BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その13】

文明三年(一四七一年)六月。北陸の春は夏へと向かい、緑の美しい季節へと変わっていました。蓮如堅田の地を離れ約ひと月。幾度となく暴漢に襲われながらも、人目を避け、初めて歩く山道を、ただひたすらに新たな布教の地へと足を進めていました。

蓮如さま、この川にそって下れば、超勝寺まであと一息でございます。」

蓮如の道案内を務める心源が、明るく語りかけました。

「この川は、何という川なのだ?」

蓮如が聞くと、

「水源は白山でございまして、山から見ると、九つの頭を持つ龍のようだと申します。そこから、九頭竜川などと呼ばれておりますが、大雨が降りますと、白山の雪解け水と一緒になり、龍が暴れた如く氾濫を繰り返しますので、地元では『崩れ川』と読んでおります。

私の生まれた麻生津にも、東に足羽川、西に日野川という川がありますが、それらがすべてこの川と一緒になり、龍が大きく大きくなって、海へと流れ出るのでございます。」

「なるほど、崩れ川か・・・」

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九頭竜川https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%A0%AD%E7%AB%9C%E5%B7%9D

蓮如は以前、この北国行きを奈良の興福寺の前別当「経覚」に相談した折に、越前の国の話を聞いた事を思い出していた。経覚が隠居となった時、その領地として、越前の国河口の庄を拝領し、穀物には心配がない土地と大変喜んだそうである。

この「崩れ川」が、白山から多くの水を運び、土地が肥え、多くの作物が育つのだと、改めて知り得たのでした。それゆえ民百姓は白山を敬い、日々の暮らしに感謝していたのです。古代より白山は、「命をつなぐ親神様」として、水神や農業神として、山そのものを神体とする原始的な山岳信仰白山信仰」として広がっていたのでした。

「この川を上れば白山平泉寺、海へと下れば三国湊、そうであったな心源。」

「さようでございます。」

「さすれば、今日は超勝寺には寄らず、川を渡り田嶋で待つ円慶の処へ行こうと思うのじゃが。」

「何故でございますか?超勝寺のほうが、守りも固く、多くの僧兵が蓮如さまをお待ち申し上げておるのでは・・・」

「儂を狙うておるもの、この地では平泉寺じゃ。比叡山からの追手も、この川を渡らず、綽如上人由縁の超勝寺に立ち寄ると、誰もが思うておるのではないかのぉ?」

「かしこまりました。では、近くの漁師に頼んで、舟を出させましょう。」

越前の国「藤島超勝寺」は、今で言う福井県藤島の荘にあり、室町幕府の衰退により多くの豪族がこの豊かな土地の利権のために闘っている最中、越前の国の守護、斯波氏ゆかり『藤島城』の寺として、その地位を確立していました。

かつて、本願寺の第五世綽如上人が越前の国に来られ、斯波左馬介豊郷(しばさまのすけとよさと)の館に立ち寄った際、その教えに心を打たれた豊郷が、上人の次男頓円(とんえん)鸞芸(らんげい)を寺主に迎え(一三九二年)建立したと伝えられる本願寺ゆかりのお寺でした。

それゆえ、一介の大坊主たちは中に入り込むことも出来ず、蓮如がそこへ来ることを予想し、その道沿いで待ち伏せしているはずと、蓮如は考えたのでした。

舟で九頭竜川を渡った蓮如と心源は、田嶋にある『興宗寺』へと向かいました。そこには蓮如の教えに陶酔し、蓮如の北陸行きを喜ぶ門徒達が大勢いたのでした。

住持の「円慶」は、興宗寺の第五世です。開基である「行如」は高田門徒の支流に属していましたが、本願寺第三世覚如上人から教えを受け、さらに覚如から「教行信証」を伝授され、宗祖の鏡御影(かがみのごえい)も開帳するなど勧化に務められたこともあり、行如は本願寺系となったのでした。以来、行円・行祐・円祐・円慶と続く興宗寺は、焼き討ちにあう以前の本願寺を支える、有力寺院だったのです。

当然、京都まで本願寺の教えを被る門徒達も多く、その中には、河口庄吉崎一帯を任されていた豪族「大家彦左衛門吉久」がいたのでした。

突然訪れた蓮如に、興宗寺の「円慶」は驚き、門徒宗を呼び集め、堅田で心配する門徒宗たちにも、「無事越前入り」の知らせを送ったのでした。

 

