BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

信心で救われた命は新たな蓮如伝説へ

 日本にはたくさんのお寺があります。宗派が色々あるからですが、その中で一番多いのが浄土真宗系のお寺です。浄土真宗では、開祖「法然」・宗祖「親鸞」・中興(ちゅうこう)の祖「蓮如」と呼ばれ、それぞれの時代で仏教を論じ、布教活動で活躍なさった人達がおられます。
 それから、親鸞聖人ゆかりの宗派もいろいろあります。特に「真宗十派(じゅっぱ)」と云われますように「真宗各派(かくは)協和会(きょうわかい)」として結成された十派(じゅっぱ)のうち、なんと4つの本山が福井県にあるのです。
 越前市にある真宗出雲路(いづもじ)派『毫摂寺(ごうしょうじ)』・鯖江市にある真宗誠照寺(じょうしょうじ)派の『誠照寺(じょうしょうじ)』・同じ鯖江市の真宗山元(やまもと)派『證誠寺(しょうじょうじ)』・福井市にある真宗三門徒派(さんもんとは)『専照寺(せんしょうじ)』、は、それぞれの宗派の本山として名高いのですが、このような福井県浄土真宗の基礎を築かれたのは、何を言う「蓮如上人」だと言われています。


 もともと親鸞聖人の流れを汲むお寺はたくさんありましたが、現在浄土真宗という宗派の基礎をきずかれたのが「蓮如上人」で、落ちぶれた「本願寺」の再興を願い、親鸞聖人の教えを形よくまとめ上げていかれたのが「蓮如上人」ということになります。


 その教えが広まるにつれ、各地に点在するいろいろな宗派の寺院も、「本願寺」の系列へと移転するものも現れてきます。そして、室町幕府の衰退とともに下剋上の世界が訪れ、「惣村(そうそん)」と呼ばれる「百姓の自治的・地縁的結合」が「一向一揆」と言う形で反政府的な活動を起こし、京都を焼け野原にした「応仁の乱」以降の戦国の時代から、太平の世を作り上げた徳川家康の政策によって大教団「本願寺」は二つに分裂させられてしまうのです。 この徳川幕府はその後約260年間、日本の統治をおこない現在の日本の原型を築いていったのです。このような歴史を考えていくにつれ、「蓮如上人」の教えは、単に浄土真宗内だけでなく、現在の日本の基礎のながれを作って行った張本人の一人であると言えるのではないでしょうか?

 

吉崎御坊」という名で知られるあわら市吉崎には、浄土真宗の二つの別院があります。しかも真宗の東西別院が隣り合わせで並んでいる処は、日本国中でここだけと云われています。
 その別院のひとつ「真宗大谷派別院」、通称「東御坊」の門をくぐりますと、『地獄極楽丁半かけて 弥陀にとられて丸裸』という石碑が立っています。
 これは、ある女性の遺徳を偲んでつくられたものですが、親鸞聖人の血脈の方でもなく、御門跡の歴史的な史跡でもありません。一つの石碑の中には、真宗の原点を知る、「ある人の生き方」を、後の世まで伝えてほしいという願いがこもった石碑です。

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三味線ばぁちゃん

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あわら市吉崎「真宗大谷派別院」



三味線ばぁちゃんの説明

昭和21年、終戦直後の「吉崎」を訪れ、それから84歳で亡くなるまでの25年間、吉崎蓮如忌で賑わう中で三味線を弾き、唄い、投げ銭を溜め、それを「東御坊」に全て差し上げて行った人のお話です。その人の名前は「岡部つね」さん。でも誰も本名で呼ぶ人はいなかったそうです。「三味線ばぁちゃん」、みんなにはそう呼ばれ親しまれていました。
「三味線ばぁちゃん」は、能登半島の入り口、石川県内灘町で明治23年に産声をあげました。この地はもともと信仰の厚い土地柄で、お茶を出してもらうと「ああ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」と言うそうです。これは「ありがとう」と言っていることなのです。そこで生まれ育った方ですから、両親はもちろん近所の人まで「阿弥陀様の教え」は、体の一部として浸み込んでいたのかもしれません。
「三味線ばぁちゃん」が、能登の貧しい漁村を離れ、大阪へ出るのは17・8歳の頃です。身を寄せたのは芸者屋で、そこで厳しい修行を受けます。ろくに字も知らなかったのに、日記を付けたり、ハガキを書いて出せるようになっていくのです。「蓮如さん」が吉崎にいらしてご結婚された、3番目の奥様となった「如勝(にょしょう)」という方も、生まれてから字など学んだ事もない方だったのですが、「蓮如さん」と出会い、真宗の教えを学ぶことから、字を覚え、人に教えを説けるようになっていく姿と、どこか似ている気がしてはなりません。
「三味線ばぁちゃん」は、ひと通り芸を身に付け、エンタツアチャコとして一世を風靡した漫才師の「横山エンタツ」・「花菱アチャコ」と一緒に吉本興業の舞台にも出ていました。その頃が「三味線ばぁちゃん」の絶頂期だったかもしれません。金やダイヤの指輪を幾つもはめ、一座の座長となって地方回りをしたそうです。


