BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

愛すべき我がふるさと・・・

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桜に囲まれる「高村光雲作『蓮如像』」


 私の故郷は、浄土真宗本願寺派第8代法主蓮如」が道場を建てた地で「吉崎御坊」と呼ばれている。古くから「吉崎参り」として賑わい門前町として名高い。

 

 「蓮如」がこの地に坊舎を建てたのは、戦国時代の始まりとされる応仁の乱が起こった4年後、1471年(文明3年)の事である。それ以後、北陸に真宗門徒が増え続け、「本願寺大教団」が出来上がり、後の加賀一向一揆で「百姓の持ちたる国」として約100年間加賀国を統治する原動力となっている。日本の歴史上、同一宗教で政治を司ったのは、この地が初めてで他に類を見ないだろう。

 

 1499年(明応8年)3月25日に「蓮如」が他界し、25日講が始まり、この吉崎で「蓮如忌」として法要が営まれていくのだが、最初は「蓮如」の残した絵像名号を松の木に掲げて行っていた。この松の木は、「蓮如」が仏壇の松の小枝を3本植えると、根が付き大きくなったとされるもので、今でも国指定史跡「吉崎御坊跡」(通称吉崎御山)に「お手植えの松」として枯れ木が残っている。

 

 関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって長い戦乱の世に終止符が打たれ、「本願寺大教団」はその力を弱めるために東西の二つに分かれさせられてしまう。江戸幕府の開かれる1年前、1602年(慶長7年)のことである。

 そうして日本が泰平になった江戸時代中期に、東本願寺で「蓮如自画像」(御影)を京都から吉崎まで運ぶ「御影道中」が始まり、新たな「蓮如忌」が行われるようになり、現在に至っている。

 

 「御影道中」は平成25年の今年で340回目を迎えた。吉崎に向かう事を「御下向」と呼び、京都に戻ることを「御上洛」と言う。どちらも自動車や鉄道は使わず、「蓮如」の足跡を確かめるかのように歩き続けている。江戸時代は全行程、御影を神輿に乗せて行っていたそうだが、明治以降道路の整備が進み、リヤカーや手押し車を使うようになったそうだ。

 

 「御下向」は、4月17日に京都を出発し23日に吉崎に到着するまでの距離が240Km。車社会にとっぷり使ってしまっている自分には、考えられないような事である。最大の難所とされ、日本の秘境百選にも選ばれている「木の芽峠」越えは、箱に入った絵像を背負って山道を歩いていくという。ある年によっては残雪もあり、道なき道を進んで行くという、本当に大変な道程である。

 

 御影道中が吉崎入りすると、御影は手押し車から神輿に乗り換え、15名の吉崎消防団員に担がれ、小さな町を長い行列となって練り歩く。そして、真宗大谷派吉崎別院(東別院)の太鼓堂から大きな音が鳴るのである。この太鼓の音が合図になる。東別院境内の御堂や大階段で、今か今かと到着を待つ多くの門信徒には感激の音となる。それと供に心地よい半鐘もなり始める。行列が東別院に近づくにつれ、太鼓と半鐘のリズムがどんどん速くなり、心を掻き立てられる。その中を、いよいよ御影を乗せた神輿が48段の大階段を一気に駆け上がる。吉崎での「御下向」クライマックスの瞬間である。新聞各社やアマチュアカメラマンのフラッシュがたかれる中、人々は手を合わせる。そしてそれを見守る人の中に、必ずこの7日間、御影と一緒に歩いた高齢者ばかりの「供奉人」と呼ばれる人の家族の姿を見る事ができる。東別院では「ご苦労様」、「ありがとう」、「お疲れさま」と声が飛び交い労をねぎらう姿がある。そしていつも感じるのである。この御影と供に歩いた人たちにとって「蓮如」とはどういう人なのかと。

 

 自分にとっては「蓮如さん」と呼べる人である。親しさだけが募る。この地で生まれ育った人はみなそう呼んでいる。そして何かといえば「蓮如さんのおかげ」といって感謝する習わしがある。

 

