはいつも蓮如さんへの感謝の気持ちがありました。この吉崎も過疎化と高齢化に悩まされ、宗教離れも備わり、蓮如さんの事を語れる人は本当に少なくなりました。ただ、現代の宗教離れは、特定の教団に属していないという点がかなり大きく、「葬式仏教」という言葉が示すように、葬式のときにしか必要とされない仏教となり、形骸化された結果かもしれません。それが「寺離れ」につながり、蓮如さんを語らなくなった一因だと思われます。

蓮如さんの残してくれたものの一つに「お勤め」というものがあります。日に一度は仏壇の前に赴き、「正信念」や「三帖和讃」を唱えるというものです。今では仏壇も持たない家が増えていますから、このような作法を語ることも無くなりましたし、語れる人も少なくなってしまいました。しかし、この「お勤め」という作法を広めたからこそ、蓮如さんの名前も広がり、「本願寺教団」という日本屈指の大教団が出来上がって行ったことを忘れてはいけないでしょう。

徳川家康が天下統一を成し遂げ、二百六十年続いた江戸幕府の時代が終わってから百五十年経ちました。戦国時代、信長・秀吉・家康の三英傑を困らせた「一向一揆」の始まりは北陸の地からと云われていますが、その種をまいた蓮如さんの業績もまた、忘れ去れようとしているのは事実です。

しかし、「葬式仏教」として形骸化された仏教が残っているように、死者に対する葬礼という弔いは今後も続いていくはずです。どのような宗派であっても、死者への感謝も含む葬礼は、簡素化されても残っていくと思われるだけに、福井・石川県境のこの小さな「吉崎」という地も、蓮如さんの故郷として残って行く事でしょう。

毎年四月二十三日から五月二日まで、吉崎蓮如忌が行われます。これは、真宗大谷派吉崎別院の行事です。

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「御影道中」本山出発


蓮如上人さまのおと~り~」の掛け声とともに、蓮如上人御影道中は、蓮如上人御忌法要が厳修される時期に上人が歩いたといわれる京都市東本願寺(本廟)より吉崎別院までの約二四〇キロの道程を一週間かけて歩き御影を運ぶ「御下向」と、吉崎別院における十日間の蓮如上人御忌法要の後、真宗本廟に向けて、帰路約二百八十キロの道程を七泊八日かけて御影を運ぶ旅「御上洛」があり、東本願寺における御帰山をもって御影道中は終了します。三百年以上続く「蓮如上人御影道中」、御輿が吉崎東別院の石段を駆け登る姿を見ようと、毎年大勢の観光客が訪れます。

蓮如上人御影道中の歴史は古く、平成最後の年である平成三十一年(二〇一九年)で三百四十六回目となりますから、世界に比類のない行事と言えます。

『吉崎の郷土史』に書かれてある「吉崎東別院の記録」に基づくと、「京都の東本願寺に預けられた『蓮如上人の自画像』は、延宝元年(一六七三年)より吉崎への下向が始まりました。この御影道中の扱いようは『蓮如さまのお通り』と連呼し、『御対面』とか『お腰延べ』とかいって、生き仏を拝すると同じようにいたしています。またこの道中には、残雪の山道もあり、風雨の日もありますが、多くの信者の送り迎えが絶えないので、大切に後の世まで伝えたい」と記してあります。

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木の芽峠をすすむ「御影道中」


ご下向の難所は、木の芽峠で、ご上洛は今庄町の湯尾峠です。木の芽峠にさしかかると、御興車を別の道から先廻りさせて、新保町から供奉の人達が御影の櫃を背負って峠の道を登っていきます。四月の峠の道はまだ残雪が方々にみられ、その山道を蓮如上人の櫃をかわるがわる担い、ゆっくり一列になって一歩一歩熊笹を分けながら登ります。一時間程行ったところの、木の芽峠の頂上には、会所(えしょ)があり多勢の人達が出迎えて待っています。会所は藁葺き屋根の家で、一服すると温かい番茶が廻ってきます、囲炉裏には檪の株が赤々と燃えています。

江戸時代の、御下向御上洛のお迎えの伴人は、宰領を入れて四人で、主として越前・加賀の門徒がその御役を引き受けていました。東本願寺から御使僧が供奉人につきそって下向し、蓮如忌の法要を勤めて御影のお供をして京都へ戻ります。この事は「心証院御影往還の記録」の中にあり、宿泊所の寺々と民家の氏名があり蓮如忌中の法行事など、寛政以降の日記に詳しく記載されています。

