BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

ふる里が教えてくれたこと-後編-

 蓮如上人御影道中における、現在の御下向上洛は、教導(僧)一名、供奉人は宰領を入れて6名で、福井・石川・滋賀・大阪などの各府県門徒衆も加わっています。御坊の指名した供奉人は6人ですが、御影のお供をして道中するのは自由で、自分で御供の道中区間をきめて参加する方が多くなりました。

 京都東本願寺(本廟)から吉崎へ下向の主な日程は、4月15日に、御影お迎えのため宰領供奉人などが吉崎東別院に参集して誓詞を認め、翌16日、朝6時半に吉崎東別院を出発いたします。そして京都東本願寺で一泊し、4月17日午前9時、大寝殿で「御影改めの儀」があり「御影お腰のべの儀」を行い、御櫃におさめ東本願寺を出発し、烏丸通りより山科街道を通り大津に至り、琵琶湖西廻りで北陸道に出て吉崎御坊までの6泊7日間、約240キロの道中が始まります。

 ご下向最終日となるあわら市細呂木から吉崎までの間、昔は村の若衆が、吉崎御坊さしむけの御影専用の御輿をかつぎ細呂木まで迎えに出向き、御影を輿に移し左右のかつぎ棒に太縄二本を結びつけ、老若男女が縄をひき午後7時頃吉崎御坊に御着きになるよう案内しました。お迎えの門徒は、この縄を持つことで「蓮如さまの温もりを・・・・」と喜んで出迎えたと伝えられています。

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蓮如上人500回忌の時


 現在は、吉崎の商店や近郷の商店、会社の名入りの高張り提灯60本余りと、老人会の手によって配られるホウズキ(鬼灯)提灯に灯をともして一般の門信徒や観光客、子供達は御影をお迎えします。県内はもとより、石川・富山・岐阜・滋賀県あたりからも日帰りバスをしたてて参詣され、中には東西別院に宿泊を予約して参詣される方も少なくありません。蓮如さんの五百回忌頃は、約500人以上が宿泊されていました。

 御影が吉崎の入り口に着くと、御影を御輿に移して吉崎消防団の方々が担ぎ、「蓮如上人さまのお着き!」の連呼の中で町内を進みます。本堂よりお着きの合図となる半鐘、太鼓堂からはお着きの太鼓が鳴り響き、念仏の合唱が高まる中、お出迎えの人が階段で待つ中央を通り、東御坊の本堂まで担ぎ上げます。隊列の先頭は、古式にのっとり、あわら市長・あわら市議会議長・吉崎地区区長会長、吉崎青壮年団長、次いで東西両別院と願慶寺、吉崎寺などの高張り提灯の列が進み、その後ホウズキ(鬼灯)提灯をもってお迎えする一団がつづきます。

 御坊下に着いた御輿は、念仏の声が湧き起る中、消防団員のかけ声もろとも東別院の石段を一気に駆け登る様は実に豪快な一時です。この時が、現在の吉崎で一番賑わう日です。そして、読経の響く本堂のそばでは、7日間蓮如さんと寝食を一緒に過ごした方々が家族と抱き合い、無事に歩いて吉崎に来られた事に感謝し涙する姿を見る事ができます。

 吉崎で生まれ、吉崎で育った人間の一人として、子どもの頃からこの模様を見ていると、真宗とは縁遠い人間でも、蓮如さんに対する熱い心が湧いてしまいます。

 室町時代後期から、戦国時代と呼ばれる日本史上乱世の時代を生き抜き、雪深い北陸で自然と闘いながら生きてきた祖先を思い出す時間ともなっています。

 吉崎の春は、蓮如上人御影道中と供にやって来ます。この行事が続く限り、蓮如さんが北陸にまいた「真宗の教え」という種は、いつまでも花が咲いていくこととなるでしょう。

 幸せな日本であると感じれば感じるほど、蓮如さんへの心が残っている場所が「吉崎」だと感じるのです。