BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

馬夢的解釈で歎異抄を紐解く【第1章】

敬愛する蓮如上人が『封印』された『歎異抄』。
明治時代になって、やっと世間の目に触れるようになりましたが、いよいよ現代文を読みながら現代風に解釈してみようと思いました。

福井県あわら市「蓮如の里」のシンボル「春の蓮如像」


(本文)

弥陀(みだ)の誓願(せいがん)不思議(ふしぎ)にたすけられまゐらせて、往生(おうじょう)をばとくぐるなり信(しん)じて念仏(ねんぶつ)もうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなわち摂取(せっしゅ)不捨(ふしゃ)のりえきにあづけしめたまふなり。弥陀(みだ)の本願(ほんがん)には、老少(ろうしょう)・善悪(ぜんあく)のひとをえらばれず、ただ信心(しんじん)を要(よう)とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪(ざいあく)深重(じんじゅう)・煩悩(ぼんのう)熾(し)盛(じょう)の衆生(しゅじょう)をたすけんがための願(がん)にまします。しかれば、本願(ほんがん)を信(しん)ぜんには、他(た)の善(ぜん)も要(よう)にあらず。念仏(ねんぶつ)にまさるべき善(ぜん)なきゆゑに。悪(あく)をもおそるべからず、弥陀(みだ)の本願(ほんがん)をさまたぐるほどの悪(あく)なきゆゑにと云々(うんぬん)。

如意輪観音像 (阿弥陀如来の変化した観音様)


(現代風に解釈をしてみました)
阿弥陀様の存在を疑う人には得られない事だと思いますが、阿弥陀様に縋りたいという願いを持つ事は、凡人誰しもが経験していると思うのです。
その反対に、阿弥陀様は「全ての人を残らずその『苦しみ』から救おう」と願っているのでありその誓いを立てられているのです。
阿弥陀様を信じることが、この世からの「抜け出す道」であることに繋がるのです。そこで『お念仏』と言うものの意味が解ると思います。お念仏を唱え「南無阿弥陀仏」と口にした瞬間、その『言霊』に気づくという事です。
現代社会は本当にグローバルな社会となりました。

「お念仏」というものも限られた方の使う言葉となっていますが、コロナ過のパンデミック以降、「経済重視」の世の中になってしまいました。

でもそこで考えてみてほしいのは、「経済」という言葉です。
経世済民(流通を良くして「富」の流を循環させる)という言葉が原点にあります。
つまり経済重視とは、「世の中を良く治めて、人々を苦しみから救うこと」という阿弥陀様のお言葉が胸に突き刺さっては来ないでしょうか。
<「経」、すなわち秩序を立て、「済」;すくう、救済する>
という明治以降エコノミー(economy)の訳語として定着した「言葉」です。

科学の発達と共に、日本人が大切にしてきた「言葉」の重さをも忘れてしまい、人から人へと発せられる「言葉」に乗っていた『言霊』も、どこか遠い世界へと消えてしまっているのです。
「お念仏」に乗っている『言霊』には、阿弥陀様の誓われたとおり。老人にも若者にも幼子にもなんの区別はなく、世間でいう善人や悪人にも関係はないのです。「ただ一心に念仏する」ということは、阿弥陀仏の本願であり、この世での苦しみ、そして生きるために数々の罪を犯してしまう凡人を、すべて助けようとしている事なのです。
阿弥陀様を信じ、自分の信じる心に偽りがないのであれば、この世の『善行』と呼ばれるものは必要ではないのです。ただ念仏し、信じる事だけなのです。
自分の愚かな心や、邪悪な欲望や、犯した罪の深さに恐れおののく事はないのです。阿弥陀様の『光』を、さえぎるものは何もないのですよ。

10月3日の出逢い<水始涸(みずはじめてかる)>

春の風物詩「吉崎蓮如忌」


一昨日病院へ行って来た。
『癌』の発見から三度の手術を経てからの定期検診となる。
診察が早い時間で済むようにと思い、いつもより2時間早く大学病院に着き、消化器外科など3つの科を回った。
「今のところ異常は見当たりませんね」というドクターの診断を受け、ホッとした気持ちになった。病院到着からもう6時間が経っていた。
往復2時間という通院時間だが、この総合病院で良かったなぁと今は思っている。
検査機器も揃っているし、小さな科目ごとのドクターはいても、手術となると各人が連絡し合ってそれに当ってくれているからだ。
血圧が高かった7年前、健康診断で指摘され病院に行った事が「病との闘い」の始まりだった。
入院中も手厚い看護を受け、一人暮らしの自分にはありがたかった。それでも度重なる手術は不安だったが、その時だけは遠方より長男が駆けつけてくれたりした。
医者嫌いで病気とは無縁だった自分が、コロナ過から病院通いになったことは、何かの『仕打ち』だと感じていたのは確かだ。
全身麻酔から覚めたときの灯りを喜び、病室から見える空の青さを、診察待ちの間も思い出していた。
夕方、病院から帰宅し、ちょっと横になったら朝になっていた。
よほど疲れていたのだなとシミジミ振り返り、久しぶりに朝早くから散歩をした。それだけ気分がよかったのだと思う。「癌」と言う病名を聞いた時の「怖さからの解放」、そんな感じなのだ。こんな日は次から次へと思いがけないことが起こるもの、一人暮らしが染みついているだけに、ふとした会話が嬉しかった。

