「吉崎七不思議と呼ばれるもの」~愚かな人間だからこそ必要な教え~

昭和20年代の『吉崎御坊』の絵葉書
長野県生まれの父と東京生まれの母が、戦後に北陸の片田舎で半生を送りました。苦労を重ねながら、ここで4人の子どもを持つ事ができ、周りの人に助けられながらこの地で暮らし、ここで黄泉の国へと旅立つことが出来ました。
「大東亜戦争」という日本で一番厳しい時代を過ごした両親、三重県鳥羽の「海軍特攻基地」で終戦を迎えた父。あの「東京大空襲」で焼け野原の中を生き抜いて終戦を迎えた母は、苦労話を聞かされてきた自分もやがて喜寿を迎える年齢となりました。
今は両親の話を、時折息子や孫に語れる幸せに包まれながら、我が『家』のお墓参りをしています。

立ち並ぶ『南無阿弥陀仏』の墓碑の中で
枯れた花を新しく飾り、蝋燭に火をともし、線香に火をつける自分の仕草を、孫たちはいつも不思議そうに見ています。
一人暮らしをし、重なる物価高でも、『自由』を楽しみながら老後の時間を持てている自分ですが、癌の手術後経過観察で病院通いが日々の目的となり、それでも自分の力で歩き、食事をし、スマホで流れてくる『日本の現状』に憂慮し、気遣って連絡をくれる息子に感謝しています。
時々2児の笑顔の写真を送ってくれ、大阪暮らしで垢抜けて行く孫を連れ、見たこともない曾爺ちゃんと曾婆ちゃんに、可愛い手を合わせて祈ってくれるそんな小さな姿を見ているだけで、いつも笑みが零れてきてしまいます。
そうです、ご先祖様の墓参りをしてくれるだけで、幸せな気持ちになれるという、そんな自分も両親と同じように『生きていられること』に感謝の気持ちで今は一杯なのです。
現代は、家も持てず、お墓も持てず、家族のありがたみも薄らいで生活を送っている人が大勢います。個人主義に走り、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉も流行しています。助け合うという心はどこかに置き忘れてしまってもいます。『家』という日本固有の考え方も、各々が様々な考え方に変わってしまっていて、『多様性の時代』と簡単に語ってしまっています。高学歴の社会となり、相変わらず人間に上下を付けながらの「日本の民主主義」。すぐにマウントを取りたがる人間の多いこと。人間性を高める事ができなく、誤った道を歩んでいる人間が多いと感じているのは自分一人ではないと思います。
人間の儚い人生を振り返ると、やはり『家族との幸せ』ではないのかと思うのです。そして家族だけでなく、出会った多くの人から助けられて知識を戴いて生きていることを決して忘れてはいけないのです。
誰もが生きていく辛さを感じています。弱音を吐いたり投げ出したりしてしまう事もたくさんあると思います。人を妬み、人を羨み、人に妬まれながらも、たった一度の人生だから、二度と来ない人生だから、辛い事に耐え忍び、奢らず、謙虚さを忘れず、誠実に生きていくことの大切さを、墓参りに来てくれる息子や孫たちに、ずっと伝えていきたいものだとシミジミと感じるのです。
科学は益々進歩していくでしょう。不思議だと思うことが解明されつつも、『天変地異』など不思議で悲しい事が起こってしまうということ、そこに『祈る』という行為は、何もならない事だと思ってしまいますが、ちっぽけで弱い人間だからこそ、その祈りが度重なれば、きっと大きな『報い』がやって来るのだと信じてほしいものです。自分自身を信じているように。

大正時代の『吉崎御坊跡』(絵葉書)
そして、『輪廻転生』という仏教の考え方が理解できるようになれば、この「お墓参り」の経験値が、いつしか役に立つ日がやって来ると信じています。お線香の小さな火が、亡くなった人の想い出と一緒に、目の前に現れてくる、それが、死者に対する「はなむけ」であり、礼儀であり、日本人として、「歴史の橋渡し役」となってくるのです。
そんなことを考えながら、お墓に拝んでくれている孫の背中を、ジッと見ている年老いた自分がいます。
お墓は、福井県あわら市と坂井市に挟まれた場所にあります。立ち並ぶお墓には、ほとんど『南無阿弥陀仏』という文字が刻まれています。
両親が、戦後第2の人生のスタートとして選らだ場所は、本願寺第8世法主「蓮如上人」が教線の血として選ばれた雪深い北陸の「吉崎」という場所でした。
この地域は、『真宗王国』と呼ばれるような『信心』の篤い土地です。数多くの逸話に囲まれ、それは皆『蓮如伝説』と呼ばれているのですが、科学の発展してきた現代には、摩訶不思議なような逸話ばかりです。