堅田では二人の女性が蓮如の安否を気遣っていました。

「見玉さま、今越前の国から使いのものが来られ、蓮如さまがご無事とのことです。」

嬉しそうに、そして大きな声で見玉に知らせが入りました。

「お勝、まことか・・?」

「はい、田嶋興宗寺殿からの知らせでございます。」

「父上、よくご無事で・・」

仏壇に手を合わせる毎日を過ごした蓮如の次女「見玉」は、涙を浮かべ、その知らせを運んできたお勝の目にも涙があふれ、二人は手に手を取り合うのでした。

そこへ、蓮如の五男で一三歳になる「実如」が入ってきました。

「姉上、父上がご無事だとか・・」

「実如、嬉しい事です。幾度となく命を狙われながら、父上は無事に越前に御到着されたそうですよ。」

「嬉しゅうございます、姉上。」

そう言う実如の目にも涙があふれ、そばにいるお勝にこう伝えたのでした。

「お勝、儂も越前へ向かうぞ。父のそばにいて、父を守り、父の教えを、もっともっと学びたいのじゃ。」

「実如さま・・」

お勝がつぶやくと、見玉が云った。

「まだまだ安住の地とは言えまい。しかし興宗寺の『円慶』殿は力のあるお方。きっと門徒宗と力を合わせ、父の教えを広めようとするお心に、大きな力を与えて下さると信じております。その時からでも良いではないか。」

「姉上、父上の事が心配で心配でならなかった事、文を書いて伝えとうございます。そして今の気持ちを、父と一緒に過ごしたいという気持ちを、素直に伝えとうございます。」

「そうするがよいでしょう、越前は作物豊かな国と聞いております。この乱世、都で苦しむ多くの人たちに、その作物をも運びこむ事ができたなら、乱世も収まるのではないかと思うております。阿弥陀如来の慈悲を学ぶとともに、皆の暮らしが豊かになる事を、父上は望んでおられる事でしょう。そのためには、我ら家族はもちろん、一人でも多くの人が父上の助けをせねばと思いますよ。」

七歳の時に本願寺の「口減らし」として奉公に出された見玉は、数々の苦労を乗り越えながら過ごしてきました。家族でありながら、父と過ごした記憶も薄く、母の旅立つ姿を見送る事も出来ず、宗派の違う寺で過ごしていた日々を、実如をはじめ多くの弟や妹たちに味わいさせたくないと、ただ手を合わすのでした。

そんな見玉を、一番近くで見ていたのがお勝でした。

賤民として生まれ、父も知らず、姉の行方も知らず、焼け落ちる都の明かりを見ながら、母と逃げ回る日々、加茂の河原で飢えに苦しみながら、息を引き取る数多くの人を見て過ごしたお勝には、家族というもの、助け合いながら生きて行くという事の大切さを、見玉から学び取っていたのでした。

「見玉さま、わたしも、文を書いてもよろしいでしょうか?」

「お勝、それはよい。実如や蓮淳、佑心や弟や妹たちのことを、是非父上に知らせてもらえぬか。父上には、気がかりな事がたくさんあるはずじゃでのぉ。」

蓮如堅田を離れてわずかひと月、幼子の面倒を見ながら、お勝は字を覚えていたのでした。毎日のようにやってくる下間法橋が、実如に学問を教えるときもそばにいて、二歳にもならない末の佑心を背中におぶり、法橋の話を聞いていました。

そして夜になって子ども達が眠りにつくと、見玉や時々訪れる順如に解らない所を質問しながら、学問に励んでいたのです。

その学びの速さに、見玉や順如はもちろん、蓮如の弟子や門徒宗は驚きを隠せなかったのです。乱世ゆえ、楽しみなどもなく、門徒宗が持ち込んでくれる食べ物にありがたさを教えられ、生きているという事に感謝をしながら、毎日を過ごして行くお勝でした。

当時の世の中では、「女性は男性より罪業(ざいごう)が深く、五障三従の罪を背負っている身であり、来世は儚く無間地獄に落ちる身」とされていました。女性は、どんな生き方をしても、仏の慈悲は得られず、極楽浄土へは行けないものとされていた時代です。しかも賤民の身である「お勝」が、文字を覚え、経典を読み、意味を理解していくという事は、普通の暮らしではありえないことでした。

