BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その14】

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蓮如上人子守唄(https://openmatome.net/matome/view.php?q=14900428216258


蓮如には数多くの弟子がいました。そして、部屋済みの時代であっても、蓮如の魅力に取りつかれ、父存如よりも蓮如法話を聞くことが好きになり、蓮如に陶酔して行った門徒も数多くいました。そのような弟子や門徒達がいるおかげで、政犯として賞金のかかった蓮如の子ども達は、琵琶湖のほとりに匿われ、静かな生活をしていたのでした。

「優女(やしょめ) 優女 京の町の優女 売ったるものを 見しょうめ~」

蓮如の子「佑心」を背負いながら、お勝が歌を唄っていました。

「お勝もいつの間にか歌えるようになったのですね。」

微笑みながら見玉がそばにやって来ました。

「おやおや、可愛い寝顔だこと・・」

背負われた「佑心」を見てつぶやきました。眠りに誘われ、お勝の背中で幸せな時を過ごしていたのです。

「この歌は父上もよく歌って下さいました。寺の片隅で、お参りに来られた方々の、お爺さまからのご説法に邪魔しないように、優しく小さなお声で・・・・」

7歳で、貧しかった本願寺を里子に出され、父や母の想い出の薄い見玉でしたが、この歌は数少ない想い出の一つだったのでした。

「まだまだ、見玉様のようにうまくはお歌いできませんが、教えて頂いたこの歌を唄いますと、佑心さまもすぐに眠りについて下さいます。本当に心地よいお歌なので、私も心安らかな気持ちになるのでございます。」お勝は、そう答えました。

 

「優女(やしょめ) 優女 京の町の優女 売ったるものを 見しょうめ~ 金襴緞子(きんらんどんす) 綾や緋縮緬(ひぢりめん) どんどん縮緬(ちりめん) どん縮緬

こう唄われる歌は、蓮如が作ったとされる「子守唄」です。この歌は蓮如の身内だけでなく、本願寺に出入りする門徒達にも広く受け継がれていきました。

「いいお声ですな~、歌に引き込まれやって来てしまいましたよ。」

「これはこれは源兵衛殿、何のたわごとを。」

見玉がそう語りかけると、

「儂もそんな歌を聞きながら眠りとうございましたなぁ、うるさい親父の怒鳴り声しか聞いていねぇもんで・・・」

「源右衛門殿ですね、でも親父様は父上の大の信者。源右衛門殿のお勤めは、堅田一とお聞きします。お声も良い・・・とお聞きしておりますが。」

見玉と源兵衛の会話を横に、お勝は佑心を寝かしに行きました。

家に入り、遠くになっていく二人の会話を聞きながら、お勝にはたまらない幸せを感じていました。卑しい身分に生まれながら、日々の暮らしに怯え、母と姉と3人で過ごした子どもの頃を思うと、この束の間の笑い声のある日々に、ただただ感謝するばかりでした。

これもまた阿弥陀様のおかげ、そしてその教えを広めて下さる蓮如さまのおかげと、そう思うばかりでした。蓮如の子どもたちを、大切に育てながら暮らすお勝。蓮如を慕う心が日に日に増していくのです。

 

文明三年(一四七一年)七月、北陸へ向かった蓮如はいよいよ吉崎入りをすることになりました。越中瑞泉寺で合流した蓮如の四男「蓮誓」の道案内で、加賀の国から越前河口庄細呂宜郷吉崎へと向かう一行は各地で大歓迎を受けていきます。

越前の国で暴漢に襲われ身を隠していた蓮如を探し、瑞泉寺まで同行した心源の計らいで、「京から凄いお坊さまが来る」と先乗りしながら伝え歩いていたのでした。

人目を忍んで北陸路を下向した蓮如にとって、この出向われ方は、言いようのない力を与えられていたのです。

休む処休む処で少しばかりの時間を無駄にせず、集まった民百姓に温かく接し、阿弥陀如来の力を伝えていく蓮如は、毎日の暮らしで気の休まる事のない者たちにとって、それはそれは新鮮であり、逞しく思えた事なのでした。

