リセットライフ
学校を卒業し、社会人になって結婚し、子供ができ、
子育てに一生懸命で毎日を過ごしてきた。
子どもたちもすくすくと成長し、みんな旅立っていった。
「余生」そう言える時期が来た。
自分の人生、あと何年あるのだろう?
病院のお世話にならず、まだ働ける。
あくせく働いたあのころとは違うけれど、
体が動くうちは働いて毎日を過ごしていきたい。
貯金もないし財産もないから、それは仕方がないのだろう。
でも、まだ生きていたい・・・
全てをリセットして、明日から新しい人生のスタートをきる。
好きな歌にこんなものがある。
♫父は今年二月で六十五
顔のシワはふえてゆくばかり
仕事に追われ このごろやっと
ゆとりができた
父の湯飲み茶碗は 欠けている
それにお茶を入れて 飲んでいる
湯飲みに写る
自分の顔を じっと見ている♬
自分もその年になり、子供たちの世話になっていきたくないし
施設に入って楽に余生を過ごすこともできないし
まだ、明日がある
ラブレターが書けない・・・
孫ももうすぐ3歳になる、そう考えただけで、年をとった自分に驚いてしまう。
中学の時の初恋は、もうすご~く昔のこと。
あ~そう言えば・・・などと思い出すと、笑いばかりが出て来てしまう。
いろんなことがあったな・・・
そして、改めて「年は取りたくないな」と呟いても、
年齢だけはみんな平等であると再確認する。
でも 青春の思い出はあの時のままだが
年老いた姿を見て
幻滅したり 幻滅させたり
会っていなかった時間の分だけ
妄想と理想は 考えない方がいい
初めて渡したラブレターの彼女。
今どうしているんだろう・・・
♪君の笑顔を見ていると、胸が苦しくなるんだよ
こんな気持ちなんて 何も知らないだろうけど
今日も僕は願ってる 瞳を合わせて笑えるように・・・♬
FUNKY MONKEY BABYsの「ラブレター」の歌詞のような気持に
も一度戻ってみたい
そうなんだよね、も一度若くなりたい。
恋でもするか・・・
今日は七五三・・・って関係ないけど神社に行ってきた。
令和1年1115日、なんとなく区切りになる日だなぁと思って、
世話になっていた弁護士先生のところへ。
5年にわたりお世話になり、弁護士料も支払いを待ってくれてたりしたので、御礼のご挨拶へ行った。
それから、近くの神社へ行き頭を下げる。
「あ~今日は七五三だ・・・」と思いついたが別に子どもがいる訳でもなく、
なんとなくお参りに行った。
そしたら若い時によく言った町へ行きたくなって、そこの喫茶店でコーヒーを飲んだ。
昔のフレーズを想い出し、口ずさむ(笑)
喫茶店でほほづえついて♬
誰か待つよなふりをして♪~
タバコの煙目にしみただけ
こぼれる涙ぬぐおうともせず
いなか者とは悟られぬ様
3杯目目のコーヒー♬(^^♪
涙なんかは出なかったけど、無性に若い時が懐かしかった。
「若いっていいよな~」
何かしら今日はセンチメンタルに・・・
親父とおふくろのお墓参りに行き、Ipadで親父の十八番の歌を流した。
大好きな居酒屋へ行き、酒も飲まず美味しいものを食べて帰路についた。
親父もお刺身が大好きだった。
毎晩のようにおふくろが魚をさばき、夕飯はお刺身から・・・
そんな生活が懐かしい・・・
ヤフーとLINEの経営統合・・・
ヤフーとLINEの経営統合というニュースが飛び込んできた。
以前より噂はあったが、やはりなるようになったか・・・
LINEは、日本国内だけで8000万人を超える利用者がいるという。
そう言う自分も利用者の一人である。
LINEを使うようになって、電話もLINE電話になってきた。
電話料金が掛からないという利点だけだったのだが、以前に比べて音声も良くなって来ていると感じているからである。
消費税の引き上げから、PayPayも使うようになって、Yahooとのなんとなく親しく思えている。
それは、「Yahoo!ショッピングでもスマホ決済サービス「PayPay」が使える! もらえる!」ということからだ。
田舎に住んでいる自分のところでは、まだまだ高齢者には普及されてはいないが、今後益々スマホの普及とともにこのような決済サービスは広がっていくように思える。
