BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

高市政権誕生で思う事

浄土真宗第8代法主蓮如上人』の和歌


国会が面白くなってきたという国民が増え、やっと政治と暮らしが密着してきたと思うところです。
保守本流政治と『積極財政への転換』が国民の期待の大きなものですが、それは政治が国民目線に戻っただけのことだと思います。元々『政治』とは民衆のものであるべきものが現代の民主主義社会ではありますが、国民の負託にこたえて選ばれた政治家がその道を歩んでいなかったことに原因があります。

敬愛する蓮如さんの和歌


国民も自分の暮らしに追われる毎日が続き、娯楽と遊興に親しんでばかりいましたから政治には無関心の人が多くなってしまったことに問題はあります。政治家は、ただ選挙に勝つ事だけを考える人が増え、国家国民のことは二の次になっていました。しかも歳費と呼ばれる報酬も、自分の欲望のまま膨れ上がることに気が付かず、ズルをする輩が増えていってしまいました。それもまた、愚かな人間の行動の一環だと言えます。
聖徳太子は仏教を奨励し、仏教の「倫理観」で国をまとめていきました。その時期に数仏派と俳仏派の争いが起こり、どちらが主導権を握るのかが争いのポイントでした。
その後の歴史の中でも、常に主導権争いというものが起こり、力の弱い民衆の血が多く流されていき時の流れを刻んできたのです。その日本史の中で時としてターニングポイントとなる事件が必ず起こり、その度にまた多くの血が流されていきました。
貴族社会と武家社会への変革の時代には『源平合戦』、武家社会の中での『関ヶ原の戦い』、260年の長い平和な時代に終わりを告げた『明治維新』など、日本人同士の争いは語るに堪えません。それは『時代の風』に流されて巻き起こる一種の『嵐という魔』が常に弱い人間の血を求めているかのようでした。その根底にはいつも「欲望」という人間の性が付いて回っています。

源生馬夢の和歌『愛する日本』


普通の政治を取り戻したかのような高市政権ですが、民主主義の組織決定の中での「官僚政治」というものと、今は戦っているかのようです。つまり、民主主義の根本である代議員の意見を取り入れす・取り入れさせようとしない事務方の力の強さと戦っている姿なのです。その事務方も人間なのですから何らかの意思を持って行動しています。そこにも、「欲」が湧いて来ている社会になっているという事です。主導権争いは、民衆と役人の「争い」となっていることに気が付いていない人も多いと思います。その影には日本という国家と多民族国家が後ろ盾となり、人間の心の弱さを付きながら主導権を取るために「操り人形」を作りだしているのです。
是非、そこに気が付いて下さい。操り人形などにはなりたくない自由な人間で、自由意思に基づいて自分の判断で動くという事の素晴らしさを、今一度確認してほしいのです。
 
 敬愛する蓮如上人は、法話を聞きに来ている人たちに『ものを言え』と説いています。つまり、一方的に聞くだけではなく、『自己表現』せよと説いていたのです。語り合う事で、自我に目覚め自分はどう生きることが大切なのか、そこに自分の力で目覚めるという本質を求めていたのです。
 『悟り』と簡単に口に出すことはできますが、「何を悟る」のか「何で悟る」のかなど、それも千差万別でしょう。大切なことは、『自分で悟る』ことなのです・・・。

あわら市蓮如の里『吉崎御坊跡』から見る