そんな「三味線ばぁちゃん」の生活が崩れ始めたのは、結婚に失敗したからです。最初の男はやくざ者で、ほどなく別れたものの、牢屋から出て来てからも身を隠しながら生きていた「三味線ばぁちゃん」の行く先々に現れては金を強請っていました。その後何年かしてこの男と別れはしたものの、次の男がまた悪かったのです。自分の弟が早死にしてしまい、その末の娘を養女として芸を仕込み、自分の跡継ぎにと入籍して育てていたのですが、事もあろうに再婚した亭主が手をつけてしまったのです。同じ屋根の下で、毎日同じ釜の飯を食べている者同士が、一人の男を張り合う仲になってしまったのです。まさに、地獄の苦しみの中で丸3年間を過ごしたのでした。
そしてある日、「わてとあの娘とどっちかこっちか決めておくなはれ・・・」と亭主に迫ったのですが、もちろん亭主は若い方を選んだのです。「三味線ばぁちゃん」51歳の時の事です。
それから自分の手で髪を切り落とし坊主頭になり、男か女かわからない姿で巡礼の旅へと、放浪生活が続いたのですが、行く先々で色々なお坊さんの説教を聞き歩き、小さな小さな「阿弥陀様の教え」だったものが、大きく大きくなっていったそうです。
何が大きくなったかと云うと、「鬼や畜生(ちくしょう)やと思ってた亭主と娘に、阿弥陀様の見守る大きな世界へと導いてくれたんや」、そう思ったのです。再会した二人に、「ありがとう!」そう言えた「三味線ばぁちゃん」の姿を、是非想像してみて下さい。「鬼やと思うて憎んどった二人が、自分を助けてくれた阿弥陀様やった・・・」、そう人に言ったそうです。
毎年4月23日から5月2日まで、吉崎で「蓮如忌」が行われています。今ではすっかり淋しくなってしまいましたが、終戦直後の「吉崎蓮如忌」は、人で溢れかえっていました。別院の階段には白装束(しろしょうぞく)の「傷痍(しょうい)軍人(ぐんじん)」が並び、「吉崎御山」と呼ばれる吉崎御坊跡に登る道には乞食(こじき)が並び、サーカスや大道芸人が来ていて、北陸屈指の「大レジャーランド」でした。
その10日間、「吉崎御山」にある吉崎の象徴「蓮如上人像」前に三味線で歌を唄う「三味線ばぁちゃん」の姿は、吉崎に訪れた人たちの目を引いた事は言うまでもありません。「お賽銭(さいせん)」と称してもらった投げ銭も多かったと思います。「三味線ばぁちゃん」は、それを全て「東御坊」へ寄進(きしん)して行きました。
「三味線ばぁちゃん」のお話はまだまだ続くのですが、詳しくは東本願寺出版部発行の「三味線ばぁちゃん~『念仏(ねんぶつ)内局(ないきょく)の影に』~」を読んでいただきたいと思います。
蓮如忌中の法話に聞き入り、寝る事もお寺で、食べ物も人様から頂くもので、着た切りの姿を見れば「乞食」としか見えない「三味線ばぁちゃん」の一生は、「蓮如上人」が広められた「御教え」に救われ、その感謝の念が込められています。
この石碑「地獄極楽丁半かけて 弥陀にとられて丸裸」を感慨深く見て頂きたいものです。約600年前、北陸の地で多くの人に影響を与えた「蓮如上人」の心は、今もなお生き続けているのです。

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