Edyやクレジットカード決済も便利ではあるが、あまり広がりを見せていない分、高齢者に対してのサービスも含め、LINEは大きく広がっていくだろう。
なんせ、時代は動いているのだから・・・
日本人の助け合い精神の基本は・・・
日本は素晴らしい国だと感じている。
他の国に住んだわけではないのだけれど、あの第二次世界大戦以降の復興、関西大震災、東北大震災等々、本当に度重なる災害に耐え忍んで生き抜いていく精神こそが、日本だと感じているのである。
無論、政治が優れているとは思っていない。だた日本国民の精神というものが、自分は好きであるという事なのだ。個人個人を取れば、すべ他の人を好きなわけじゃない。
当然価値観の違いがあるから、それは仕方ない事だと思う。
でも、日本人てみんなが固まって行動すると凄いと思う。
今の時代、「自分さえよければ…」という人が多くなっている。自己利益を追及している人ばかりだという人もいるが、自分は日本人ほど「助け合う」という事を大切に考える人種はいないのではないかと思っているのである。
Give&Take、小さい時から慣れ浸しんだこの基本的な行動に、疑問を持つようになったのは何時の頃だったか・・・
「公平な取引」っていうことが、実は本当に難しい・・・
生まれながらにして「平等」という考えに疑問を持ったころだったかもしれないが、
それはあくまで理想である・・・とそう思うようになった時、人に対する「不信感」も生まれ、騙され続けてきたから、そう考えるようになった時、「苦しい時こそ助け合うことの必要性」が理解できるようになったと思っている。
弱者をとことんいじめるのではなく、弱者に対して優しく接する事が出来る事の大切さも学んでいるような気がする。
日本人は考え方が違っても、やはり助け合うという根本が出来上がっていると、そう感じている毎日である。
報恩講
親鸞聖人のご命日である11月28日が近づいてくるたび、各寺院では御正忌報恩講が行われています。
親鸞聖人の教えを広めるべく、たくさんの宗派があることは周知のごとくなのですが、いわゆる「真宗十派」と本山をあげてみますと、
⑩真宗山元派 證誠寺
となります。http://wp1.fuchu.jp/~sat/fig36.htm
素人目に考えても、ややこしいなぁ・・・と思ってしまうところです。
そして、本山があって末寺があるのですから、親鸞聖人の流れを汲むお寺が、
本当にたくさんあるわけです。
日程をずらして、そのお寺が「報恩講」をするわけですから、11月末に向けて、
どこかのお寺で「報恩講」を行っているような気がします。
何となく自分からするとこの「報恩講」、お寺の稼ぎ時という風にしか感じていません。
本来なら、「報恩講」の意義である『救主阿弥陀如来並びに宗祖親鸞に対する報恩謝徳』のために営まれるべきだと感じています。
門信徒にとって大切な行事であるという認識が、本当に薄くなっているような気がしています。
親や先祖に対して「恩」を感じることも大切な事なのではないかとも感じています。
単なる宗教行事と捉えないで、今生きている事に感謝する気持ちを持って行きたいと、いつも思っています。
わたしの蓮如さん
「蓮如上人、吉崎に~お着~き~」、幾度となく聞いたこのフレーズ。吉崎に生まれ育った自分には、春を告げる蓮如忌の訪れであり、身近に蓮如さんを思い起させてくれる貴重な10日間の始まりです。毎年4月17日、京都の本山に安置されている蓮如さんの御影を吉崎までお運びになるという「蓮如上人御影道中」は令和元年で346回目となりました。
数々のドラマと多くの方々のご尽力によって、この歴史は続き、蓮如さんの息吹が今なお感じられる貴重な行事です。御影が到着になる4月23日の夜には、過疎化と高齢化に悩む吉崎という町が、年に一番の盛り上がりを見せ、「南無阿弥陀仏」というお念仏の声が今なお吉崎中に響き渡ります。
蓮如さんが吉崎に御坊を開かれて550年が過ぎようとしています。北陸を布教の地として選ばれ、多くの門信徒の心を掴まれた蓮如さんは、「伝道者」として日本史上最高の方だったと言っても過言ではないと思います。
