BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

超勝寺というお寺

f:id:yamamoto-awara:20191208100914j:plain

超勝寺にある「鹿の子の御影」


 

 自分のふるさと「あわら市吉崎」は、本願寺第8代法主蓮如」が北陸布教の拠点とした場所である。1471年の事である。

 福井県福井市にある超勝寺の開創は1392年で、本願寺第5代法主「綽如」の時である。(蓮如の曽祖父)つまり、「蓮如」が北陸での布教により、本願寺大教団が出来上がる80年前、越前の国に本願寺の流れが生まれているわけである。

(現在超勝寺には東超勝寺と西超勝寺がある)

 その当時の「寺」というものが、京の都ととの関係がどうなっていたかを考える事も必要で、荘園制を引く日本の中世の政治・社会を知るためにも「寺」の存在を知る事が必要な事だと思っていたので、いろいろ調べてみたことがある。

 「蓮如」が比叡山の山門衆に京都を追われ、この北陸の地に流れ着いた時、この藤島超勝寺や和田本覚寺などの助けを借りていたという。そしてこの北陸吉崎の地を拠点に布教活動を行っていった事で、越前の国に流れる真宗の息吹は、加賀の国のそれと供に大きくなり、一向一揆を起こし、加賀を支配するという『百姓の持ちたる国』を作り、信長をはじめ戦国大名を恐怖へと陥れていくのである。

 また、来年から始まるNHKの大河ドラマ麒麟がくる」では、信長を倒した「明智光秀」をモチーフとして使うのだが、その光秀は越前の国との関係も深く、幼い頃「念仏」というものを知り、当時の貧しい越前の国の様子を察していたと考えられている。

 当時越前を支配していた朝倉貞景をはじめとする朝倉一族と真宗門徒(一向宗)との戦いは壮絶を極め、多くの血が流されているが、その時代に信長が比叡山本願寺をはじめとする「寺」との戦いに、複雑な心境があったと自分は思っている。それゆえ本能寺の変に「信仰」というものを重く感じていた光秀に共鳴する一人でもある。

 この超勝寺をはじめとする真宗門徒達は、朝倉勢によって越前を追い出され、やむなく加賀に拠点に移す。そして自分たちの国「越前」に戻る機会を伺いながら、何10年という戦いが繰り広げられたのである。しかし、織田信長の出現により朝倉勢と一向一揆勢が手を結ぶこととなり、門信徒たちは越前に戻ることを許されるのだが、1570年、柴田勝家によって越前平定がなされ、ことごとく寺は焼かれていく。ここに信長によって、戦国時代の終焉を迎えるのである。

 豊臣秀吉の天下統一を経て、本願寺は新たな時代を迎えていく。恐るべき真宗門徒たちの結束力を弱めるために、1600年の関ヶ原の戦い以降、本願寺徳川家康の戦略によって東西に分断された。それ以後、江戸幕府は260年にわたる長い統治を行っていくのであるが、関ヶ原以前の政治と大きく違う点は、政治と宗教を完全に切り離したところに始まり、その最たるものが本願寺の分断を挙げられる。この歴史ある超勝寺も東西に分断されてしまうが、福井藩の多大な擁護によって寺の存続を成し遂げていく。特に西超勝寺は、「御前水」として藩直轄の御上水の一部を寺内に引き入れる事を特認されるほどであった。

 

 さて、この超勝寺と「蓮如」の繋がりは本当に深い。蓮如の第19子の「蓮周」が嫁いだ事でもあげられるが、それより以前、「蓮如」が布教で成果をあげる一因になった「御文章」(真宗大谷派では御文)での一節があげられる。「御文章」とは、浄土真宗の教義や「蓮如」の思いをしたため、各村々へ送っていくもので、現在200通以上存在する。

 これは今では言えば「広報紙」と呼べるもので、500年くらい前に蓮如によって書かれたもので、識字率の低かった時代、字を読める長老や村長、坊主達にそれを読まさせて、信徒を増やし「講」と呼ばれるサークルを築いていく。それが「村」の形成に繋がり結束力を高めていく要因になっている。