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供奉人


現在の御下向上洛の道中は、教導(僧)一名、供奉人は宰領を入れて六名で、福井・石川・滋賀・大阪などの各府県門徒衆も加わっています。御坊の指名した供奉人は六人ですが、御影のお供をして道中するのは自由で、自分で御供の道中区間をきめて参加する方が多くなりました。

京都東本願寺(本廟)から吉崎へ下向の主な日程は、四月十五日に、御影お迎えのため宰領供奉人などが吉崎東別院に参集して誓詞を認め、翌十六日、朝六時半に吉崎東別院を出発いたします。そして京都東本願寺で一泊し、四月十七日午前九時、大寝殿で「御影改めの儀」があり「御影お腰のべの儀」を行い、御櫃におさめ東本願寺を出発し、烏丸通りより山科街道を通り大津に至り、琵琶湖西廻りで北陸道に出て吉崎御坊までの六泊七日間、約二百四十キロの道中が始まります。

ご下向最終日となるあわら市細呂木から吉崎までの間、昔は村の若衆が、吉崎御坊さしむけの御影専用の御輿をかつぎ細呂木まで迎えに出向き、御影を輿に移し左右のかつぎ棒に太縄二本を結びつけ、老若男女が縄をひき午後七時頃吉崎御坊に御着きになるよう案内しました。お迎えの門徒は、この縄を持つことで「蓮如さまの温もりを・・・・」と喜んで出迎えたと伝えられています。

現在は、吉崎の商店や近郷の商店、会社の名入りの高張り提灯六十本余りと、老人会の手によって配られるホウズキ(鬼灯)提灯に灯をともして一般の門信徒や観光客、子供達は御影をお迎えします。県内はもとより、石川・富山・岐阜・滋賀県あたりからも日帰りバスをしたてて参詣され、中には東西別院に宿泊を予約して参詣される方も少なくありません。蓮如さんの五百回忌頃は、約五百人以上が宿泊されていました。

御影が吉崎の入り口に着くと、御影を御輿に移して吉崎消防団の方々が担ぎ、「蓮如上人さまのお着き!」の連呼の中で町内を進みます。本堂よりお着きの合図となる半鐘、太鼓堂からはお着きの太鼓が鳴り響き、念仏の合唱が高まる中、お出迎えの人が階段で待つ中央を通り、東御坊の本堂まで担ぎ上げます。隊列の先頭は、古式にのっとり、あわら市長・あわら市議会議長・吉崎地区区長会長、吉崎青壮年団長、次いで東西両別院と願慶寺、吉崎寺などの高張り提灯の列が進み、その後ホウズキ(鬼灯)提灯をもってお迎えする一団がつづきます。

御坊下に着いた御輿は、念仏の声が湧き起る中、消防団員のかけ声もろとも東別院の石段を一気に駆け登る様は実に豪快な一時です。この時が、現在の吉崎で一番賑わう日です。そして、読経の響く本堂のそばでは、七日間蓮如さんと寝食を一緒に過ごした方々が家族と抱き合い、無事に歩いて吉崎に来られた事に感謝し涙する姿を見る事ができます。

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吉崎東別院で


吉崎で生まれ、吉崎で育った人間の一人として、子どもの頃からこの模様を見ていると、真宗とは縁遠い人間でも、蓮如さんに対する熱い心が湧いてしまいます。

室町時代後期から、戦国時代と呼ばれる日本史上乱世の時代を生き抜き、雪深い北陸で自然と闘いながら生きてきた祖先を思い出す時間ともなっています。

吉崎の春は、蓮如上人御影道中と供にやって来ます。この行事が続く限り、蓮如さんが北陸にまいた「真宗の教え」という種は、いつまでも花が咲いていくこととなるでしょう。親鸞聖人から蓮如上人へ、そして多くの宗派が生まれ、多くの寺院があります。「南無阿弥陀仏」の声を聞くたび、宗派や寺院は関係なく、「生きているんだ」と再確認してしまいます。

そして、幸せな日本であると感じれば感じるほど、蓮如さんへの心が残っている場所が「吉崎」だと感じるのです。