BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

お寺では聞けない蓮如さんのお話 その20

令和5年(2023年)4月22日、道の駅「あわら」完成セレモニー

 春を待つ木々と一緒に、雪解け水で嵩も増えた北潟湖には、慌ただしい鴨の動きに心が癒されています。どんなに寒かった冬でも、必ず来る「春」に新たな期待を寄せて、北陸の季節は流れているのです。「蓮如の里『吉崎』」は、今、道の駅の完成に拍車がかかっています。
 工事を見ているうちに、御文(御文章)の一文を思い出していました。
 「ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり。」
 五帖御文『第二帖第五通』
 文明六年二月十六日に書かれたこの「御文」は、蓮如さんが吉崎に来られてから、見る見るうちに家が建てられ、老若男女が大勢訪れるようになった時のことです。真宗の基本である「『信心』についての一通りを心得ている」という顔つきで集まる人々への「注意書き」だったと自分は思っています。つまり、親鸞聖人の『御教え』も、「ああそのことか、それならよく知っている」という風に思い集まってくるのは、『いかがなものか』という事です。この御文を以前聞いたときに解ったことは、『信心を得る』という事が、いかに難しいのかという事でした。
 観光ガイドを始めてわかったことですが、観光目的で「吉崎」に来られる方の多くは、日常まったく法話に触れることがなく、「蓮如さん」も知らず、「信心」の意味も解らない人が多いという事でした。「お寺は見世物小屋じゃない」とおっしゃった、あるお寺の副住職のお言葉を、今思い返してこの御文を再度ゆっくり読み返しています。
 全文を掲載しておきます。ご自分で読んで語訳してみてください。親鸞聖人と蓮如さんのお気持ちが、きっと解って下さることと思っています。
 『第二帖第五通』は「数珠」という副題がついている場合が多いです。
  そもそも、この三四年のあひだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。そのゆゑは、珠数の一連をももつひとなし。さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人(親鸞)、まつたく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。それにはさはりあるべからず。まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。これによりて真実信心を獲得したる人は、かならず口にも出し、また色にもそのすがたはみゆるなり。しかれば当時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。
それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、身にはおぼえざるがゆゑに、いつも信心のひととほりをば、われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり。この分にては自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。かくのごときの心中にては今度の報土往生も不可なり。あらあら勝事や。ただふかくこころをしづめて思案あるべし。まことにもつて人間は出づる息は入るをまたぬならひなり。あひかまへて油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[文明六、二月十六日早朝ににはかに筆を染めをはりぬのみ。]