BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その15】

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山田光教寺(http://www.hb.pei.jp/shiro/kaga/yamada-kokyo-ji/


蓮如上人が吉崎入りする頃、近江で暮らす子ども達のもとに、下間法橋がやってきました。法橋は、法主と呼ばれる本願寺の長の一番身近にいて、それを助けていく立場の人でした。代々本願寺の家老職として勤めていて、宗祖である親鸞の弟子「蓮位坊」が祖先にあたります。

「見玉様、法橋でございます。」

「これはこれは法橋殿、いつもありがとうございます。今日も実如(蓮如の五男)の教学ですか?」

「いえ、今日は見玉殿にお願いがあって参りました。」

「そんなに改まって何事でしょう?」

「先ほど北陸に行っている竜玄から文がまいりまして、吉崎の地での坊舎がもうすぐ完成となるそうでございます。大家彦左衛門殿と法敬坊順誓殿が色々段取りをし、台下(蓮如のこと)が不慣れな吉崎の地で不自由なさらぬよう、用意をしておったのですが、台下の身の回りのお世話を、安心して任せられる人がどうしても見当たらぬという事でございます。まもなく、本覚寺の蓮光もこちらへ出向くことになっておりますが、見玉様に、是非とも越前に来てほしいとのことでございます。」

「父の・・・でございますか?」

「左様でございます。蓮佑さまが昨年にお亡くなりになり、本願寺が打ち壊され、流浪の身になったとはいえ、今まで台下は裏方を娶られず、今日に至っております。これからは、台下のお世話をするものが、吉崎の地には必要と考えまするだけに、加賀におります順誓殿も、いろいろと誰がよいかと考えたようにございます。」

蓮如の最初の妻「如了」は、康正元年(一四五五年)、病によって亡くなりました。

その頃の本願寺は大変貧しい寺で、蓮如は四一歳になっておりましたが、未だ法主ではなく、父「存如」の片腕として、本願寺の家系を助けていたのでした。

「如了」との間に生まれた子どもは七人、そのうちの一人が「見玉」であり、母が他界した時には、貧しいがゆえ本願寺を離れ、喝食(かっしき・かつじき)として他の寺へと奉公に出ていました。

「如了」亡き後、蓮如の妻となったのが、「如了」の妹であり、日野家の「蓮佑」で、正式に本願寺に迎えられたのは、「存如」の意向であったと言われています。まだ幼く、奉公に出せないでいる姉の子どもたちの面倒を見、蓮如を支えていた「蓮佑」が病で命を引き取ったのは、本願寺を焼け出された五年後の、文明二年(一四七〇年)で、その最期を看取ったのが見玉でした。

蓮如本願寺第八代法主となり、いろいろな改革をして本願寺を活気づかせていく事になりましたが、その反面、比叡山など他の寺から疎まれる事態に陥り、寛正六年(一四六五年)、山門衆によって本願寺が焼打ちに会い、家族は流浪の身になりました。蓮如との間に生まれた子どもは十人いました。その後応仁の乱が始まり、乱世を生き抜き、蓮如を助け、幼い子ども達のために生きた「蓮佑」は、本願寺再興のために犠牲になった一人なのかもしれません。

 

下間法橋が帰った後、見玉のもとに弟「実如」とお勝がやって来ました。

「姉上、法橋は何を言いに来たのですか?」

「実如、父のもとへ、越前へ、行ってもらえないかということでした。」

「それはきっと、父上もお喜びなさると思います。私も一緒に参りとうございます。」

「私も父のそばへ行きたいと思っております。しかし、まだ幼い佑心をはじめ、蓮淳や蓮悟などを置いて、越前へは行けません。どのような国なのか、全くわからない土地へ行くのも、不安でいっぱいです。」

その時、そばにいたお勝が云いました。

「見玉様、私も蓮如さまのもとへ行きとうございます。さすれば、佑心さまや弟君も一緒に連れて、皆で参ったらどうでしょう?」

「お勝嬉しゅう思うぞ。お前が来てくれるのなら、私も知らぬ土地で暮らしていけるかもしれんがのぅ。」

「見玉様、皆で参りましょう。蓮如さまと一緒なら、どんな苦労でもきっと耐えられると、お勝は思うております。蓮如さまを信じて、行きましょう越前へ・・・」

そこへ見玉の兄、順如が一人の僧を連れてやって来ました。

「見玉、久しゅうのう」

「兄上、お久しぶりです。」

実如が云いました。

「兄上、そちらのお方は?」

「そうか、お前とは初めて会うかもしれんのう、越前から来た和田本覚寺の蓮光殿じゃ。」

「蓮光でございます、実如様。」

和田本覚寺蓮光、越前の国河口庄の庄官の地位にあり、その地域の荘園を取り仕切る役目を持っていました。当時の吉崎は、河口庄細呂宜郷にあり、領主は大和興福寺でした。その荘官として、蓮光は務めていましたので、朝廷ともつながりを持つ人だったのです。

