愛すべき我がふるさと・・・
私の故郷は、浄土真宗本願寺派第8代法主「蓮如」が道場を建てた地で「吉崎御坊」と呼ばれている。古くから「吉崎参り」として賑わい門前町として名高い。
「蓮如」がこの地に坊舎を建てたのは、戦国時代の始まりとされる応仁の乱が起こった4年後、1471年(文明3年)の事である。それ以後、北陸に真宗門徒が増え続け、「本願寺大教団」が出来上がり、後の加賀一向一揆で「百姓の持ちたる国」として約100年間加賀国を統治する原動力となっている。日本の歴史上、同一宗教で政治を司ったのは、この地が初めてで他に類を見ないだろう。
1499年(明応8年)3月25日に「蓮如」が他界し、25日講が始まり、この吉崎で「蓮如忌」として法要が営まれていくのだが、最初は「蓮如」の残した絵像名号を松の木に掲げて行っていた。この松の木は、「蓮如」が仏壇の松の小枝を3本植えると、根が付き大きくなったとされるもので、今でも国指定史跡「吉崎御坊跡」(通称吉崎御山)に「お手植えの松」として枯れ木が残っている。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康によって長い戦乱の世に終止符が打たれ、「本願寺大教団」はその力を弱めるために東西の二つに分かれさせられてしまう。江戸幕府の開かれる1年前、1602年(慶長7年)のことである。
そうして日本が泰平になった江戸時代中期に、東本願寺で「蓮如自画像」(御影)を京都から吉崎まで運ぶ「御影道中」が始まり、新たな「蓮如忌」が行われるようになり、現在に至っている。
「御影道中」は平成25年の今年で340回目を迎えた。吉崎に向かう事を「御下向」と呼び、京都に戻ることを「御上洛」と言う。どちらも自動車や鉄道は使わず、「蓮如」の足跡を確かめるかのように歩き続けている。江戸時代は全行程、御影を神輿に乗せて行っていたそうだが、明治以降道路の整備が進み、リヤカーや手押し車を使うようになったそうだ。
「御下向」は、4月17日に京都を出発し23日に吉崎に到着するまでの距離が240Km。車社会にとっぷり使ってしまっている自分には、考えられないような事である。最大の難所とされ、日本の秘境百選にも選ばれている「木の芽峠」越えは、箱に入った絵像を背負って山道を歩いていくという。ある年によっては残雪もあり、道なき道を進んで行くという、本当に大変な道程である。
御影道中が吉崎入りすると、御影は手押し車から神輿に乗り換え、15名の吉崎消防団員に担がれ、小さな町を長い行列となって練り歩く。そして、真宗大谷派吉崎別院(東別院)の太鼓堂から大きな音が鳴るのである。この太鼓の音が合図になる。東別院境内の御堂や大階段で、今か今かと到着を待つ多くの門信徒には感激の音となる。それと供に心地よい半鐘もなり始める。行列が東別院に近づくにつれ、太鼓と半鐘のリズムがどんどん速くなり、心を掻き立てられる。その中を、いよいよ御影を乗せた神輿が48段の大階段を一気に駆け上がる。吉崎での「御下向」クライマックスの瞬間である。新聞各社やアマチュアカメラマンのフラッシュがたかれる中、人々は手を合わせる。そしてそれを見守る人の中に、必ずこの7日間、御影と一緒に歩いた高齢者ばかりの「供奉人」と呼ばれる人の家族の姿を見る事ができる。東別院では「ご苦労様」、「ありがとう」、「お疲れさま」と声が飛び交い労をねぎらう姿がある。そしていつも感じるのである。この御影と供に歩いた人たちにとって「蓮如」とはどういう人なのかと。
自分にとっては「蓮如さん」と呼べる人である。親しさだけが募る。この地で生まれ育った人はみなそう呼んでいる。そして何かといえば「蓮如さんのおかげ」といって感謝する習わしがある。
御影は吉崎で10日間過ごされる。その間が「吉崎蓮如忌」であり、唯一この地が賑わう期間である。普段はひっそりとしたお土産物屋さんも、いつもより多くの商品を並べる。米やきな粉、水飴などで作られた昔菓子「けんけら」、「黒ねじ」、「青ねじ」。その横にパック詰めにされた小魚が並ぶ。これが「吉崎こうなご」というものだ。玉筋魚(いかなご)なのだが、北陸では小女子と呼ばれ型も大きい。春から初夏にかけてのこの時期は大きくなり、とりわけ蓮如忌の頃の小女子はよりいっそう大きく感じる。大きすぎて食べられない人もいるが、酢醤油や大根おろしで食べる味には季節感があり、酒の肴にももってこいの食べ物である。この期間、昔は民宿を営んでいた家が多く、「夕食には小女子」という人が今でも多くいる。