一字一石墳(蓮如の里の入り口)


目的もなく散歩を楽しんでいると、久しぶりに「蓮如道」を歩いてみたくなった。ほとんど車の通らない舗装されていない道だが、ところどころ草刈りをしてあることに気づいた。夏も過ぎ去った秋、いつもなら路肩は草で覆われていて道幅が狭くなっているのだが、この夏の終わった秋口に不思議な感じがした。
蓮如上人の次女『見玉尼』ゆかりの場所である「一字一石墳」でひと休みをしての帰り道、軽トラックとすれ違った。運転していた人は亡くなった姉の同級生で、春の風物詩「吉崎蓮如忌」の世話役の人だ。だから、昔から言葉はよく交わす。
頭を下げ「こんにちは」とひと声かけると軽トラを止め、会話が弾んだ。
「もしかして、この道の草刈りをしているの?」
そう聞くと頷いた。
こんな田舎道、なんと奇特な人だろう。
おもわず「ありがとうございます」と御礼の言葉が出てしまう。

湖水から見る「蓮如の里」


そう、この『蓮如の里』は、このような人が多かったのである。蓮如さんゆかりの地を、手弁当の無報酬でこの地をも守ろうとする人、だからこの町の歴史が続いている。まさに信心深い町なのである。

吉崎霊苑


その喜びに浸り、しばらく歩いていると吉崎霊苑に出た。
するとそこでまた別の知人と出会った。
この人とはいろいろと思い出深い。子ども会育成会の会長で、自分が役員で一緒だった頃、この人とは意見が合わなかった。無理して行事をしないようにしないようにとする人だったからだ。つまり、自分の休みを主として考え、子どものために時間を割くという人ではないという事だ。
でもこの人とはいろいろな付き合いで絡んできたことも、今では良い思い出の一つである。
それは、小学校のPTAでも役員が一緒となったことである。
年齢は自分より15歳以上離れているのだから、PTA会長を引き受けてくれると思っていたがそうではなかった。そのため、会長選出に選考するための役員会は紛糾したのである。
受けてください受けたくないの押し問答は日を重ね、時間ばかりが経っていく。このようなボランティアが基本となる社会組織では当たり前なのかもしれないが、この「蓮如の里」ではあまり聞いたことはなかった。

六地蔵


ふるさと意識が強く、何か役を持つことも「損得」だけではないという風潮が流れていたからだ。みんなから頼まれたら「快く受ける」、それが染みついていた町なのである。結局、PTA会長を受けてもらうことになったのだが、条件として自分が副会長になって会長を支えて行くという事になった。
その人と散歩中に墓場の前で出逢ったという事も、何か不思議な感じがしたのは確かである。
世間話を交わしお辞儀をして散歩を続けた。
ほぼ吉崎を一周し、少し休憩しようと「蓮如上人記念館」に立ち寄った。

蓮如上人記念館


この「蓮如上人記念館」は、東本願寺のいわゆる「お東騒動」時に分裂した施設である。当時の御門主に4人の男のお子様がおられ、当時の御門主派と宗務局の争いにより、二男の方が本山から分派し建てられた施設である。何人か目に会話させて頂く機会が得られ、やはり『吉崎』という地に拘りがあり、どうしてもこの地に寺を建てたいとおっしゃっていた事を懐かしく思い出す。たまたま昨日展示替えをし、9/30から来年の5/10まで特別展が行われるそうなのだ。今までのお付き合いもあり、立ち寄ったついでに見せてもらうこととなった。

それでも、浄土へ。


「六道の迷い」と銘打った企画、「なかなか一般の人間では理解できないかもしれないね」と、職員の方に伝えたのだが、自分の心の内にはいつも「輪廻転生」という言葉はある。何に生まれ変わるかは解らないが、この六道という考え方は共感が出来るのである。
人間と言う物質は『魂』が授かってこそ人間となる、その考えは納得できるのだ。『借り物』に潜む魂、そんな非科学的なことを、自分はいつも考えて来たのである。

