BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

信仰心の溢れる場所~鴫谷山の切通し~

 福井県の最北端「あわら市吉崎」。石川県境のこの場所に、蓮如上人が一宇の坊舎を建てたのは一四七一年の事です。蓮如上人は親鸞聖人から数えて八代目の本願寺法主で、この北陸地区を中心に親しみを込めて「蓮如さん」と呼ばれています。
 蓮如さんが生まれる二年前のことですが、本願寺は大変貧しいお寺で、堅田の法住という人が本願寺に参詣したところ、あまりにみすぼらしいお寺だったために、同じ京都にある仏光寺へと参詣先を変え、そのままそこの門徒になったというお話があるほどです。
 しかし、その法住は五十四歳になった時に蓮如上人と出会い、蓮如さんの抜きんでた説法と人柄に惚れてしまい蓮如さんの弟子になったということです。その時蓮如さんは三十五歳、その八年後に本願寺法主になったのですが、それから「本願寺」は人で溢れかえるような場所となっていくのです。

 なんとなく蓮如さんの魅力を感じさせる逸話ですが、それゆえ、京都で人気の出た「本願寺」が妬まれるようになり、比叡山の荒法師たちに焼打ちにあい、自分の寺を無くすことになったのでした。そうした蓮如さんが、布教の拠点として吉崎に赴き、活発に活動するにつれ、北陸各地で多くの門徒集団が形成されていきました。
 雪深く決して住みやすい場所とは言えない北陸の地、そして「応仁の乱」という当時の日本を二分した戦の真っただ中で、貧しい農民をはじめ漁師や女、子どもたちまで、蓮如さんの話を聞きに吉崎へと集まってきたことは、今となっては想像する事しかできませんが、蓮如さんの魅力が生きる糧となって脈々と流れていった事が、今の暮らしへと繋がっているのだと気づかされます。
 「吉崎参り」という言葉はそこから受け継がれ、蓮如さんの教えと一緒に蓮如さんへの想いも人から人へと広がっていきました。蓮如さんが亡くなり、その百年後、天下分け目の関ヶ原の戦いを経て、戦国時代は幕を下ろし、徳川時代が訪れ、平和な日本が生まれていきましたが、北陸各地で灯のついた「真宗の教え」は、本願寺を二つに分裂させるなど、徳川幕府の度重なる寺院制度改革の中でも、民百姓の間に蓮如さんを慕う気持ちは繋がっていき、そうして吉崎は蓮如さんの古里として賑わい、テレビもインターネットもない時代に、その話が人から人へと伝わって、賑わう吉崎へ、一度は行きたいという人達が真宗を支えて行ったと言えるかもしれません。

 

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橘宿跡(北国街道分岐点)


旧橘宿にある分岐点(北国街道から吉崎へ)
朝顔に つるべ取られて もらい水」という俳句で有名な「加賀の千代女」も「吉崎参り」に訪れています。一七七二年、蓮如さんが吉崎に来られて300年後の、江戸時代中期の頃です。加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、六〇歳のとき「弥生二十日あまり、吉崎詣でせんと旅立ちけるに、今日という今日初めて吉崎に詣でける。その嬉しさ有り難さのあまり・・・」と題して記された句が、「うつむいた 処(とこ)が臺(うてな)や 菫草」です。その句碑は、国指定史跡となった「吉崎御坊跡」の山上にひっそりと建っています。千代女の吉崎への想いと感激が伝わってきますが、千代女の残した「吉崎紀行」には当時の様子を伝えるものも色々あります。金沢市近くの松任から北国街道を西へと向かうと、越前の国に入る一番近い宿場町「橘宿」があります。そこに泊った千代女は「四季色々 殊更春の 植木茶屋」という句を残し、そして北国街道を離れ吉崎へ向かうことになります。ここには、今「吉崎(蓮如道)」という道しるべが建ってあり、そこを経て吉崎に入る時に残した千代女の句「涼しさや はずかしいほど 行きもどり」があります。

 

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千代女句碑

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千代女句碑説明看板



加賀の千代女句碑
この吉崎には加賀の国吉崎と越前の国吉崎があり、その加賀の国側に「化粧が市」と呼ばれた遊郭群があったと伝えられている事から、千代女が吉崎に入る時、遊女たちの髪を洗う姿などを詠んだ句と思われます。


吉崎御山にある「加賀の千代女」句碑の説明

 