ある村でのことです。

「お坊さま、ここんとこの日照りで、苗がちいとも育たねえんでございます。村の八幡様にお願えしてもどうにもなんねんでございます。都でお偉いというお坊さまなら、どうにかして下されねぇですかのぉ。」

一人の村人が蓮如にそう申し出をしました。

すると蓮如はあたりを眺めまわし、田から少し離れた場所に向かいました。

そして目をつむり、手を合わせ念仏を唱えたのです。

そして付いてきた村人にこう話したのです。

「ここは川からも遠く水がないと思うておるかもしれん。しかしのぉ、この大地の下には、あの遠くに見える白山から、命の恵みと言える水がたくさん下っておるのじゃ。これも仏のお力じゃと思うて、この場所を掘るが良い。」

村人たちが半信半疑でそこを掘ると、わずか身の丈ばかりの場所からどんどん水が湧きでてきたのでした。遠く流れる場所まで水くみに言っていた村人たちは大騒ぎです。

蓮如さまぁありがとうごぜいます。ありがとうごぜいます。」

蓮如は村人たちにこう言いました。

「これは儂の力ではない。御仏の教えによって学んだものなのじゃ。皆は仏の力を知らぬのかもしれんが、そこにある八幡神社の万神と同じなんじゃ。皆が村祭りと称して春と秋に願いと感謝をささげるように、仏の慈悲にすがり、感謝する事をも忘れるではないぞ。仏も万神も、みな人のためにあるものなんじゃ。全ての民のために力を与えてくれておるのじゃ。」

村人たちは手を合わせ、蓮如に頭を下げるだけでした。

六歳の時に母と生き別れとなり、継母に虐げられながらも、貧しい本願寺にあって、月の明かりで書を読み、父の助けをして書写で金銀を受け取り、苦労に苦労を重ねながら育った蓮如の力の素晴らしさは、知識力が物語っていたのでした。

難しい書を読み、だれよりも知識が豊富であるという力、そして経験から学んだ数々の知識は、全て人のためにあるものと信じ、長い部屋済み生活から四十三歳で本願寺の第八代法主になった事さえ、仏のおかげと感謝し北陸の地を踏んだのでした。

 

「父上、もうすぐでございます。」

蓮誓が言いました。

「蓮誓、潮の香りが強くなったと思わぬか。」

「さようでございますか、自分には同じようにしか感じませぬが。」

「そうか、此処での暮らしが長いからのぉ、苦労をかけたのぉ」

「父上、何をおっしゃいます、蓮誓も仏のお力で加賀の国で暮らせたのでございます。兄上たちと同じように、本願寺の再興にむけ、父上から頂いたお言葉のとおり、働いていただけの事でございます。」

蓮如の四男蓮誓もまた、貧しい本願寺にあって六歳の時に、臨済宗である南禅寺に喝食(かつじき)に出されていた。しかしながら才知に富み、兄順如(蓮如の長男)によって、十三歳のときに越中の加賀土山坊と呼ばれる寺へ出向くことになったのです。

そこは兄蓮乗(蓮如の次男)のいる瑞泉寺とも近く、応仁の乱以降、守護を巡る動乱の続く加賀の国にあって、その動向を調べるには適した場所でした。その後加賀鹿島神社の守役として南加賀の地へ赴いていたのである。

蓮如の一行は加賀江沼の地を歩き進んでいきました。

「父上、もうすぐすると荻生という地でございます。そこに彦左衛門殿が手配してくれた船がございます。そこから吉崎へと向かう事になります。」

一行は、舟に乗りこみ川下へと向かいました。

「これが大聖寺川じゃのぅ?」

蓮如が聞きました。

「そうでございます。この川下に、自分のおります『鹿島』があるのでございます。」

「そうか、その対岸が吉崎、心が湧くのぉ。頼むぞ蓮誓、儂にはまだまだやらねばならぬことがあるのでのぉ」

蓮誓に連れられ吉崎の地に足を運ぶ蓮如。わずか四年三ケ月という吉崎での布教活動が、いよいよ始まろうとしているのです。