また、和田本覚寺は、本願寺ゆかりのお寺で、もとは高田派に属していましたが、応長元年(一三一一年)本願寺三世覚如の時代に、本願寺と深い関係になったと言われています。「本覚寺」の寺号は宝徳年間に名乗り、本願寺七世存如から授かったのです。

「見玉様、お初にお目にかかります。本日は、是非見玉様に、越前の国へお越しいただきたく、お頼みに参りました。」

「蓮光殿、わざわざ近江までお出で頂き、ありがとうございます。先ほど下間法橋殿が来られ、お話をお聞きいたしました。父上のそばに使えよという言葉、本当に嬉しゅう思います。しかしながら、弟の事や不慣れな地での暮らしの不安もございまして、迷うておったところです。」

「いかにも左様でございましょう。雪深い地であり、本願寺とは無縁の方ばかり。それに、蓮如さまに対する不穏な動き、越前の国も同様でございます。しかしながらこの蓮光、蓮如さまの教えに陶酔しており、北陸に来ていただけるという事で、色々な方々と話し合っておりました。それゆえこの度、河口庄吉崎に坊舎が建てられ、そこを根城に教えを被って頂けることに喜びを感じており、もしもの事がないよう万全を期してきたつもりでございます。弟君たちをも是非越前へ参って頂き、蓮如さまのお傍にいて頂きたい、ただそれだけを願うものでございます。」

そして蓮光は、蓮如から学んだことの素晴らしさ、教えられた事を色々見玉達に話していきました。応仁の乱以降、この日本という国が争いの国になってしまった事、権力を持つものが、いつしか民百姓のありがたさを忘れ、毎日の暮らしに怯え、いつ死ぬかわからない人が、一番求めているものをも忘れてしまっている事を、切々と話していったのでした。そしてそれはまるで、蓮如が語り掛けてくるそのものだったのです。もちろんそれが、見玉達が吉崎へ移り住むための「安心と希望」を訴えている全てに聞こえていたのでした。

一方、越前を通り過ぎ、越中瑞泉寺から吉崎へ向かった蓮如一行は、加賀の国に入り、大聖寺川を下り、鹿島を望む「竹の浦」という地で船をおりました。

「ここは加賀の国と越前の国の境にありまして、応仁の乱以降、朝廷の手は全く届かない地でございます。海にも近く、たいへん暮らしやすい土地で、この地をまとめている豪族が、大家彦左衛門殿でございます。」

蓮誓がそう云いました。

「彦左衛門の屋敷があるという事じゃな。なるほどここなら海へ通じる場所であり、人をつなげるように、海と山をつなぐ、いい場所じゃ。」

蓮如がそう答えると、山手から人が降りてきました。

蓮如さま、よくご無事で・・・」

「久しゅうのぅ、順誓この度は世話になったのぅ」

蓮如を出迎えたこの男、法敬坊順誓と言い、加賀松任の生まれで、かつて存如蓮如が北陸行脚をした時、たまたま耳にした蓮如法話によって本願寺に帰依し、蓮如の弟子として貧しい本願寺を支えていたひとりでした。今回の蓮如の下向に際し、北陸一帯をくまなく調べ上げ、吉崎に足を下ろすための準備を行っていたのでした。

また、幼くして北陸の地に来た蓮如の三男蓮誓は、大家彦左衛門と同様に、この順誓の力も借りながら日々を暮し、蓮如が来るのを待っていたのでした。

蓮如さま、もう吉崎の小山に、坊舎を建てる用意が整っております。十日もかからず、宿坊は出来上がるはずでございます。」

「そうか、すまぬのぉ順誓。儂は本当にそなたと出会ったことを幸せじゃと感じておる。」

「何をおっしゃいます。順誓の方が蓮如さまから頂いた恩を、嬉しく思い生きているのでございます。」

乱世であり、また大飢饉によって多くの人が命を落とすこの世にあって、仏の教えを通じ、人と人が信頼しながら生きていく事の大切さを、蓮如と順誓は思っているのでした。この順誓だけでなく、これから吉崎を訪れる人々が、この蓮如の言葉に助けられていくのです。

時は文明三年(一四七一年)七月二七日、河口庄吉崎の小高い山「千歳山」に、鍬入れの音が鳴り響きました。それは平和を望む、吉崎御坊建立の音色なのです。