BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき~「吉崎建立ものがたり」~【その17】

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吉崎御山古図


見玉尼は蓮如の次女です。蓮如の最初の妻「如了」の子で、蓮如法主になったのは四十三歳、彼女が十歳の時でした。しかし、その頃彼女はすでに本願寺にはいなかったのです。

当時の本願寺は大変貧しいお寺であり、長男である彼女の兄「順如」以外は、幼くして口減らしのために他のお寺に預けられていたのでした。見玉もまた、七歳の時禅宗の寺に「喝食(かつじき・かっしき)」として奉公に出ていたのです。その後、蓮如の姉「見秀尼」のいる「浄土宗鎮西派浄華院吉田摂受庵」に移りましたが、本願寺が焼打ちに遭ったあとは、蓮如の二番目の妻で「如了」の妹である「蓮佑」と幼い兄弟、そして仲が良かったけれど離れ離れの成っていた「如慶」も「摂受庵」に移り住むことになったのでした。

しかし、応仁の乱が始まり、京の町が焼け野原と化した後は、皆とともに本願寺ゆかりの人たちの下を、転々としていたのです。

その間、叔母でもある蓮如の二番目の妻「蓮佑」を、そして妹である「妙意」を、また一番仲の良かった姉「如慶」を、次々と見送る役目となったのでした。

その時代、生きていく事がやっとだった時代に、家族がバラバラとなり、次々と亡くなっていく姿を見ていた見玉の心は、一体どのようなものだったのでしょうか?

今ここに、見知らぬ北陸の地へ、父を追い求めてやって来た「見玉」とって、父と暮らせることが、幸せの始まりだったのかもしれません。

蓮如が、越前と加賀の国境にある「吉崎」という地に坊舎を建ててからというもの、吉崎を訪れる人々が後を絶たないようになりました。七、八軒の漁師町は、見る見るうちに膨れ上がり、浜には毎日「市」が立つようになっていったのでした。

それによって財を得たものは、「蓮如さまのおかげ」と称し、布施という形で蓮如の下へ届け、蓮如はそれをまた民に戻すべく、色々な仕事を貧しいもののためにさし与えたのでした。そしてまたそれが北陸に住む貧しい者たちにとって新たな恩恵となり、「吉崎」の地は栄えていくのでした。

朝、昼、晩と蓮如聴聞を受けようと寺の境内は人であふれる中、蓮如は弟子たちと一緒にその対応に追われていく事になりましたが、嫌な顔一つ出さず、民百姓との会話を楽しみながら、蓮如は日々を過ごして行きました。

「お父様、先ほどの聴聞では、皆わかりやすうて楽しかったという声を耳にしましたが、どのようなお話でしたのですか?」

一休みしていた蓮如のそばに、見玉尼とお勝が茶を持ってやってきました。

「見玉か、今日はのぅ御開山様(親鸞聖人)のお言葉を儂なりに話してみたのじゃ、お勝も聞いておったのじゃろうが、どうじゃった?」

見玉尼のそばでお勝は、「抜苦与楽のお話でございますか。」

「そうじゃ、そなたはさすがに良く学んでおるのう、嬉しゅう思うぞ」

蓮如が笑みを浮かべ、嬉しそうに話しだしました。「人というのは生きていく上で、たくさんの苦がある。四苦八苦などと言うが、そのために仏法があるんじゃ。人から苦を厭い、楽を与えよとな。」

見玉とお勝は蓮如の話に聞き入っていきました。

「人が生きて行く道は、『苦しみの花咲く木』とも言われておる。一つの苦しみから脱するために枝を切って楽になったとしても、また次の枝から苦しみの花が咲くんじゃ。だからその根を切ってやらねば苦は断ち切れんのじゃな。では見玉、そのためにはどうするのじゃ?」