迷いがあって当たり前、生きているからこそ迷うのです


見学が一通り終わった頃、職員の方が「春日神社氏子総代」の人の話を持ち出された。知らない人ではないのでその人の携帯電話を教えてあげた。
そうしたら、記念館を後をして帰宅へ道を急いだ時、偶然その人と道であったのだ。本当に不思議なものである。「噂をすれば影」ということも、自分はよく考えている。
この人も今や透析をしている病持ちなのだが、昔から意見はよく合った人である。体が弱い方ではあったが、村のためには時間を惜しまない人なのだ。
この吉崎と言う地にまだ上水道が通っていない頃、簡易水道を造った時代があった。「吉崎水道組合」と呼ばれ、利用者による自主運営組織だった頃だ。その時に「会計職」を任された人なのである。その水道組合も町のインフラ整備が出来、解散するという時その残金を「吉崎地区」に全額寄付するという形を取った。その時の地区の「会計職」が自分だったので、いろいろ書類を作り無事引き渡しが終わった時のことを、彼の顔を見て思い出すこととなった。

人生は長いようで短い。そして人生にも四季がある。


やはり健康でいなきゃと思った約1時間の散歩、想い出は限りない。

令和8年、深まる秋を前に・・・<蟄虫坏戸(むしかくれてとをふさぐ)>

2026年9月28日
今年の夏はホントに暑い夏でした。
自分の住む北陸地方は、秋も深まると冬の準備に忙しくなります。
稲刈りを終え米作りが一段落するからですが、雪の降り積もる前に行うことが沢山あります。
ここ数年は、あまり積雪は多くありません。でも積雪の恐ろしさを知っている人間にとって、老いて身体が不自由になっている分、心配の種は増えています。
公共交通が無くなり不便になっているところに、乗用車を使えないとなると食材の確保や灯油の確保に頭を悩ませてしまうのです。もちろん経済的な面でもそれはありますが、どうやって春まで持ちこたえようかと悩むのです。つまり、若い時と違い動けない身体という事が、生きて行くための悩みの種となっているのです。

蓮如上人の和歌(老いらくの)



息子たちは、便利で働き口のある都会へ移り住みました。
ひと昔前なら「家を出る」という子供の行動に許しを出さない時代でしたが、今はそんなことはありません。生活重視のため、我が家と言う『巣』を出て行く子どもの行動は、一人前の社会人になってくれたと歓迎すべきことなのでしょう。そういう時代なのです。
「巣立つ子供」、それを喜ぶ親、こんな日常が、実は現代日本では難しい時代になっているのではないかと疑問だらけの毎日なのです。
それに、高度経済成長期を幸せに過ごしてきたころと違い、米ソ冷戦時代が過ぎ去り、ベルリンの壁の崩壊を経て社会主義国家が次々と倒れて行き、やっと世界に平和が訪れると思っていても、中共による覇権主義とロシアのウクライナ侵略戦争、度重なる米国の対米国家紛争が起こり、イラン戦争における世界の石油供給不安を招いている。
そう、世界が緊張状態に陥っているのである。

期待する「保守現実派」の高市総理大臣


社会主義国家がなくなりイデオロギー対立は終わったはずなのに、地球全体が混沌としている状なのである。結局、貧困層と富裕層の対立は続き、米国型の民主主義は砂糖に群がるアリのように、利益に群がる「愚か者の民主主義」となっている。
大東亜戦争で敗戦を記した世界平和に貢献してきた日本も、与党「自民党」が全く同じ構図で存在し、『富の分配』が上手く出来ていない国家ばかりになっているのだ。
地球の未来が心配で仕方ない。
老いたる身体でも、自分の事より世界の未来の行方が心配なのである。息子や孫たちの未来が・・・

米中首脳会談(2026年)


令和8年9月24日、ワシントンで米中首脳会談が行われた。
アメリカの同盟国である日本の首相として高市早苗氏がその二日前に渡米し、中共の台湾進攻の恐れのために郷国アメリカに布石を打っては来たけれど、所詮「覇権争い」をする米中国家、「『力』が全て」と言う頭しか持ち合わせていないのだから、すぐに結論は出ない。
グローバリストでしかないオールドメディア日本では、あまりそれを報じていない。
「孤立するアメリカ」を視点に世界情勢を考えることが出来ていない以上、この米中首脳会談を重要視することはしていない。
アメリカと欧州が不仲になっている元凶にはウクライナ問題が大きく、軍事力の問題を考えなければいけない。
つまり、「アアース」と軍需産業が結びついているところである。経済に苦しむ中共は、貿易戦争としてこの「アアース」を戦略的に利用している現状を理解しなければ、この混迷する「世界経済の流れ」を詠むことはできないだろう。
昨年10月、保守現実派の高市首相が誕生したことは素晴らしい事ではあるが、反高市勢力が与野党に存在し、中共の配下となってしまった政治家が多い事と、「米中覇権争い」、愛する日本の行く末はいかに・・・。