御開山様である親鸞聖人が「求道者」として「浄土真宗」を確立されましたが、蓮如さんがこの世にお生まれにならなければ、浄土真宗教団は今のような大きなものにはならなかったと感じています。
それゆえ蓮如さんは中興の祖と呼ばれているのですが、蓮如さんの御功績が以前のように評価されなくなったと感じています。
戦国時代の三英傑、信長・秀吉・家康を一番苦しめた「一向一揆」ですが、その内実には痛ましい歴史がありました。
しかしながら、感謝やありがたさいう言葉をもって、人々を眠らせるようなことを真宗の教えとはせず、「このままでいい」という所に座り込ませない種を撒いたのが、誰であろう蓮如さんであったはずです。
今一度蓮如さんの志しに思いを馳し、再び吉崎からお念仏の声が大きくなることを望んでいる自分です。
蓮如さんは4年3か月しか吉崎にお出でになりませんでした。しかしこの吉崎の地には、語り尽くせぬ蓮如伝説と多くの逸話があることを、再確認する事が必要だと思っています。
昭和50年に国の指定史跡となった「吉崎御坊跡」。そこに吉崎の象徴というべき高村光雲作の蓮如像があり、そして、昭和9年に完成したこの銅像をながめるように、ひっそりと立つお墓があります。
蓮如さんの第4子、次女となる「見玉尼」のお墓です。貧しかった本願寺の口減らしのため、わずか7歳で他宗の寺に喝食(かつじき)として出され、本願寺が焼き討ちにあった後、応仁の乱によって京の町が焼け野原となった最中、共に生活をしていた姉と叔母が病で亡くなり、蓮如さんの後を追って北陸の地に足を運ばれました。
しかしその時すでに、彼女の胸には病が襲ってきており、94日間という隔離生活ののち吉崎で息を引き取りました。
若干26歳という若さでの旅立ちだったのです。
その時の様子を蓮如さんが御文(御文章)に残されています。
多くの門徒衆に見送られる中での一節ですが、「或人の不思議の夢想・・・」として綴っています。
『(前略)8月15日荼毘の夜、あかつきがたに感ぜし事あり。その夢にいはく、所詮葬送の庭において、むなしきけぶり〔煙〕となりし白骨のなかより三本の青蓮華出生す。その花のなかより一寸ばかりの金(こがね)ほとけひかりをはなちていづとみる。 さて、いくほどもなくして蝶となりてうせけるとみるほどに、やがて夢さめおわりぬ。
これすなわち、見玉といえる名の真如法性の玉をあらわせるすがたなり。蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて、法性のそら極楽世界涅槃のみやこへまひりぬるといえるこゝろなりと、不審もなくしられたり。これによりて、この当山に葬所をかの亡者往生せしによりてひらけしことも、不思議なり。ことに茶毘のまへには雨ふりつれども、そのときはそらはれて月もさやけくして、紫雲たなびき月輪にうつりて五色なりと、ひとあまねくこれをみる。まことにこの亡者にをいて往生極楽をとげし一定の瑞相をひとにしらしむるかとおぼへはんべるものなり。(後略)あなかしこあなかしこ。』
白骨から蓮の花が咲き、その中から小さな金佛が光を放ち、蝶となって空高く舞い上がっていく様子、荼毘に際し降っていた雨も上がり、月が顔を出しその灯りを見上げる様子、文人としても魅力ある蓮如さんを表わしてくれている素敵な御文です。このような蓮如さんだからこそ、多くの門信徒が生まれ、浄土真宗が大教団へと育つに至った事なのではないでしょうか。
昭和38年、この見玉尼をモチーフとして作家の真継伸彦が「鮫」という小説を残しています。越前三国生まれの非人が京へ上り、極悪非道の荒くれ者となった時に見玉尼と出会い、念仏を知り、浄土真宗に帰依していく様を綴った歴史小説。
その作品は文藝賞を受賞し、翌年、中村錦之助主演で見玉尼役を三田佳子が演じ東映で映画化されました。
このお話しもまた「方便」かもしれませんが、見玉尼のお墓で合掌するたび、自然の刹那というものを蓮如さんが教えて下さっているといつも感じています。