学ぶ事の楽しさ、字を覚えていく事の楽しさ、それがやがて、大きな花を咲かせていく事を、お勝は知る由もなかったのでした。

本願寺という親鸞ゆかりの寺が破却され、流浪の身に転じた蓮如。しかし、志は壊されることなく、益々強く頑強なものに変わっていったのでした。

文明三年(一四七一年)、当時の幕府と強いつながりを持つ「比叡山」の力は、京の町から六十里以上離れた地「北陸」にも広がっていました。当時の「北陸」は「北国(ほっこく)」と呼ばれ、古くから大陸との繋がりもあり、文化水準も高く、京に住む貴族や武士たちのよりどころとなっていました。そんな土地を、蓮如が、自分の布教の拠点として選んだ事は、まだまだ発展する余地を見出していたのかもしれません。

琵琶湖辺の「堅田」から、弟子一人を連れて「北陸」に向かった蓮如には、まだまだ里子にも出せない幼子がいました。最初の妻「如了」との間に生まれた子どもは四男三女の7人で、一番下の四男蓮誓は十六歳になっていましたが、2番目の妻で、「如了」の妹「蓮佑」との間に生まれた子どもは、第9代本願寺法主となる「実如」の十三歳を頭に、三男七女の十人で、一番下の「祐心」はまだ二歳でした。

堅田に残された子ども達の日々の暮らしを支えていたのは、堅田門徒宗であり、後に三番目の妻となるお勝でした。そこには、応仁の乱により京の摂受庵を焼け出された蓮如の第四子見玉もいて、乱世で貧しい暮らしとは言え、父蓮如を慕いその教えを信じ、笑顔の絶えない明るい家庭なのでした。

そこへ、門徒の一人源兵衛が、一人の僧を連れて訪れます。

「見玉さま、見玉さま~」

「これはこれは、源兵衛殿、どうなさいました?」

子どもを背負い、お勝が出てきました。

「お勝さん、山の下の道で、このお坊さまが見玉様に会いたいというので・・・」

そう言うと、となりにいた僧が口を開きました。

「拙僧は乗専というものでございます。越前より、蓮如さまのお手紙をお持ちいたしました」

「それはそれはありがとうございます。さぞやお疲れになった事でございましょう、ささ中へ・・・」

そこへ、見玉がやって来ました。

「見玉でございます。父上から何と・・・」

乗専は、一つの文を見玉に、そしてもう一つをお勝に渡しました。

二人はその文を、すぐさま開きました。

「お勝、父上は越中井波の瑞泉寺にご逗留されておるそうじゃ」

「・・・・・」

「どうしたお勝」

見玉が振り返ると、涙を流すお勝がいました。

「見玉様、生まれて初めて文をいただきました。蓮如さまから、いつも子ども達の面倒を見てくれてかたじけないと・・・」

「そうか、そうか、喜ばしい事じゃのうお勝」、見玉が言いました

「お勝さまは、字がお読みになれるのですか?」

そう乗専が言うと源兵衛が、

「そうでございます乗専様。この娘は儂らと同じ、身分の低いものでございます。しかしながら、蓮如さまのお力により、ちいとばかしの経典も、読みしたためる事ができるようになったんでございますよ」

「それはそれは・・・」

乗専は笑顔を浮かべ、蓮如の子どもを膝に抱くお勝を見ていたのでした。

それから乗専は、北陸に到着した蓮如のことを話していきました。

越前の国では、本願寺ゆかりの超勝寺に入らず、田嶋興宗寺に入り、日々訪れる門徒達と、夜ごと話し合いを持ったのでした。これから進めていく「吉崎」での本願寺の拠点作りについて、蓮如は興宗寺円慶を中心に細かいところまで手配りをし、吉崎にしっかりとした守り固めができるまで、さらに北にある越中に向かったのでした。

その際、蓮如が暴漢に襲われ道に迷い、越前の道案内をしていた心源は乗専の弟子であり、昼夜を問わず蓮如と過ごしたことで、すっかり蓮如に心酔し、蓮如の直弟子となる事を申し出、蓮如もまた心源の聡明さに感嘆し、乗専に自らそばに置きたいと頼み込んだことも語りました。

「安芸心源」、後の下間蓮崇はこうして蓮如の手足となり、北陸の蓮如を支え続け、京に戻った蓮如をも慕い影となって支えていく事になるのです。

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下間蓮崇(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E8%93%AE%E5%B4%87

さらに心源は、越中行きを決めた蓮如に、弟子や門徒宗が隠れてお供をし、少しでも多くの村々に立ち寄り、『越前吉崎の地に、都で名高いお坊さまが来られる』と言い広めるように勧めていたのでした。つまり心源は、吉崎での坊舎建設を進めながら、北陸一円に本願寺の布教活動の下地を作っていく事を推し進めていったのでした。