阿弥陀様の御慈悲にすがる事でございます。」

「そうじゃ、それをお勝、何と云うか知っておるのぅ」

阿弥陀様の本願、でございましょうか・・・」

「そうじゃそうじゃ、そのために聴聞が大切なんじゃ・・・。」

楽しそうに話している三人の下に、坊官で本願寺の重鎮である下間法橋と心源がやって来ました。

「台下楽しそうでございますなぁ」

笑顔の法橋に、「おう法橋か、乗専はなんと云うておった?」

「心源が望んでおる事ゆえ、蓮如さまのそばに置いてやってほしいとの事です。」

「そうかそうか、それで良いのじゃな心源?」

「ありがたいお言葉でございました。これからもよろしくお願いいたします。」

越前に来た蓮如は、不慣れな地のために道案内として同行した心源を、本当の弟子として受け入れるため、法橋を和田本覚寺に行かせ、本覚寺の蓮光を通じ、心源を真宗の道へ誘い込んだ乗専の許しを得たのでした。

「ではのぅ心源、今日より法橋の下に預けるゆえ、名を蓮崇と名乗るがよい。」

「下間蓮崇でございますか、かたじけのぅございます。」

下間蓮崇と名乗る事となった心源は、吉崎御坊では重官となって蓮如を支えて行く事になるのでした。蓮如は蓮崇を自分の右腕とし、門徒や民百姓との橋渡し役として働いていきます。蓮如の教えに陶酔し、蓮如もまた蓮崇の働きを信じ切っていた二人の仲は、この三年後に壊れていく事になるのですが、この時の二人には全く考える余地はありませんでした。

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小女子「吉崎のこうなご」(むかしばなし)


ある日のこと、浜坂浦の漁師「喜八」が蓮如の下を訪れます。

蓮如さまぁ、近頃さっぱり魚が取れねぇんでございます。何とかお力をお貸しできねぇですかのぉ。」

その時蓮如は、

「お前たち猟師はのぉ、魚を百匹捕ったら、全て食べてしまうじゃろう。それじゃぁ魚もたまったもんじゃねぇし、魚が増える事はないじゃろうて。じゃからのぉ、二匹だけは離してやってはくれまいかのぉ。生きているのは儂ら人も魚も同じじゃからのぉ、皆、阿弥陀様のおかげで生きておるんじゃからのぉ、忘れんでおくれよ。」

現代では当たり前の事だが、限りある資源の大切さを、蓮如は仏法として教えていくのでした。

この後この話は「吉崎の小女子」伝説として語り継がれていくわけですが、蓮如法話が人々に広がりを見せた要因の一つとして、身近な動物をも題材として仏法に取り込み、判り易く話していくという事があげられるのです。

それゆえ、字もろくに読めなかった民百姓が、蓮如の教えに耳を傾け、念仏を唱え、蓮如の力になろうとする人々が増えていったのでした。

そんな中困った事が起こります。

「台下、蓮綱様がお見えです。」

蓮如の下へ竜玄が伝えに来ました。

蓮綱は蓮如の三男で、加賀波佐谷に松岡寺という寺を建立し、その地で蓮如の教えを広めていました。

「父上お久しぶりです。吉崎に久々に参ったのですが、何ともすごい人で驚きました。」

「おぉ蓮綱久しゅうのぉ。波佐谷も信心決定のため、大勢の民で溢れかえっているそうな、嬉しゅう思うぞ」

「ははぁっ、ありがとうございます。しかしですが、ちといざこざが起こりまして、是非父上のお力をお貸しいたしたくて相談に参ったのでございます。」

そう云うと蓮綱は、加賀で起こっている話を伝えたのです。

元々加賀の国には、白山信仰を掌る神社仏閣があったのですが、先祖伝来の信仰を疎んじ、蓮如の教えに帰依するものが徐々に増えて行き、各地で対立が起こっていたのでした。

この争いはやがて北陸一円に広がっていく事となります。応仁の乱以降、将軍家の権力が弱まり、また各地で荘園制度が壊れて行くにつれ、その制度を守ろうとする神社や仏閣の多くが、広がっていく蓮如の教えに対し恐怖を抱いていたのです。

一向一揆という浄土真宗門徒達の造反もまた、守護や地頭という旧来の日本の有り方をも変えていく事になり、世の戦乱の広まりとともに日本中に広がっていく事になるのです。

他宗との諍いが広まる中、文明五年の九月に、蓮如はこの様な御文(御文章)を各地に送っています。

(原文)「抑(そもそも)、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まず越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに『唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう)とこそ、これをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗(ほう)ずべからざるものなり。また聖道諸宗の学者達も、あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。