 御影は吉崎で10日間過ごされる。その間が「吉崎蓮如忌」であり、唯一この地が賑わう期間である。普段はひっそりとしたお土産物屋さんも、いつもより多くの商品を並べる。米やきな粉、水飴などで作られた昔菓子「けんけら」、「黒ねじ」、「青ねじ」。その横にパック詰めにされた小魚が並ぶ。これが「吉崎こうなご」というものだ。玉筋魚(いかなご)なのだが、北陸では小女子と呼ばれ型も大きい。春から初夏にかけてのこの時期は大きくなり、とりわけ蓮如忌の頃の小女子はよりいっそう大きく感じる。大きすぎて食べられない人もいるが、酢醤油大根おろしで食べる味には季節感があり、酒の肴にももってこいの食べ物である。この期間、昔は民宿を営んでいた家が多く、「夕食には小女子」という人が今でも多くいる。

 

 この小女子、ブランド品として吉崎みやげには欠かせないものとなっているが、これには理由がある。数多くある蓮如伝説のうち、吉崎七不思議に数えられる「小女子伝説」から来ているのだ。七不思議には前出の「お手植えの松」のほか、「片葉の葦」や「お腰掛けの石」、「お筆草」などのほか、「鹿伝説」、「赤手ガニ伝説」など、動植物に係るものがほとんどである。自然いっぱいの吉崎だからなのかもしれない。

 

 「小女子伝説」には、蓮如さんの教えである「罪を認め念仏を唱えよ」というものを含んでいる。

 

その伝説を紹介すると、

 

「古くから、命あるものを殺傷していると極楽へは行けないと教えられていた時代、魚を殺していると感じている漁師達には、不安と迷いがあった。

 

 そんな漁師達が蓮如さんに相談したところ、『人間は日暮しができなければ、仏様の教えを聞く事ができない。だから魚のことを考え念仏を唱えなさい』とおっしゃったそうだ。魚を殺している罪を認め、しっかり供養してあげなさいと言う教えなのである。それから猟師達に迷いが消え、毎日の生活が楽しくなって行ったという。

 

 しかしながらある時、魚がさっぱり取れなくなってしまい、また蓮如さんに相談する事になった。

 

 すると、『魚もむざむざ殺されるのを嫌がり、逃げていくのではないか。それに全部捕ってしまったらいなくなってしまう。そこで相談だが、百匹捕ったら二匹だけ放してもらえんかのぉ』とおっしゃられる。

 

 そして翌朝、漁師達と一緒に船に乗り海に出ると、舳先に立って、供の僧に作らせた紙のコヨリを海に撒いた。すると不思議、そのコヨリが小女子になって泳いで行った。

 

 それから豊漁となり漁師達は喜び、蓮如さんのおかげと感じ、毎晩吉崎参りを欠かさなかったという」こんな伝説である。

 

 これが「吉崎こうなご」ブランドの理由である。この伝説の中には人間として色々教えられるものがある。

 

 当時律令制の日本には多くの人種差別があり、良民と賤民の二つに分けた後、陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢と賤民を5階級に分けられていた。しかし仏の下では人間は皆平等であり、差別を付けるものではないと蓮如さんは公言し、実行しているのである。

 一例として、膝と膝を突き合わせて行う「平座説法」と呼ばれるものが蓮如さんの代名詞になっているところからも判る。だからこそ、猟師や漁師など賤民と呼ばれていた人や、「五障三従の女人」と言われ卑下されていた女性からも慕われていくのである。また自然の中で、ほかの動植物と一緒に生きていく人間のあるべき姿や、生きていくための知恵や感謝の念が大切だとも伝えている。

 

 蓮如さんには、庶民の現実をはっきりと理解してくれるところがあった。庶民には、仏の教えは理想論ではあるが現実ではなかなか取り入れる事は難しい。けれど、解り易くそして親しく接してくれるため、識字率の低い時代に仏の道を理解する事も出来、蓮如さんへの感謝が生まれてくる。辛く厳しい人生を過ごして行けば行くほど、生きていられる感謝が増していったのではないだろうか。これは現代にも通じる事だと思う。

 

 毎年4月23日の夜、この吉崎の地は、「蓮如さんありがとう」という感謝の気持ちと、これからも美味しく「小女子」を食べさせてもらえるようになど、明日への生活を願う気持ちが飛び交う町になるのである。