BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

私の信仰は・・・

 

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吉崎蓮如忌の様子


自分は、これといった宗派を持つものではないけれど、仏教徒と呼んでも差し支えないと思っています。

 そして、その中でも、親鸞聖人ゆかりの「本願寺」系に属する考え方に近いかと思っています。

 何故なら「本願寺第8世蓮如」に陶酔しているからなのですが、西でも東でもなく、専修寺系でもなく仏光寺系でもなく、ただ「蓮如さん」が好きなのす。

 その要因として、北陸生まれの自分は、子どもの頃から「蓮如さん」と身近に生きてきたような錯覚も抱いているからです。

 たった4年しか北陸にはいなかった蓮如さんです、親鸞聖人の礎を築いた功績は本当に大きいものだと感じている。

 そう、自分には、歴史上から見ても、お坊さんは日本中にたくさんいるけれど、尊敬し敬愛しているお坊さんは「蓮如さん」だけなのです。

 

 文明七年(一四七五年)、八月。

 本願寺第8世蓮如上人が吉崎(現あわら市吉崎)に下向されて4年。

 浄土真宗の布教の成果は言うまでもなく、北陸各地でお念仏の声は高まっていくと共に、政治への不満から強まる一向一揆、何とかその力を抑え込もうとした蓮如さんですが、もう手におえない処まで来ていました。自分の身にまで降りかかる火の粉は、ついに彼に「吉崎退去」の決断を余儀なく下す事になったのでした。

蓮如さんが「吉崎を離れる」その声は北陸各地に広まり、嘆き涙する村人や門徒たち。苦汁の決断をした蓮如さんもまた、吉崎での暮らしを慈しみ、村人たちとの別れを惜しんだと云われています。

蓮如さんが吉崎退去の時に詠まれた和歌として、

「夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき」

この句が残っています。

 現在、蓮如さんの吉崎への想いを伝えるものとして、この地を訪れた門徒や観光客にも胸を打たれる和歌のひとつです。

 

 福井県あわら市吉崎、汽水湖である「北潟湖」に浮かぶこの地には「葦」(アシ)が自生しています。「ヨシ」とも言って同じ植物の事ですが、世界で最も分布のひろいイネ科の植物で、高さは2メートルくらいになります。

 古くは、ヨシにおおわれた岬ということから「ヨシザキ」と名が付いたとも言われていますが、「良い御崎」から「ヨシザキ」となったという説もあります。ともかく、吉崎の色々な場所に「葦」が群生しており、それを掻き分けて舟に乗る事になります。

 

 蓮如さんが吉崎から退去されるとき、一目見送りに、と駆けつけて手を合わせる門徒や村人たちには、その「葦」が蓮如さんの姿を阻んでいて困っていたそうです。

「後生だから、蓮如上人のお姿を・・・」

集まってきた人々が皆そう願った時に、北潟湖に一陣の風が吹き、葦の葉が一片に偏り、蓮如上人、吉崎での最後のお姿を拝む事ができたという話が今でも伝わっています。

 

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あわら市吉崎「吉崎御坊跡」からの景色


これは蓮如伝説「片葉の葦」のお話しとして、吉崎七不思議のひとつに数えられています。このような蓮如伝説は、この吉崎だけでなく、日本各地でも色々残っていますが、蓮如さんへの愛着と、教わった教義への感謝が込められているものだと感じます。

 この地を元にした著名な蓮如伝説には、歌舞伎や浄瑠璃の題材にも使われた「嫁おどし肉付きの面」と本光坊了顕の「腹籠りの聖教」のお話しがあります。このほかにも「鹿の案内」、「お筆草」、「お腰掛けの石」、「お花松」、「こうなご伝説」、「赤手ガニ伝説」、そしてこの「片葉の葦」を含め吉崎七不思議として語られています。

このような蓮如伝説には、自然を扱ったものが多いのが特徴です。それはやはり、人間が生きていく上に必要なものとして、自然との共存と生き物の尊さを知るという事が揚げられます。

 