そのいはれは、経・釈ともにその文これおほしといへども、まず八宗の祖師龍樹菩薩の『智論』(大智度論)にふかくこれをいましめられたり。その文にいはく、『自法愛染故毀呰他人法 雖持戒行人不免地獄苦』といへり。かくのごとくの論判分明なるときは、いづれも仏説なり、あやまりて謗ずることなかれ。それみな一宗一宗のことなれば、わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。ことさら当流のなかにおいて、なにの分別もなきもの、他宗をそしること勿体なき次第なり。あひかまへてあひかまへて、一所の坊主分たるひとは、この成敗をかたくいたすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」(五帖御文第一帖第十四通)

この時代に蓮如は、本願寺門徒が他宗を謗る事があってはならないと、「無量寿経」の文を引いて厳しく戒め、また他宗の人々も念仏者を謗ってはならないと、いわゆる八宗の祖と言われる龍樹の「大智度論」の文を引いて述べているのです。

蓮如の吉崎進出は、当然のごとく既存の寺院との間に摩擦を生じ、互いに相手の法を謗り合うという事が行われていました。

本願寺門徒に限らず、他宗の教えを謗ることは、その謗った相手の教えもまた仏法に基づいているゆえ、仏法を非難する事になります。この仏法に対する非難は、仏教の存在そのものを根底から揺るがすことになるのですから、最も重い罪とされるのです。それにもかかわらず、自分の信ずる法に愛着して、それと異なる、他人の信ずる法を謗るという行為は、自己に執着する私たちだれもが犯す過ちであるので、蓮如は強くこれを戒めたのでした。

白山がその名のとおり雪で白くなりはじめる頃、蓮如は蓮綱に連れだって加賀波佐谷へ向かいました。

「父上、お気をつけて」そう話す見玉の横にはお勝が、深々と頭を下げて見送りました。

吉崎に根をおろし、北陸布教へと歩き回る蓮如。五十七歳を過ぎて今まだなお、蓮如の布教活動は休む間もなかったのです。

そしてその心の奥底には、全ての民が幸せに暮らせることを、ただただ祈るだけなのでした。

文明三年(一四七一年)、京都から逃れてきた蓮如が、越前と加賀の国境にある「吉崎」という地に坊舎を建て、初めての冬が訪れました。

多くの参詣客や弟子たちの対応に追われながらも、幸せな時間は過ぎて行きます。

いつものように庭に出て、海を見ながら物思いに耽っているとお勝がそばに寄ってきました。

「お寒ぅございませんか?」

「お勝か、風は冷たいがのぅ、これも生きているという証じゃ。都では見られん景色がここにあるように、儂にもいろいろ考えねばならん事があってのぅ、寒いなど感じる事も忘れておったわ、はっはっはっ・・・」

笑いながらお勝に答えました。

坊舎の庭から見る景色が、蓮如はたまらなく好きだったのです。

湖にほんのり浮かぶ「鹿島」、そのむこうに日本海が臨む姿には、蓮如の心を落ち着かせる何かがあるのでした。

貧しく小さな「本願寺」という寺に生まれ、妾である母と六歳の時に別れる事になり、新しい母の仕打ちに虐げられながらも成長してきた蓮如には、苦労という意味も解らず、生きているという現実のありがたさだけが、身に沁みついているのでした。

「ところでお勝、この地での暮らしには慣れたのかのぅ。」

「もちろんでございます、滋賀の海とは違い、北風は寒ぅございますが、皆優しい方ばかりで、毎日が楽しくて仕方がないのです。笑いあって過ごすということが、こんなにも楽しいと、生まれて初めて知り得たのですから。」

お勝もまた、苦労という意味も解らず成長した女でした。当時の日本では、奈良時代からの律令制度のより、民衆を良民と賤民(せんみん)とに分けられていました。その賤民として生まれたお勝は早くに父を亡くし、母と八つ違いの姉の三人で、日々の暮らしだけを考える毎日を過ごして育ちました。