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鴫谷山の切通


のこぎり坂にある石碑
一方、北国街道を越前の国から吉崎へ向かう場合、細呂木の関所を抜けるとすぐに、「のこぎり坂」と呼ばれている場所があります。この場所には、「承元の法難」(一二〇六年)の時、浄土真宗の宗祖親鸞聖人が越後に流される事になり、北国街道を通り加賀の国に入る時に通った場所です。その際、「音にきく のこぎり坂を引き別れ 身の行く末は心ほそろぎ」と細呂木という地名の掛詞も入る上人の心中を詠った句碑が、吉崎へ向かう道と加賀へ向かう道の分岐点に建っています。この「のこぎり坂」はのこぎりの刃を縦にしたような、上ったり下りたりと行きかう人には大変な坂道でした。京の都にまで聞き及んだ険しい道「のこぎり坂」。その坂の下で道は二手に別れ、北国街道を離れて左へ行くと「よしざきみち」です。江戸時代、吉崎参りで必ず通らなければならなかった鴫谷山(しぎたにやま)のこの道は、参詣者にはたいへん厳しい道だったのでした。
江戸幕府が倒れ、近代日本が形成されていく中の明治二十年十二月のある日、旧尾張藩の水谷忠厚という人が細呂木の庄屋の家を訪れ、「吉崎参りの人々のために、鴫谷山の急な坂を切り下げたいから、その工事監督をしてもらいたい」といって辞令を渡しました。その辞令には「天爵大神」と書いてあったそうです。
その水谷忠厚は、尾張藩士水谷伝左衛門の子として生まれ、明治維新後、今坂の改修(愛知県瀬戸市、明治十三年)、矢田川橋の架橋(愛知県名古屋市、明治十七年)坂東嵭崎の改修(福井県勝山市明治20年)の改修や、明治二十一年の吉崎道、大森岩坂、上天下坂尻、杉谷坂、山内・四ツ合間、熊坂道、織田道、松岡道、金津・細呂木間、吉崎浦・芦原間、永平寺道、山奥口道、風巻八段坂、穏亡岩坂、笏谷坂、芦原新道の改修など、福井県各地の道路改修事業に携わりました。
吉崎参りのために「のこぎり坂」を切通した事業は、農閑期の一月から四月の蓮如忌までのわずか三ケ月間、周辺の多くの村から人足が集まり、農閑期ということで人々は手弁当で、「吉崎参りのために」という気持ちから出来上がったのでした。重機もなく、近代的な土木技術も無い時代に、手作業だけで、高さ約二〇メートルの「切通し」を作るエネルギーは、一体どこから生まれたのでしょうか。


鴫谷山の切通
この近隣の村々には今でも、預金講(よきんこ)という無尽が今も盛んに行われています。これは蓮如さんが信者に「講」を勧めたことの名残りとされていますが、現在では浄土真宗の信仰とは無関係です。町内会や同級生など形も色々ありますが、その基本的なものは、みんなで協力し合って何かをし、みんなで楽しむという姿勢だと思われます。
「講」は今から約五五〇年前、蓮如さんが北陸の地へ来てから行った布教の手段の一つです。今のように娯楽のない時代、各村の人々は蓮如さんから届いた御文(御文章)に対して、坊主や長老、村長(むらおさ)がみんなを集めて読み上げ、蓮如さんからのお言葉として学ぶ場所となっていたのが「講」の始まりでした。識字率の低い時代、いかに読み易く書かれた御文(御文章)も、なかなか学識のない人たちには理解しにくいものなのだった事でしょうが、みんなが集まり、そこで聞き、そこで話し合うという布教方法は、民百姓たちの、一つの楽しみとして成り立って行ったことが想像できます。
日本という骨格を形成していくべく奈良仏教から、平安仏教は貴族社会の日本を造っていきました。そして武家社会へと続く鎌倉仏教として生まれた親鸞聖人の教えは、庶民のための仏教という形で特段のスピードで日本中に広がっていきました。その教えを確立していったのが蓮如さんです。浄土真宗では蓮如さんを「中興の祖」として言われているように、現在でも多くの門信徒でつながっている真宗では、門信徒の事を「御同行」と呼んでいます。仏教の持つ基本的な考え方の一つに「自利利他」というものがあります。「他人の幸せ」は「自分の幸せ」、「自分の幸せ」は「他人の幸せ」、というものなのですが、「吉崎参り」の人たちのためにと作られたこの「切通し」に来るたび、そこに蓮如さんが生きていると感じさせられます。自然と闘い、いろいろな苦しみの中で生きて行く人たちと一緒になって、同じ目線、同じ心を持って生きて行こうという教えを広めた人が蓮如さんだと言っても良いかと感じるのです。この「鴫谷山の切通し」に来るとその事を再認識させられ、真宗への信仰心の凄さと日本人の持つエネルギー、そして、蓮如さんの想いが今でも残っている場所だと感じるのです。