BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

加賀の国を約100年間統治した「加賀一向一揆」の心意気は・・・

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石山観音(あわら市吉崎)


 福井県あわら市吉崎。

 福井県の最北端にあるこの場所に、本願寺第8世蓮如上人が一宇の坊舎を建てたのは1471年7月の事です。それからこの場所は「蓮如の里吉崎」と呼ばれ、今もなお多くの参拝者が訪れます。
 平安時代から、この場所は海上交通の要所として歴史に刻まれています。加賀の国からそして、それより以北の地から、若狭を経て京都・奈良へと物資が運ばれていく時代、海上交通が主であったのは言うまでもありません。この歴史があるから、蓮如さんの布教が大きく広がりを見せた基本にあると言えます。
 また、日本海を挟み、中国大陸と深い文化交流がこの地にあったからこそ、人々の暮らしの中に高い文化水準があったと云えます。それが、自然との闘いの中で生きている人間が、悩み苦しみ、新たな知恵を生み、親から子へ、そして子から孫へと受け継がれ、新たな歴史を作って今日に至ったのです。

 京都にあった「本願寺」が比叡山の荒法師たちに焼打ちされ、自分の寺を亡くした蓮如さんの事を知るには、「御文」(本願寺派では御文章)を読むといろいろわかってきます。500年以上前に書かれた「御文」は、現在約260余通が残っていると云われています。

 蓮如さんの孫にあたる「円如」が、この御文の中から八〇通を選んで五帖に編集し『五帖御文』と称し、宗門信条の基本とするなどの教団改革を行い、戦国期の本願寺体制の基礎を築きました。蓮如さんの布教の広がりから、加賀を中心に一向一揆が沸き起こり、いわゆる浄土真宗大教団の礎を築く基本の考え方が、この『五帖御文』の中にあります。

 ところで、その第一帖第八通に「文明第三初夏上旬のころより、江州志賀郡大津三井寺南別所辺より、なにとなくふとしのび出でて、越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。よつて当国細呂宜郷内吉崎といふこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して・・・」という書き出しで始まるものがあります。
 意訳すると、「文明三年(一四七一年)初夏、滋賀県大津三井寺の南別所あたりから、何という目的もなく、にわかにこっそりと出立して巡り歩いて来た吉崎というこの土地が、とりわけ素晴らしいところでしたので、長年人が足を踏み入れた事のない荒れた土地であったのを切り開いて、七月二七日より形ばかりの一宇の坊舎を建立して・・・」ということなのですが、この御文から吉崎は人が住みついていない場所だったのです。

 吉崎という地名は、湖岸に植物の蘆(あし)が数多く茂っているところから、「蘆﨑」そして「吉崎」へと変わっていったと云われていますが、一方で、吉崎の国指定史跡「吉崎御坊跡」(通称吉崎御山)は、当時「千歳山」と呼ばれ、本当に見晴らしのいい場所で日本海まで望めます。この場所に立ってみますと、「良い岬」から「吉崎」という地名になったという説があるというのも頷けます。
 蓮如さんがこの場所に坊舎を建立した以後、道俗男女の人々が群がるように集まるようになりました。戦国時代の三英傑「信長」「秀吉」「家康」の生まれる70年ほど前の話です。室町幕府の力が衰退し、徳川時代が生まれるまで、約150年。日本国は飢餓と戦のため力の弱い民百姓には大変な時代でした。「生きていく事がやっと」の時代に、蓮如さんの教えは民百姓に希望という二文字を与えていったのです。

 人が住むような土地でなかった「吉崎」は、蓮如さんが一宇の坊舎を建ててからというもの、多くの参拝客でにぎわう場所へと変わっていきます。「多屋」と呼ばれる宿坊も数多くできていきます。それに伴い、海、川を使う海運が盛んにおこなわれていた土地柄から、山の幸、海の幸を運んでくる「市」が立っていき、近隣の貧しい農村や漁村に、大きな経済力が働いていく事になります。そして経済が潤っていく事に連れ、民百姓は「蓮如さんのおかげ」と、山の上の坊舎にいる蓮如さんに深く感謝していく事になります。

 その感謝の念は、坊舎への寄進に繋がり、わずか五間四面の小さな坊舎の周りに、幾つもの伽藍が立ち並ぶようになり、それが「吉崎御坊」と呼ばれて行くようになったのでした。
 蓮如さんは、人が集まれば金が動き、それに吊れて「本願寺の再興」という自分の思いが現実になってくると信じていたのでしょう。それが、後の京都山科本願寺を産み、大阪石山本願寺の建立へと繋がっていきました。このような事から、浄土真宗では蓮如さんを「中興の祖」と呼んでいるのです。

 