そんな彼女が、本願寺の焼打ち(寛正の法難)から、離れ離れに暮らしていた蓮如の家族を知るきっかけとなったのが「応仁の乱」でした。京の町を焼け野原と化したこの戦いで、幼なじみの「見玉」を頼って身を寄せた寺で、蓮如と出会い、家族の温かさを知り得た事が、その時の彼女には、人生の全てだったのです。

北陸の冬は長い。

どんよりとした空、冷たく肌に突き刺さるような風、暗雲立ち込める中で響く雷の音、そして空から舞い降りてくる白い光を放つ雪。その雪の美しさは、時として白い悪魔となり人々の暮らしを悩ませる。その全てを、蓮如たちは新鮮に受け止めていた事でしょう。

庭にうっすらと白い雪が広がったある日の朝、蓮如はいつものように海を眺めていました。

「台下(蓮如のこと)、風邪をひきますよ、中へお入りください。」

「竜玄か、心配無用じゃ。ここへ座ってみるがよい。」

そう云って、石に座る蓮如の横に座らせるのでした。

「どうじゃ、温く感じるじゃろう。」

「はい確かにそう云われると・・・」

「先だって、彦左衛門が石工を連れて来てのぅ、儂がいつもこの石に座っているのを見て、座りやすく平らに削ってくれたんじゃ。すると、座り心地はもちろん良くなったんじゃが、妙に温く感じるようになったんじゃ。」

「それは気のせいでは・・・」

「そうかもしれんが、その気持ちが嬉しゅうてのぉ。」

蓮如は笑顔で竜玄に話しました。

慶聞坊竜玄、金森(今の滋賀県守山市金森町)に住む道西の甥で、蓮如の人柄に惚れ、自分の代わりに蓮如のそばに居てほしいという気持ちから、蓮如にすべてを預け、そして竜玄もまた、蓮如とは苦楽を共にし、心酔していったのでした。

「竜玄、ところで道西殿はたっしゃか?」

「はい文によると元気にしておるようです。もう七十を超えたというのに、田畑を耕し続けております。」

「そうかそうか、道西殿の事じゃ、荒れた田畑を見るのが嫌なんじゃろうのぅ。天地全てのものから、儂らが生かされているという事を、本当に解っておるからのぅ。儂も見習わねばのぅ。」

「台下のお顔を見たくて、仕方がないみたいです。早く京へお戻りにならねばなりませんねぇ。」

「そうじゃのぅ、三井寺に預けた御本尊も気になるしのぅ。本願寺の再興を願い、いろいろ動いてはいるのじゃが・・・」

「順如様も大変でございます。」

順如は蓮如の長子であり、寛正の法難以降、実質本願寺の寺務を掌っていたのでした。幕府をはじめ、有力大名とのパイプ役をも務めていて、蓮如が北陸の地へ下がったのは、自身の首に賞金が掛けられるほど敵が多くなり、その矛先が本願寺ではなく自分自身にあると、世間の目を「北陸にいる蓮如」に向けさせる為だったので、本願寺の再興を願い、順如は蓮如と連絡を取りながら動いていたのでした。

国指定史跡「吉崎御坊跡」には、今もこの「お腰掛けの石」が残されています。文明六年(一四七四年)に描かれたとされる「吉崎御坊絵図」には、蓮如と思われる僧がこの石に座り、弟子二人とともに会話をしている姿があります。そして蓮如は、この石に座り、多くの民百姓のために法話をし、多くの和歌を詠んだとされています。

『鹿島山 とまり烏の声聞けば 今日も暮れると告げわたるなり』

この蓮如の歌を頭に描き、光陰のごとく過ぎ去る毎日に感謝をし、明日への活力を産み得た場所が、正にこの石の上からだったのではないでしょうか。

「吉崎七不思議」のひとつに、この「お腰掛けの石」の逸話があります。

『どんなに多く雪が降ってもこの石の上には雪が積もらず、また、この石に雪が積もったとしても、その雪は不思議なくらい早く溶けてしまい、雪深い時でもこの石をいつも見つけられる。この石には、蓮如さんの温かさが染み着いている。』と・・・