秋風を感じて・・・

「空海と真言密教」国宝展


拝啓
先般は、「錦松梅」をお送り下さりありがとうございました。
そして大変遅れましたが、8/30の豪雨災害の時に心配してお電話を頂きましたこと、深く感謝しております。ありがとうございました。
暑い夏とやっと別れが出来、彼岸入りを明日に控え、秋風の冷たさを感じる日々となって来ました。
身体は夏の疲れか、なんとなく「しんどい」のですが、生活できるようにはなっています。
一昨年夏の手術から2年を過ぎ、「癌」の再発が起こっていないかという検査のための通院生活が日常となっています。
「癌」発覚前の血圧が247なのでした。その数値よりずっと低くなりましたが、それから起こっている「目まい」に悩まされ、血圧を心配しながらそれを測っている毎日です。
三度にわたる手術のことがいろいろと思い出され、「全身麻酔」から覚めたときに見た「灯り」を忘れることはできず、改めて「生きていられる」という感謝の中、両親や姉を想い出しては仏壇に手を合わせています。

国立博物館



お電話いただきました時、『空海と真言の名宝展』をご覧になられたお話をしてくださいました。その3・4日あとに勉兄貴たちもそれを見に行ったという知らせを聞き、すぐ兄貴に『如意輪観音』の話と写真を送りました。

福井県あわら市吉崎『岩崎観音祭』


子どもの頃、最初に目にした仏像が家の近所の「観音様」です。その一つが『如意輪観音』でしたので、すごく愛着のある仏像なのです。それは石像ですが、社会人として行った和歌山県の「那智青岸渡寺」で、その「観音様」を見た時はとても感動しました。
自宅の観音石像群も、何かしら「霊」を感じさせられる場所でしたので、子ども心に

福井県『蓮如の里』岩崎観音群


「怖さ」を抱いていました。しかし熊野那智大社で「那智の滝」を見てからの「如意輪観音像」はとても神々しく、優しい瞳で語って来てくれている感じがしました。
如意輪観音は阿弥陀様の変化したものと言われ、那智のそれはおそらく真言密教時代のものだと思います。一言で「仏教」と呼んでも、この真言仏教は平安時代のものです。聖徳太子が仏教を奨励し、日本という国に「秩序」ができあがり「国」となっていった歴史を考えると、生まれ故郷に「蓮如上人」が広めた教えは「鎌倉仏教」です。奈良時代から鎌倉時代へと移り変わる仏教文化を学び、仏教の『進化』を考えてみますと、生まれながらにして仏教と深いつながりがあると思っています。
奈良時代は一部の上流社会だけの仏教でした。平安時代には貴族のためのものとなり、法然・親鸞・日蓮などという「僧」の出現によって、初めて民衆のための仏教へと変わって行きました。
日本人の持つ「精神文化」は、『神道』と呼ばれる神様に繋がるものから生まれています。

300年以上の歴史がある『吉崎蓮如忌』


その基本姿勢は、親鸞が繋いだ「浄土真宗」と深い関係があると思っているだけに、生まれて来てからずっと蓮如上人の恩恵を受けている自分は、いつも『慈愛』に満ち溢れていたと思います。もちろんその多くは、父や母、そして姉から頂いたものです。そして家族や日本中の人は皆仏(ほとけ)様(さま)の慈愛の中で生かされてきたと思っています。しかし昨今の日本の現状を見てみると、そのようなことは忘れてしまい、『今だけ・金だけ・自分だけ』という風潮が強くなり、郷土愛はもちろん愛国心などすっかり忘れている状態です。戦後GHQによる洗脳教育がそうさせたのだと思いますが、アメリカ型の「個人主義」は日本には不釣り合いだと思うばかりです。
両親から聞かされてきた「大東亜戦争」や見知らぬ土地に来てからの「生活の苦労話」は、すべて周りの人からの優しさや親切心の事ばかりです。その中で育ち学んだことを今は深く感謝するだけです。

高齢化と過疎化の町が賑わう時『吉崎蓮如忌』お着き


暮らしの中に仏教という宗教心が何時も密着した状態であるという事が、勤勉で誠実な秩序を持つ日本人の全てではないかと思う毎日なのです。
それではこの辺で。
いつまでもお元気でお過ごしください。

熊野『青岸渡寺』の如意輪観音像

敬具

日本人だからこそ

今週のお題「薬味」

暑い夏が来た。

夏の食べ物と言えば「素麺」かもしれない。

そして薬味は「おろししょうが」

でも自分は、本当に思い出深い夏の食べ物は「ひやがら」である。

高校生時代の想い出の一コマとなっている。学校からの帰り道「すがや」という今はなくなってしまった店で、貴重な100円で買えた食べ物。

何のことはない中華めんだけという冷やし中華だ。

部活が終わって食べるその味に、仲間たちとの会話が混ざり、

楽しい時間が加わっている。

中華めんに甘い酢が加わった醤油味。

 