この頃国境にある『吉崎』は、越前の国、加賀の国、どちらともにも属さず、国を治める守護である越前斯波氏、加賀富樫氏の力も弱まり、統治できない場所でした。唯一そこの豪族、大家彦左衛門吉久がすべてを治めていて、彦左衛門吉久は田嶋興宗寺の門徒であり、本願寺と縁戚のある和田本覚寺蓮光と親密な関係にありました。それゆえ武士の介入も出来ず、天台宗ゆかりの白山平泉寺や白山豊原寺などの僧兵すら、来る事ができるような場所ではなかったのです。

蓮如が越前入りした後、すぐに吉崎へ立ち寄る事をせずに向かった先は、越中の国、井波瑞泉寺でした。瑞泉寺は、明徳元年(一三九〇年)、本願寺五代綽如によって開かれた寺です。

当時、中国の明から朝廷に送られてきた難解な国書を読む事ができず、比叡山延暦寺ゆかりの青蓮院門跡が、本願寺の綽如を推挙し、その国書の内容を解読した事から、後小松天皇が、一寺寄進を許されたとされています。そこから勅願寺として、広く加賀・能登越中・越後・信濃・飛騨・六カ国の有縁の人々から浄財を募り、瑞泉寺が建立されました。

それ以後北陸の本願寺信仰の中心として多くの信者を集めていて、一四三六年(永享八年)、  蓮如の祖父、巧如(第六代法主)が、蓮如の父存如(第七代法主)の弟、如乗を瑞泉寺へ派遣し、京都の本願寺を支える重要拠点となっていたのでした。

蓮如の叔父にあたる如乗は、本願寺比叡山延暦寺山門衆の暴徒によって焼き討ちされる(寛正の法難)以前に亡くなっていました。しかしながら、本願寺第八代法主として家督争いに陥った際に、蓮如が如乗の後押しによってその座を掴んだ事もあり、男子のいなかった如乗のもとへ、蓮如の次男「蓮乗」を、瑞泉寺へ後継ぎとして送り込んでいたのでした。

「蓮乗」は、蓮如の最初の妻「如了」との間に生まれた第三子で、見玉の兄にあたります。見玉同様、貧しかった本願寺のもとを七歳の時に喝食(かつじき/かっしき)として出され、臨済宗南禅寺で少年期を過ごしました。

蓮如本願寺第八世法主となった長禄元年(一四五七年)、十二才の時に本願寺に戻り、兄順如とともに蓮如の補佐役として活動し始めます。二人の息子はどちらも聡明で、衰退していた本願寺を盛り立てていきました。そのため、瑞泉寺の門跡如乗は、自分の息子のように可愛がっていました。当然、自分の後継ぎとして、井波に迎える事を拒む理由もなかったのです。

蓮如が田嶋興宗寺を離れ、弟子の慶聞坊竜玄とともに、井波瑞泉寺に着くと、そこには多くの人が待ち受けていました。

「父上、お待ち申しておりました、良くご無事で・・・」

涙を流しながら、瑞泉寺の門跡となっている蓮乗が言いました。

「蓮乗、ひさしいのぉ、達者であったか?」

その横で、

「父上、私もお待ちもうしておりました」

そう言ったのは、蓮乗の妹、蓮如の第6子「寿尊」でした。

「寿尊」は、見玉の妹にあたり、蓮乗とともに如乗のもとへ来ていたのです。

そしてまた、

「父上、蓮綱でございます。」

「おお蓮綱、逞しくなったのぉ、嬉しゅう思うぞ」

「父上、明日には蓮誓も参りましょう、今宵は兄者の寺で、ゆっくりなされて下さい。」

「蓮綱」は、蓮如の第5子で三男である。

京の都から遠く離れた北国の地で、本願寺で苦楽を共にした家族が集まって来ていました。

次男蓮乗、三男蓮綱、三女寿尊、いずれも貧しい本願寺にあって、父らしいことも出来ず、ただ、口減らしのために、離れ離れになっていた兄弟姉妹が、父を慕い、父を支えて行くという信念を持ち、強い繋がりの中で、蓮如は北陸の地での布教活動を行っていくのでした。

瑞泉寺に集まっていた多くの門徒衆を前に、蓮如法話を行いました。子ども達のみならず、全ての人に、この乱世の中で生きて行く辛さ、そして悲しみの中に、一筋の光明を与えられるよう、あたたかく優しく、そして何より親身になって言葉をかけていったのです。涙ぐみながら語り掛ける蓮如の眼の底には、新しい『本願寺』が、すでに写っていたのは言うまでもありませんでした。