 その御文章のいくつかに、「超勝寺にて」と書かれてあるものがある。「蓮如」が超勝寺で書いたものである。その一つ、「5帖御文」第1帖12通には、

 「そもそも、年来超勝寺の門徒において、仏法の次第もってのほか相違せり。そのいわれは、まず、座衆とてこれあり。いかにもその座上にありて、さかずきなんどまでもひとよりさきにのみ、座中のひとにも、またそのほかたれたれにも、いみじくおもわれんずるが、まことに仏法の肝要たるように、心中にこころえおきたり。これさらに往生極楽のためにあらず。ただ世間の名聞ににたり。(中略)あなかしこ、あなかしこ。文明五年九月下旬」

 

 この御文章は「信心の沙汰」の教えとされ有名なものだが、超勝寺での会合で酒宴が催され、上座に上がりたいという事で争う姿を見て書かれたものである。会合の在り方、それに参加する者の意識について書かれたのである。「蓮如」は「平座説法」と言って、決して高座には上がらず、ひざを突き合わせて教えを問う人である。大切な会合であるのに、ただ酒を飲むだけの場としてまい、真宗の教えについて自分の意見も言わず、教えを知っているかどうかで自分の座る位置を上にしたいがために争う人の愚かさを説いているのである。

 この教えこそ、人は皆平等であり優劣をつける事はできず、学ぶ姿勢が大事であるいうものなのである。それ以後、超勝寺ではこのような事は行われなくなり、益々門徒宗の信心が強くなっていった。現代にも通じるこの教えを考えると、いまだに脈々と流れる「蓮如」の存在感を感じる。

 また「蓮如」は、土着宗教を排除するような教化は行ってはいない。特に白山信仰の熱い土地柄の北陸地方では、それとの共存を教え諭している。それを表しているのも、超勝寺で書かれた「5帖御文」第1帖14通の「白山・立山」というものである。当時新興宗教である「浄土真宗」は、旧来の宗教と何ら違いがあるものではなく、各村々にある神社仏閣を信ずる人とも、目的は同じであるという意味の御文章である。つまり、古いものがダメだとか、新しいものが良いとかいうレベルではなく、それぞれの奥の深さを考えていけば、みんな同じ基に繋がるという考え方だ。この辺が「蓮如」の現実性が現れ、多くの民衆に慕われた要因であろう。

  「蓮如」を調べれば調べるほど、現代の日本に欠けたものを知る事が出来る。よく考えれば、中世であれ現代であれ、同じ人間が作る世の中なのであるから、政治に不信感を抱きながら、「仕方ないか・・・」とか「自分には関係ない…」と思って生きている自分には、心に刺さるものがあってしかるべきなのかもしれない。

 

 武士の時代に終焉を告げた明治維新以後、日本古来の歴史的文化財の海外流出を食い止めるべく活動し、近代日本の美術指導者である「岡倉天心」のルーツもまた福井県にあり、その岡倉家の菩提寺福井市浄土真宗本願寺派超勝寺(西超勝寺)であるという。

 福井藩の下級武士だった岡倉天心の父には、真宗の教えが染みついていたのではないかと感じることができ、明治維新という時代の変化の中で、日本の文化を大切にせず欧米化していく中で、必死に旧来の日本文化の良さ、東洋文化の良さを欧米人に問う岡倉天心の姿が、ここで被ってくるのである。西洋人がすぐれているのではない、日本人にも優れたものがあり、人間の優劣をつける事ではないという天心の源流は、超勝寺での教えから来るものではないかと思っている。そしてこれは、日本人である事の誇りと歴史を大切にする気構えが、現代に通じるものだと自分は考える。江戸時代以前から流れる北陸の歴史と文化には、日本人の忘れてしまった「心の文化」が、西超勝寺をはじめ、各地に点在しているのであると考えられるだけに、浄土真宗のみならず、日本の歴史を掘り起こすためにも「仏教」によって創られた日本の歴史を紐解き、現代へ発信していく事が必要なのではないだろうか。