 蓮如さんが入滅した100年の後、下剋上と呼ばれる戦乱の世に別れを告げ、徳川幕府により日本に平和な世がやってきます。五街道を整備し、日本中で行き来が盛んになればなるほど、当時の高速運輸事業である海運業は勢力を拡大していきます。その中でも日本海を中心とした「北前船」は、大阪と北陸・北海道を結ぶ航路の発展が目覚しく、日本の商業の発達を支えて行きました。
 

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吉崎古図(文明六年)


吉崎の近くに「瀬越」という土地があります。この場所は蓮如さんとの関係も深く、古くは「竹の浦」と呼ばれ漁業も盛んな場所でした。蓮如さんが吉崎に来られ、坊舎を建立するための資材などは、この「竹の浦」に住む豪族「大家彦左衛門」が調達しました。大家彦左衛門は、後に弟子となり蓮如さんを助けた人の一人です。
当時、吉崎から「竹の浦」へ行く場合、いくつも瀬のあった大聖寺川を越えて行きました。そこから「竹の浦」の事を「瀬越(せごえ)」と呼ぶようになったと言います。名付け親は蓮如さんです。
 江戸時代になり、北前船の寄港地となった「瀬越」には、広海二三郎(廣海家)という豪商が生まれています。その関係もあり、江戸時代の後期から明治時代にかけて、この吉崎も海運業で栄えました。

 ある日の事です。海難が続き船頭衆が集まりその対策を相談し、仏さまの石像を作ろうという話が持ち上がっていた夜の事です。一人の船頭の枕もとに女性が立ち、「観音様をお造りになるのなら、石山寺の観音様を作りなさい」とのお告げがありました。次の日の朝、その話を他の船頭たちにすると、俺も俺もと、みんな同じ事を言いだします。皆同じお告げがあったのです。
 その事から、古くから漁師たちの目印ともなっていた、ある奇岩に祠を作り観音様を祀ったのです。それ以後、海難騒ぎはなくなり、海運業を営む問屋たちは、「これも蓮如さんのおかげ」という事で、吉崎の浦沿いに幾つもの観音様を祀りました。
最初の観音様は、お告げのとおり大津にある石山寺とそっくりなものを作りました。この石山寺、京都にほど近いこのお寺にも、蓮如さんの伝説が残っています。
 蓮如さんが17才で比叡山に入山し、修行を続けていて5年が経過した時の事、本願寺は日々衰退し、このまま断絶に及んだのでは、高祖・親鸞聖人に申し訳が立たないとして、苦悩にさいなまれていました。そして12月28日の夜、蓮如さんの夢の中に一人の化女が現れたのです。
 「蓮如よ、心を痛めたもうな。やがて他力本願が弘通(ぐずう・あまねく広まること)するときは近い。よく仏法を守るのです。」
厳然と告げる化女に対して、蓮如さんは夢の中にありながら、
 「この山は女人結界の霊地で、女人堂より上に登る事ができないはずですが…あなたは誰ですか」
と訊ねました。化女はにっこりと笑い、
 「わたしはこの山より四、五里ばかり離れた所に住む、そなたと有縁のものです」
と告げるやいなや、たちまち光明が輝き、紫雲がたなびいて虚空はるかにのぼったかと思ったところで夢から覚めました。あたりには妙なる香りがただよっていました。
蓮如さんは、比叡山から四、五里の石山観音の化身という母が、自分を慰めるために現れたのだと感じ入り、大いに力を得て学問に没入したそうです。
 実は蓮如さんが六歳のとき、父・存如上人に正式な結婚話が持ち上がり、本願寺の下女だった蓮如さんの母は、これ以上寺に留まるべきでないと判断し、かねてより用意していた「鹿の子の小袖」を布袋丸に着せ、当時、京で随一の腕前という絵師にその姿を描かせ、いつか「御流を興したまえ」と言い残して本願寺を去っていきました。実の母と生き別れになったのです。
 そして、あるとき石山寺でどこかで見覚えのあるこの絵を見つけ、母はこの地にいると確信したのです。石山寺の観音様が蓮如さんの母という伝説もここから生まれているのですが、この縁が、江戸時代末期に吉崎に創られた「岩崎観音群(岩屋観音群)」の、石山観音の由来とも言えます。
 北前船の全盛時代、吉崎の船頭衆によって造られた「石山観音・如意輪観音像」の岩窟の前に、一つの歌碑があります。
『後の世を ねがふ心はかろくとも 仏の誓ひ重き石山』
母から学ぶ事への力を貰い、多くの民百姓に生きる力を与え、それもみな「蓮如さんのおかげ」と感謝をし、次から次へと歴史を作ってきた北陸で生きる人たち。蓮如さんが広めた教えを、親から子へ、子から孫へとつなげていく歴史の重さ。この吉崎の地には永久にその想いも込められている場所なのです。