あの頃好きだった人とのデートの場所でもその店を使った。

お金はなかったし、洒落た店へ行くことなどできなかったデート。

それでも美味しかった。

会話も弾み、早すぎる時間経過に時計を恨みながら食べていた。

食べ終わると、やっと二人で食べに来たこの時間が終焉を迎えてしまう

だけど必ず別れの時間はやって来る。

甘い初恋の味は『ひやがら』の味

あれから歳月は流れ、あの頃の同級生も、一人またひとりと亡くなって行く。

生きていることを実感できたころではない「ただの想い出」

でも、

その想い出の積み重ねで『今がある』

もう少し想い出を、それを振り返る時間を

今は望むだけなのだが・・・

美しくもあり、幸せな人生

 

吉崎御坊跡で『お神楽』を演じる


7月に入り、日に日にお日様の力が強くなっているような気がします。
 おかげ様で体調は、良くはなってはいませんが、少しずつこの身体に慣れている自分を見つけている状況です。
 考えてみれば、生まれつき身体に障害を抱えている人と比べると、自分の幸せを感じることが出来るのです。色々な経験を積み重ねることができ、子どもや孫に恵まれ、今は一人暮らしをしていますが、『家族』というものを持つ『幸せな時間』も経験させて頂いたのです。だから贅沢は言えないと思っています。不自由な体でも生きていられる、『明日という希望の時間』を持つ事が出来る幸せ、それを感じているのです。動きは鈍くなり、言葉もなかなか出てこない状況を「生老病死」という人間の避けては通れない時間を、自由に動き回ることのできる自分は、経験させて頂いているのだという幸せな時間を送っているのです。
先日頂いた『七夕かまぼこ』の写真、こんな風習もあるのかという新鮮な感じで見させていただきました。まだまだ自分の知らない世界があることに、子どもの頃に願った七夕様に感謝している自分に気が付きました。
大人になりたくなかった子どもの頃、かといってこれという夢を持っているわけでなく、ただのんびりと時を重ねただけの自分、深く問いかけると後悔ばかりかもしれませんが、見方によっては本当に幸せな時間を重ねてきたんだなぁと思うばかりなのです。
24歳の時のことです。
福井県の「訪ソ青年の船」事業に参加して、『青年団』というものの基本の考え方を学んだことが、人生の最初の曲がり角だったかもしれません。
一見、何不自由なく小中高と生活してきた自分ですが、細かく振り返れば常に自由気ままに暮らし、嫌な思いもたくさんさせられ、それでも68歳になれたのです。
交通事故で死んでいたかもしれないし、手術中に亡くなったかもしれない、そんなことを考えていた今年の七夕様でした。
吉崎で暮らすという事を決め、両親と一緒に暮し出した22歳の時、福井県に帰り地元の『青年団』に加入しました。その時4人しかいなかった青年団という集団でしたが、子どもの頃から存在していましたし、見て育っていたのは間違えありません。ですから比較的スムーズに加入できたと見られそうですが、その大きな行事が村祭りでした。盆踊りを含め村中を練り歩く『お神楽』、その神楽獅子が主たる村の「歴史を繋ぐ行事」だったのです。
まず青年団というすでに時代遅れの組織自体がなぜ必要だったのかの勉強に、近隣の話を聞いて回ったことが、『社会教育』という学問の「さわり」だったのです。
当時ブレジネフ書記長全盛時代のソビエトという国へ行けた事、そしてその時知り合った福井県内中の青年団組織と交流を持てた事、それが自分の原点だったと今は理解しています。

「吉崎神楽」、演目「おたま」の一場面


『お神楽』を演じて、村中約130軒を練り歩くためには、最低6人は必要です。それまでは、いわゆるOBの方にその日だけ参加してもらい、自分たち新参者は小間使いに徹していました。笛・太鼓・踊り手・尻尾もち、この4人だけで演じることはできますが、秋祭りの2日間は無理というしかありませんでした。ですから青年団員を増やすことに専念し、一人二人と増やしていったのです。そして疲れた体で櫓を組み、ちょうちんを飾り盆踊り会場を作る、それが青年団の務めでした。
『魅力ある青年団づくり』に徹していった頃、次のステップに移ることを考えていました。その学習の場が、あなたと出会った『近畿青年洋上大学』事業だったのです。
ダラダラと長話になってしまいましたが、この村で行った数々の経験が、今の自分の『財産』なのです。
最初のうちは4人しかいなかった青年団は、10人近くとなり、女性の参加もできましたが相変わらず『お神楽』は男子のみ。けれどその時は踊りも演目が4種類しかなかったのですが、青年団の活動が刺激となり、村に「壮年団」が生まれ、そこでも庶務だけでなく企画も行わせていただきました。そして「壮年団夏まつり」を行うことができ、その場所で古くから「お神楽」と一緒に行われていた『越前漫才』の一つとも言われた『お玉』、別名『七夕』を演じることができたのです。
「お神楽」の飾りつけには必ず『七夕飾り』が必要だったのですが、その意味も理解できるようになりました。因みに自分が青年団町時に、七夕飾りを吉崎幼稚園の先生に頼んで子どもたちに作ってもらうこともしていました。その時の子どもたちはもう40歳を過ぎていますが、いまだに『お神楽』を楽しんでくれている人もいます。
そこに『歴史の重み』を感じている自分は、蓮如上人の逸話に染まって行ったことを、きっと故郷を大事にしている人なら理解していただけると思います。
暑い夏、自分には吉崎の暑い夏は、お世話になった方々へのお礼を述べる夏なのです。
4月23日の蓮如忌行列のお手伝いに始まり、7月21日は西別院の行事『降誕会』のお手伝い、8月15日・16日は盆踊りの夕べ、8月18日は『岩崎観音まつり』、9月15日は『吉崎春日神社秋例祭』、この一連の行事の中で生きて来れたことに、ただ感謝するだけなのです。