蓮如上人の次女『見玉尼』の墓碑で
その一つを挙げますと、蓮如上人が吉崎に下向されて4年め頃の逸話です。
浄土真宗の布教の成果はすさまじく、北陸各地で「お念仏」の声は高まっていくと共に、政治への不満から強まる一向一揆が各地で起こって行きます。
貴族の時代から武士の時代へと移り変わり、民百姓が「知識に目覚め」、権力との戦いを見せ始めたころ、仏法と王法との違いを教え、何とか民衆の力を抑え込もうとした蓮如さんですが、もう手におえない処まで来ていました。自分の身にまで降りかかる火の粉は、ついに「吉崎退去」の決断を余儀なく下す事になったのでした。
4年3か月、蓮如上人は、雪に覆われながらも冬を乗り越え、必死に生きている民百姓と一緒に「生きるための知恵」を生み続けていました。それだけに、「蓮如さんが吉崎を離れる」その声は北陸各地に広まり、嘆き涙する村人や門徒たち。苦汁の決断をした蓮如さんもまた、吉崎での暮らしを慈しみ、村人たちとの別れを惜しんだと云われています。
蓮如さんが吉崎退去の時に詠まれた和歌として、
「夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき」
この句が残っています。蓮如さんの心を伝えるものとして、吉崎の地を訪れた門徒や観光客にも胸を打たれる和歌のひとつです。

吉崎御坊跡から遥かに望む『日本海』
福井県あわら市吉崎、汽水湖である「北潟湖」に浮かぶこの地には「葦」(アシ)が自生しています。「ヨシ」とも言って同じ植物の事ですが、世界で最も分布のひろいイネ科の植物で、高さは2メートルくらいになります。
古くは、ヨシにおおわれた岬ということから「ヨシザキ」と名が付いたとも言われていますが、「良い御崎」から「ヨシザキ」となったという説もあります。ともかく、吉崎の色々な場所に「葦」が群生しており、それを掻き分けて舟に乗る事になります。
蓮如さんが、吉崎から退去されるとき、一目見送りにと駆けつけて手を合わせる門徒や村人たちには、その「葦」が蓮如さんの姿を阻んでいて困っていたそうです。
「後生だから、蓮如上人のお姿を・・・」
集まってきた人々が皆そう願った時に、北潟湖に一陣の風が吹き、葦の葉が一片に偏り、蓮如上人、吉崎での最後のお姿を拝む事ができたという話が今でも伝わっています。

福井地震後の吉崎村『都市計画』の頃
これは蓮如伝説「片葉の葦」のお話しとして、吉崎七不思議のひとつに数えられています。このような蓮如伝説は、この吉崎だけでなく、日本各地でも色々残っていますが、蓮如さんへの愛着と、教わった教義への感謝が込められているものだと感じます。
著名な蓮如伝説には、歌舞伎や浄瑠璃の題材にも使われた「嫁おどし肉付きの面」と本光坊了顕の「腹籠りの聖教」のお話しがあります。このほかにも「鹿の案内」、「お筆草」、「お腰掛けの石」、「お花松」、「こうなご伝説」、「赤手ガニ伝説」、そしてこの「片葉の葦」を含め吉崎七不思議として語られています。
このような蓮如伝説には、自然を扱ったものが多いのが特徴です。それはやはり、人間が生きていく上に必要なものとして、自然との共存と生き物の尊さを知るという事が揚げられます。

