観光ガイドとして
2019年、今年も残すところあと一か月。
語り部として、13年目も過ぎ去ろうとしています。
この間、多くの人と出会えたのも、「蓮如さんのおかげ」だと思っています。
生きている事に感謝をするようになった事も、食べ物や飲み物に対しても、「美味しい」と感謝ができるようになった事も「蓮如さんのおかげ」と言えるようになって来た。
どちらかというと信心深い方ではないけれど、神様にも仏さまにも頭を下げれるような人間になってきたと云えるかもしれなません。
語り部をやっていて、気の付いた事や勉強し直したこと、学んだことをメモしてきた事を今のうちにまとめておくべきと考えたましたので、このブログに残しておきます。
吉崎のシンボル「蓮如像」(高村光雲作)
蓮如像
あわら市吉崎の国指定史跡「吉崎御坊跡」にそびえ立つ「蓮如像」は、高村光雲の作で、昭和9年に完成しました。高村光雲4代作の一つとされ、最大のものです。
昭和9年と云えば、 昭和4年(1929年)に世界恐慌が起こり、それが第2次世界大戦の引き金となった、まさに世界経済が大パニックになっていた真っ只中のときです。
その時代に、当時のお金で5万7000円の寄進が集まり、この「蓮如像」が建立されたのです。
米価を基準にして、現在の通貨に換算しますと約1億円、でも米価自体が安くなっていますので、その3倍から5倍という事になります。
つまり世界経済がパニックになっている状況でこれだけのお金が集まったということに驚かざるを得ません。
国指定史跡「吉崎御坊跡」
約2000坪あると言われるこの「吉崎御坊跡」ですが、地権者は「吉崎西別院」と「吉崎東別院」です。
この本願寺系の二つのお寺で管理しているこの地は、昭和50年に国の指定史跡に認定されました。
元々蓮如さんの時代は本願寺が分裂していませんでした。
蓮如さんが吉崎にいらしたのは西暦〇〇〇〇年(文明3年)のときです。それから約130年の時を過ぎ、江戸幕府が開かれる寸前の1602年(江戸幕府は1603年徳川家康が征夷大将軍に任官した年から)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、そこから東西の分立時代が始まったとされています。ですから、この地がその後東西管理でずっと続いているという事になります。
江戸時代を築いた徳川家康が、一番困った相手が「一向一揆」です。
そのため、一向一揆の起こった基本となる本願寺の力を弱めるために、本願寺を東西に分立させたと言えるのですが、信長・秀吉・家康という日本の歴史上、戦国時代のヒーローであるこの3人との戦いに、本願寺を分裂させて終止符を打った家康は、本当に策略家であったと言えます。
寺請制度という仏教教団が江戸幕府の統治体制の一翼を担うこととなる制度を法制化し、幕府の出先機関の役所と化していった寺の力が弱くなって現在に至っているのです。