春日神社前で、秋例祭の最後を飾るのが基本でした。 村中を練り歩いた後に行ったのですが、村中から一目見ようと大勢の観客が集まっていたのが印象に残ります。(昭和47年)

 

蓮如伝説の中で生きて来たこと

「吉崎七不思議と呼ばれるもの」~愚かな人間だからこそ必要な教え~

昭和20年代の『吉崎御坊』の絵葉書

長野県生まれの父と東京生まれの母が、戦後に北陸の片田舎で半生を送りました。苦労を重ねながら、ここで4人の子どもを持つ事ができ、周りの人に助けられながらこの地で暮らし、ここで黄泉の国へと旅立つことが出来ました。
「大東亜戦争」という日本で一番厳しい時代を過ごした両親、三重県鳥羽の「海軍特攻基地」で終戦を迎えた父。あの「東京大空襲」で焼け野原の中を生き抜いて終戦を迎えた母は、苦労話を聞かされてきた自分もやがて喜寿を迎える年齢となりました。
今は両親の話を、時折息子や孫に語れる幸せに包まれながら、我が『家』のお墓参りをしています。

立ち並ぶ『南無阿弥陀仏』の墓碑の中で


枯れた花を新しく飾り、蝋燭に火をともし、線香に火をつける自分の仕草を、孫たちはいつも不思議そうに見ています。
一人暮らしをし、重なる物価高でも、『自由』を楽しみながら老後の時間を持てている自分ですが、癌の手術後経過観察で病院通いが日々の目的となり、それでも自分の力で歩き、食事をし、スマホで流れてくる『日本の現状』に憂慮し、気遣って連絡をくれる息子に感謝しています。
時々2児の笑顔の写真を送ってくれ、大阪暮らしで垢抜けて行く孫を連れ、見たこともない曾爺ちゃんと曾婆ちゃんに、可愛い手を合わせて祈ってくれるそんな小さな姿を見ているだけで、いつも笑みが零れてきてしまいます。
そうです、ご先祖様の墓参りをしてくれるだけで、幸せな気持ちになれるという、そんな自分も両親と同じように『生きていられること』に感謝の気持ちで今は一杯なのです。
現代は、家も持てず、お墓も持てず、家族のありがたみも薄らいで生活を送っている人が大勢います。個人主義に走り、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉も流行しています。助け合うという心はどこかに置き忘れてしまってもいます。『家』という日本固有の考え方も、各々が様々な考え方に変わってしまっていて、『多様性の時代』と簡単に語ってしまっています。高学歴の社会となり、相変わらず人間に上下を付けながらの「日本の民主主義」。すぐにマウントを取りたがる人間の多いこと。人間性を高める事ができなく、誤った道を歩んでいる人間が多いと感じているのは自分一人ではないと思います。
人間の儚い人生を振り返ると、やはり『家族との幸せ』ではないのかと思うのです。そして家族だけでなく、出会った多くの人から助けられて知識を戴いて生きていることを決して忘れてはいけないのです。
誰もが生きていく辛さを感じています。弱音を吐いたり投げ出したりしてしまう事もたくさんあると思います。人を妬み、人を羨み、人に妬まれながらも、たった一度の人生だから、二度と来ない人生だから、辛い事に耐え忍び、奢らず、謙虚さを忘れず、誠実に生きていくことの大切さを、墓参りに来てくれる息子や孫たちに、ずっと伝えていきたいものだとシミジミと感じるのです。
科学は益々進歩していくでしょう。不思議だと思うことが解明されつつも、『天変地異』など不思議で悲しい事が起こってしまうということ、そこに『祈る』という行為は、何もならない事だと思ってしまいますが、ちっぽけで弱い人間だからこそ、その祈りが度重なれば、きっと大きな『報い』がやって来るのだと信じてほしいものです。自分自身を信じているように。

大正時代の『吉崎御坊跡』(絵葉書)