蓮如上人記念館前の看板
たとえば「こうなご伝説」には、限りある資源を大切にする心があります。
吉崎の対岸にある「浜坂浦」(現あわら市浜坂)は古くから漁業を生業としていました。そこの漁師たちがある日蓮如上人の下を訪れます。
「蓮如さまぁ、近頃ちぃとも魚が取れねえんでございます。何とかなんねぇでございますかねぇ・・・」
すると蓮如さんがこう答えられたそうです。
「そなたら漁師は、魚をとったら全て喰ぅてはしまわんかのぅ。そなたらと同じように魚たちも生きておるんじゃ。だからせめて百匹捕ったら二匹だけは、逃がしてやってもらえんかのぅ。」
今では限りある資源を大切にしようという考え方は当たり前ですが、六百年近い前から、蓮如さんはそう教えを広めていきました。生きる事がやっとの時代、自分たちが生きて行くのと同じように、魚たちもまた生きていかねばならないのだという事を、文字もろくに読めない者たちへ教え広めていたのです。
そしてある朝、漁師たちと一緒に海へ出かけた蓮如さんは、舟の穂先に乗って、コヨリを巻いていったのです。その時たくさんの白いコヨリが「こうなご」になって泳いで行ったというお話が「こうなご伝説」です。
コヨリを海に巻いた事により小さな魚が集まり、今度はその小さな魚たちを求め大きな魚たちが集まるようになり、漁師たちの暮らしが楽になって行ったのです。
蓮如伝説には子ども達が喜びそうな話題を入れ、そして生きているものの尊さを教え、その中に感謝する心を植え付けられるようになっています。

蓮如上人の和歌より
蓮如さんの偉大さは、江戸時代以前の日本国という貧しい社会に生きる人間たちに、生きる術を教え、生きていく上での一筋の光を与えていった事ではないでしょうか。
北陸の長く雪深い冬で生き抜く民百姓に、蓮如さんの心がありがたく、そしてかけがえのないものになって行った事の理由は、そんなところにあると感じられます。
蓮如さんがお亡くなりになったのは1449年の3月です。

御影道中クライマックスのシーン
毎年四月には蓮如忌が「あわら市吉崎」で行われます。年々訪れる人は少なくなりましたが、江戸中期から昭和中期にかけて、吉崎蓮如忌を訪れる人の波は大変大きく、大勢の人が「吉崎参り」に訪れています。それには舟を使う人が多く「吉崎舟参り」と呼ばれていました。そして吉崎に来て「片葉の葦」を見つけると大そう喜んだものだそうです。それは、「阿弥陀様には感謝をし、片葉の葦には願いを掛ける」と云われ、そっと懐にしまい込んで土産として持ち帰ったということです。
自分の願いをかける「片葉の葦」、今では舟参りも無くなり、吉崎で釣りに親しむ人も少なくなり、また護岸工事も行われ葦の数は少なくなりました。ですから、なかなか「片葉の葦」を見つけることは難しくなっています。
しかしながら、生きていく事が大変だった時代、蓮如さんの教えに耳を傾け、一日一日に感謝を抱き、貧しさの中で暮らしていた村人や門信徒の気持ちを振り返り、いにしえの吉崎を感じながら、「片葉の葦」を探してみてはいかがでしょうか。
そして、「吉崎こうなご」を肴にして酒を飲み話し合い、また、それを土産として持ち帰り、吉崎での蓮如さんの話を交わしていく事が、蓮如さんへの感謝となるような気がします。

蓮如桜に囲まれる『高村光雲作蓮如像』(於 吉崎御坊跡)
「吉崎蓮如忌」は毎年4月23日から5月2日まで行われます。
この蓮如忌のおかげで、吉崎という小さな集落に人が住み着き、学校が出来、この町の歴史が生まれて来たと言っても良いと思います。
戦国時代を経て、260年にわたる平和な江戸時代が訪れ、『本願寺』というお寺が東西に分かれ400年以上になります。蓮如さんに対する東西での評価の違いはありますが、「本願寺蓮如」の足跡は大変大きなものがあると思います。本願寺大教団の歴史を知れば、商人の町「大阪」の生まれた意味、江戸時代に出来上がった流通における『近江商人』の文化、北前船で積み上がった日本文化など、この『日本の姿』を学ぶことが出来ます。それとともに、『人間の愚かな点』をも見つけることがきっとできるはずです。
「吉崎蓮如忌」は、吉崎東別院(真宗大谷派吉崎別院)の事業「御影道中」があり、毎年4月17日に京都の本山から吉崎まで、歩いて蓮如さんの絵像を運ぶ事業です。
4月23日、夜7時半頃、吉崎に御到着される道中では、今もなお「お帰りなさい」と声をかける人たちがいます。北陸の春の歳時記とされるこの日に、是非吉崎を訪れ、北陸の文化と歴史を繋いできた先人たちの苦労を感じ取ってもらいたいものです。『蓮如の里』がここ『吉崎』として必要なことを、科学が発達したからこそ解ってほしいと思います。
参考文献(順不同、敬称略)
辻川達雄「蓮如実伝」、朝倉喜裕「蓮如北陸路を行く」
「金津町吉崎の郷土誌」(金津町教育委員会発行)