BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

ふる里が教えてくれたこと-前編-

~御影道中の影に・・・~
 福井県の最北端「あわら市吉崎」。この地で生まれ育った者には、ある言葉を聞きながら大人になって行きました。それは「蓮如さんのおかげ」という言葉です。
 最近ではその言葉を口にする人は少なくなりましたが、今では廃校となってしまった小学校の運動会でも、天気に恵まれ、怪我もなく楽しく一日を過ごした後には、必ず「蓮如さんのおかげ」と語るお年寄りの姿が数多くありました。蓮如さんが亡くなって六百二十年も経っているのに、「蓮如さん」と身近な人のように親しみを込めて呼び、心の中にはいつも蓮如さんへの感謝の気持ちがありました。

 この吉崎も過疎化と高齢化に悩まされ、宗教離れも備わり、蓮如さんの事を語れる人は本当に少なくなりました。ただ、現代の宗教離れは、特定の教団に属していないという点がかなり大きく、「葬式仏教」という言葉が示すように、葬式のときにしか必要とされない仏教となり、形骸化された結果かもしれません。それが「寺離れ」につながり、蓮如さんを語らなくなった一因だと思われます。
 蓮如さんの残してくれたものの一つに「お勤め」というものがあります。日に一度は仏壇の前に赴き、「正信念」や「三帖和讃」を唱えるというものです。今では仏壇も持たない家が増えていますから、このような作法を語ることも無くなりましたし、語れる人も少なくなってしまいました。

 しかし、この「お勤め」という作法を広めたからこそ、蓮如さんの名前も広がり、「本願寺教団」という日本屈指の大教団が出来上がって行ったことを忘れてはいけないでしょう。
 徳川家康が天下統一を成し遂げ、二百六十年続いた江戸幕府の時代が終わってから百五十年経ちました。戦国時代、信長・秀吉・家康の三英傑を困らせた「一向一揆」の始まりは北陸の地からと云われていますが、その種をまいた蓮如さんの業績もまた、忘れ去れようとしているのは事実です。

 しかし、「葬式仏教」として形骸化された仏教が残っているように、死者に対する葬礼という弔いは今後も続いていくはずです。どのような宗派であっても、死者への感謝も含む葬礼は、簡素化されても残っていくと思われるだけに、福井・石川県境のこの小さな「吉崎」という地も、蓮如さんの故郷として残って行く事でしょう。
 毎年4月23日から5月2日まで、吉崎蓮如忌が行われます。これは、真宗大谷派吉崎別院の行事です。
 「蓮如上人さまのおと~り~」の掛け声とともに、蓮如上人御影道中は、蓮如上人御忌法要が厳修される時期に上人が歩いたといわれる京都市東本願寺(本廟)より吉崎別院までの約二四〇キロの道程を一週間かけて歩き御影を運ぶ「御下向」と、吉崎別院における十日間の蓮如上人御忌法要の後、真宗本廟に向けて、帰路約二百八十キロの道程を七泊八日かけて御影を運ぶ旅「御上洛」があり、東本願寺における御帰山をもって御影道中は終了します。三百年以上続く「蓮如上人御影道中」、御輿が吉崎東別院の石段を駆け登る姿を見ようと、毎年大勢の観光客が訪れます。


 蓮如上人御影道中の歴史は古く、平成最後の年である平成31年(2019年)で、346回目となりますから、世界に比類のない行事と言えます。
 『吉崎の郷土史』に書かれてある「吉崎東別院の記録」に基づくと、「京都の東本願寺に預けられた『蓮如上人の自画像』は、延宝元年(1673年)より吉崎への下向が始まりました。

f:id:yamamoto-awara:20191205205610j:plain

木の芽峠をすすむ「御影道中」


 この御影道中の扱いようは『蓮如さまのお通り』と連呼し、『御対面』とか『お腰延べ』とかいって、生き仏を拝すると同じようにいたしています。またこの道中には、残雪の山道もあり、風雨の日もありますが、多くの信者の送り迎えが絶えないので、大切に後の世まで伝えたい」と記してあります。
 ご下向の難所は、木の芽峠で、ご上洛は今庄町の湯尾峠です。木の芽峠にさしかかると、御興車を別の道から先廻りさせて、新保町から供奉の人達が御影の櫃を背負って峠の道を登っていきます。
 4月の峠の道はまだ残雪が方々にみられ、その山道を蓮如上人の櫃をかわるがわる担い、ゆっくり一列になって一歩一歩熊笹を分けながら登ります。一時間程行ったところの、木の芽峠の頂上には、会所(えしょ)があり多勢の人達が出迎えて待っています。会所は藁葺き屋根の家で、一服すると温かい番茶が廻ってきます、囲炉裏には檪の株が赤々と燃えています。


 江戸時代の、御下向御上洛のお迎えの伴人は、宰領を入れて四人で、主として越前・加賀の門徒がその御役を引き受けていました。東本願寺から御使僧が供奉人につきそって下向し、蓮如忌の法要を勤めて御影のお供をして京都へ戻ります。この事は「心証院御影往還の記録」の中にあり、宿泊所の寺々と民家の氏名があり蓮如忌中の法行事など、寛政以降の日記に詳しく記載されています。(つづく)