そして、『輪廻転生』という仏教の考え方が理解できるようになれば、この「お墓参り」の経験値が、いつしか役に立つ日がやって来ると信じています。お線香の小さな火が、亡くなった人の想い出と一緒に、目の前に現れてくる、それが、死者に対する「はなむけ」であり、礼儀であり、日本人として、「歴史の橋渡し役」となってくるのです。
そんなことを考えながら、お墓に拝んでくれている孫の背中を、ジッと見ている年老いた自分がいます。
お墓は、福井県あわら市と坂井市に挟まれた場所にあります。立ち並ぶお墓には、ほとんど『南無阿弥陀仏』という文字が刻まれています。
両親が、戦後第2の人生のスタートとして選らだ場所は、本願寺第8世法主「蓮如上人」が教線の血として選ばれた雪深い北陸の「吉崎」という場所でした。
この地域は、『真宗王国』と呼ばれるような『信心』の篤い土地です。数多くの逸話に囲まれ、それは皆『蓮如伝説』と呼ばれているのですが、科学の発展してきた現代には、摩訶不思議なような逸話ばかりです。

蓮如上人の次女『見玉尼』の墓碑で


その一つを挙げますと、蓮如上人が吉崎に下向されて4年め頃の逸話です。
浄土真宗の布教の成果はすさまじく、北陸各地で「お念仏」の声は高まっていくと共に、政治への不満から強まる一向一揆が各地で起こって行きます。
貴族の時代から武士の時代へと移り変わり、民百姓が「知識に目覚め」、権力との戦いを見せ始めたころ、仏法と王法との違いを教え、何とか民衆の力を抑え込もうとした蓮如さんですが、もう手におえない処まで来ていました。自分の身にまで降りかかる火の粉は、ついに「吉崎退去」の決断を余儀なく下す事になったのでした。
4年3か月、蓮如上人は、雪に覆われながらも冬を乗り越え、必死に生きている民百姓と一緒に「生きるための知恵」を生み続けていました。それだけに、「蓮如さんが吉崎を離れる」その声は北陸各地に広まり、嘆き涙する村人や門徒たち。苦汁の決断をした蓮如さんもまた、吉崎での暮らしを慈しみ、村人たちとの別れを惜しんだと云われています。
蓮如さんが吉崎退去の時に詠まれた和歌として、
「夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき」
この句が残っています。蓮如さんの心を伝えるものとして、吉崎の地を訪れた門徒や観光客にも胸を打たれる和歌のひとつです。

吉崎御坊跡から遥かに望む『日本海』


福井県あわら市吉崎、汽水湖である「北潟湖」に浮かぶこの地には「葦」(アシ)が自生しています。「ヨシ」とも言って同じ植物の事ですが、世界で最も分布のひろいイネ科の植物で、高さは2メートルくらいになります。
古くは、ヨシにおおわれた岬ということから「ヨシザキ」と名が付いたとも言われていますが、「良い御崎」から「ヨシザキ」となったという説もあります。ともかく、吉崎の色々な場所に「葦」が群生しており、それを掻き分けて舟に乗る事になります。
蓮如さんが、吉崎から退去されるとき、一目見送りにと駆けつけて手を合わせる門徒や村人たちには、その「葦」が蓮如さんの姿を阻んでいて困っていたそうです。
「後生だから、蓮如上人のお姿を・・・」
集まってきた人々が皆そう願った時に、北潟湖に一陣の風が吹き、葦の葉が一片に偏り、蓮如上人、吉崎での最後のお姿を拝む事ができたという話が今でも伝わっています。

福井地震後の吉崎村『都市計画』の頃


これは蓮如伝説「片葉の葦」のお話しとして、吉崎七不思議のひとつに数えられています。このような蓮如伝説は、この吉崎だけでなく、日本各地でも色々残っていますが、蓮如さんへの愛着と、教わった教義への感謝が込められているものだと感じます。
著名な蓮如伝説には、歌舞伎や浄瑠璃の題材にも使われた「嫁おどし肉付きの面」と本光坊了顕の「腹籠りの聖教」のお話しがあります。このほかにも「鹿の案内」、「お筆草」、「お腰掛けの石」、「お花松」、「こうなご伝説」、「赤手ガニ伝説」、そしてこの「片葉の葦」を含め吉崎七不思議として語られています。
このような蓮如伝説には、自然を扱ったものが多いのが特徴です。それはやはり、人間が生きていく上に必要なものとして、自然との共存と生き物の尊さを知るという事が揚げられます。