 たとえば「こうなご伝説」には、限りある資源を大切にする心があります。

 吉崎の対岸にある「浜坂浦」(現あわら市浜坂)は古くから漁業を生業としていました。そこの漁師たちがある日蓮如上人の下を訪れます。

蓮如さまぁ、近頃ちぃとも魚が取れねえんでございます。何とかなんねぇでございますかねぇ・・・」

すると蓮如さんがこう答えられたそうです。

「そなたら漁師は、魚をとったら全て喰ぅてはしまわんかのぅ。そなたらと同じように魚たちも生きておるんじゃ。だからせめて百匹捕ったら二匹だけは、逃がしてやってもらえんかのぅ。」

 今では限りある資源を大切にしようという考え方は当たり前ですが、六百年近い前から、蓮如さんはそう教えを広めていきました。

 生きる事がやっとの時代、自分たちが生きて行くのと同じように、魚たちもまた生きていかねばならないのだという事を、文字もろくに読めない者たちへ教え広めていたのです。

 そしてある朝、漁師たちと一緒に海へ出かけた蓮如さんは、舟の穂先に乗って、コヨリを巻いていったのです。その時たくさんの白いコヨリが「こうなご」になって泳いで行ったというお話が「こうなご伝説」です。

 コヨリを海に巻いた事により小さな魚が集まり、今度はその小さな魚たちを求め大きな魚たちが集まるようになり、漁師たちの暮らしが楽になって行ったのです。

 

 蓮如伝説には子ども達が喜びそうな話題を入れ、そして生きているものの尊さを教え、その中に感謝する心を植え付けられるようになっています。

 蓮如さんの偉大さは、江戸時代以前の日本国という貧しい社会に生きる人間たちに、生きる術を教え、生きていく上での一筋の光を与えていった事ではないでしょうか。

北陸の長く雪深い冬で生き抜く民百姓に、蓮如さんの心がありがたく、そしてかけがえのないものになって行った事の理由は、そんなところにあると感じられます。

 

 

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御影道中のスタート


蓮如さんがお亡くなりになったのは一四九九年の三月です。

 毎年四月には蓮如忌が「あわら市吉崎」で行われます。年々訪れる人は少なくなりましたが、江戸中期から昭和中期にかけて、吉崎蓮如忌を訪れる人の波は大変大きく、大勢の人が「吉崎参り」に訪れています。それには舟を使う人が多く「吉崎舟参り」と呼ばれていました。そして吉崎に来て「片葉の葦」を見つけると大そう喜んだものだそうです。それは、「阿弥陀様には感謝をし、片葉の葦には願いを掛ける」と云われ、そっと懐にしまい込んで土産として持ち帰ったということです。

 自分の願いをかける「片葉の葦」、今では舟参りも無くなり、吉崎で釣りに親しむ人も少なくなり、また護岸工事も行われ葦の数は少なくなりました。ですから、なかなか「片葉の葦」を見つけることは難しくなっています。

 しかしながら、生きていく事が大変だった時代、蓮如さんの教えに耳を傾け、一日一日に感謝を抱き、貧しさの中で暮らしていた村人や門信徒の気持ちを振り返り、いにしえの吉崎を感じながら、「片葉の葦」を探してみてはいかがでしょうか。

 そして、「吉崎こうなご」を肴にして酒を飲み話し合い、また、それを土産として持ち帰り、吉崎での蓮如さんの話を交わしていく事が、蓮如さんへの感謝となるような気がしています。

 「吉崎蓮如忌」は毎年四月二三日から五月二日まで行われます。

 浄土真宗本願寺が東西に分かれ四〇〇年以上になります。蓮如さんに対する東西での 評価の違いはありますが、「本願寺蓮如」の足跡は大変大きなものがあると思います。

 

 なかでの吉崎東別院(真宗大谷派吉崎別院)の事業「御影道中」は、毎年四月一七日に京都の本山から吉崎まで、歩いて蓮如さんの絵像を運ぶ事業です。

 四月二三日、夜七時半頃、吉崎に御到着される道中には、今もなお「お帰りなさい」と声をかける人たちがいます。北陸の春の歳時記とされるこの日に、是非吉崎を訪れ、北陸の文化と歴史を繋いできた先人たちの苦労を感じ取ってもらいたいものです。