蓮如上人記念館前の看板


たとえば「こうなご伝説」には、限りある資源を大切にする心があります。
吉崎の対岸にある「浜坂浦」(現あわら市浜坂)は古くから漁業を生業としていました。そこの漁師たちがある日蓮如上人の下を訪れます。
「蓮如さまぁ、近頃ちぃとも魚が取れねえんでございます。何とかなんねぇでございますかねぇ・・・」
すると蓮如さんがこう答えられたそうです。
「そなたら漁師は、魚をとったら全て喰ぅてはしまわんかのぅ。そなたらと同じように魚たちも生きておるんじゃ。だからせめて百匹捕ったら二匹だけは、逃がしてやってもらえんかのぅ。」
今では限りある資源を大切にしようという考え方は当たり前ですが、六百年近い前から、蓮如さんはそう教えを広めていきました。生きる事がやっとの時代、自分たちが生きて行くのと同じように、魚たちもまた生きていかねばならないのだという事を、文字もろくに読めない者たちへ教え広めていたのです。
そしてある朝、漁師たちと一緒に海へ出かけた蓮如さんは、舟の穂先に乗って、コヨリを巻いていったのです。その時たくさんの白いコヨリが「こうなご」になって泳いで行ったというお話が「こうなご伝説」です。
コヨリを海に巻いた事により小さな魚が集まり、今度はその小さな魚たちを求め大きな魚たちが集まるようになり、漁師たちの暮らしが楽になって行ったのです。
蓮如伝説には子ども達が喜びそうな話題を入れ、そして生きているものの尊さを教え、その中に感謝する心を植え付けられるようになっています。

蓮如上人の和歌より


蓮如さんの偉大さは、江戸時代以前の日本国という貧しい社会に生きる人間たちに、生きる術を教え、生きていく上での一筋の光を与えていった事ではないでしょうか。
北陸の長く雪深い冬で生き抜く民百姓に、蓮如さんの心がありがたく、そしてかけがえのないものになって行った事の理由は、そんなところにあると感じられます。
蓮如さんがお亡くなりになったのは1449年の3月です。

御影道中クライマックスのシーン


毎年四月には蓮如忌が「あわら市吉崎」で行われます。年々訪れる人は少なくなりましたが、江戸中期から昭和中期にかけて、吉崎蓮如忌を訪れる人の波は大変大きく、大勢の人が「吉崎参り」に訪れています。それには舟を使う人が多く「吉崎舟参り」と呼ばれていました。そして吉崎に来て「片葉の葦」を見つけると大そう喜んだものだそうです。それは、「阿弥陀様には感謝をし、片葉の葦には願いを掛ける」と云われ、そっと懐にしまい込んで土産として持ち帰ったということです。
自分の願いをかける「片葉の葦」、今では舟参りも無くなり、吉崎で釣りに親しむ人も少なくなり、また護岸工事も行われ葦の数は少なくなりました。ですから、なかなか「片葉の葦」を見つけることは難しくなっています。
しかしながら、生きていく事が大変だった時代、蓮如さんの教えに耳を傾け、一日一日に感謝を抱き、貧しさの中で暮らしていた村人や門信徒の気持ちを振り返り、いにしえの吉崎を感じながら、「片葉の葦」を探してみてはいかがでしょうか。
そして、「吉崎こうなご」を肴にして酒を飲み話し合い、また、それを土産として持ち帰り、吉崎での蓮如さんの話を交わしていく事が、蓮如さんへの感謝となるような気がします。

蓮如桜に囲まれる『高村光雲作蓮如像』(於 吉崎御坊跡)


「吉崎蓮如忌」は毎年4月23日から5月2日まで行われます。
この蓮如忌のおかげで、吉崎という小さな集落に人が住み着き、学校が出来、この町の歴史が生まれて来たと言っても良いと思います。
戦国時代を経て、260年にわたる平和な江戸時代が訪れ、『本願寺』というお寺が東西に分かれ400年以上になります。蓮如さんに対する東西での評価の違いはありますが、「本願寺蓮如」の足跡は大変大きなものがあると思います。本願寺大教団の歴史を知れば、商人の町「大阪」の生まれた意味、江戸時代に出来上がった流通における『近江商人』の文化、北前船で積み上がった日本文化など、この『日本の姿』を学ぶことが出来ます。それとともに、『人間の愚かな点』をも見つけることがきっとできるはずです。
「吉崎蓮如忌」は、吉崎東別院(真宗大谷派吉崎別院)の事業「御影道中」があり、毎年4月17日に京都の本山から吉崎まで、歩いて蓮如さんの絵像を運ぶ事業です。
4月23日、夜7時半頃、吉崎に御到着される道中では、今もなお「お帰りなさい」と声をかける人たちがいます。北陸の春の歳時記とされるこの日に、是非吉崎を訪れ、北陸の文化と歴史を繋いできた先人たちの苦労を感じ取ってもらいたいものです。『蓮如の里』がここ『吉崎』として必要なことを、科学が発達したからこそ解ってほしいと思います。

参考文献(順不同、敬称略)
辻川達雄「蓮如実伝」、朝倉喜裕「蓮如北陸路を行く」
「金津町吉崎の郷土誌」(金津町教育委員会発行)