この小女子、ブランド品として吉崎みやげには欠かせないものとなっているが、これには理由がある。数多くある蓮如伝説のうち、吉崎七不思議に数えられる「小女子伝説」から来ているのだ。七不思議には前出の「お手植えの松」のほか、「片葉の葦」や「お腰掛けの石」、「お筆草」などのほか、「鹿伝説」、「赤手ガニ伝説」など、動植物に係るものがほとんどである。自然いっぱいの吉崎だからなのかもしれない。
「小女子伝説」には、蓮如さんの教えである「罪を認め念仏を唱えよ」というものを含んでいる。
その伝説を紹介すると、
「古くから、命あるものを殺傷していると極楽へは行けないと教えられていた時代、魚を殺していると感じている漁師達には、不安と迷いがあった。
そんな漁師達が蓮如さんに相談したところ、『人間は日暮しができなければ、仏様の教えを聞く事ができない。だから魚のことを考え念仏を唱えなさい』とおっしゃったそうだ。魚を殺している罪を認め、しっかり供養してあげなさいと言う教えなのである。それから猟師達に迷いが消え、毎日の生活が楽しくなって行ったという。
しかしながらある時、魚がさっぱり取れなくなってしまい、また蓮如さんに相談する事になった。
すると、『魚もむざむざ殺されるのを嫌がり、逃げていくのではないか。それに全部捕ってしまったらいなくなってしまう。そこで相談だが、百匹捕ったら二匹だけ放してもらえんかのぉ』とおっしゃられる。
そして翌朝、漁師達と一緒に船に乗り海に出ると、舳先に立って、供の僧に作らせた紙のコヨリを海に撒いた。すると不思議、そのコヨリが小女子になって泳いで行った。
それから豊漁となり漁師達は喜び、蓮如さんのおかげと感じ、毎晩吉崎参りを欠かさなかったという」こんな伝説である。
これが「吉崎こうなご」ブランドの理由である。この伝説の中には人間として色々教えられるものがある。
当時律令制の日本には多くの人種差別があり、良民と賤民の二つに分けた後、陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢と賤民を5階級に分けられていた。しかし仏の下では人間は皆平等であり、差別を付けるものではないと蓮如さんは公言し、実行しているのである。
一例として、膝と膝を突き合わせて行う「平座説法」と呼ばれるものが蓮如さんの代名詞になっているところからも判る。だからこそ、猟師や漁師など賤民と呼ばれていた人や、「五障三従の女人」と言われ卑下されていた女性からも慕われていくのである。また自然の中で、ほかの動植物と一緒に生きていく人間のあるべき姿や、生きていくための知恵や感謝の念が大切だとも伝えている。
蓮如さんには、庶民の現実をはっきりと理解してくれるところがあった。庶民には、仏の教えは理想論ではあるが現実ではなかなか取り入れる事は難しい。けれど、解り易くそして親しく接してくれるため、識字率の低い時代に仏の道を理解する事も出来、蓮如さんへの感謝が生まれてくる。辛く厳しい人生を過ごして行けば行くほど、生きていられる感謝が増していったのではないだろうか。これは現代にも通じる事だと思う。
毎年4月23日の夜、この吉崎の地は、「蓮如さんありがとう」という感謝の気持ちと、これからも美味しく「小女子」を食べさせてもらえるようになど、明日への生活を願う気持ちが飛び交う町になるのである。
GSOMIA破棄
日本と韓国、これからどうなっていくのだろう。
楽観的に考えると、韓国の首相が交代し、アメリカの影響もあり、元の関係に修復さることになるだろう・・・と。
あの太平洋戦争が終わって74年。
まだまだ後を引きずっている、残念だけど。
戦争をしてしまったという過去はぬぐえない。
そのために多くの人がなくなり、多くの人が悲しい思いをしてしまった。
「前向きに・・・」
苦しい時ほどそう思う。でもそれは、現実を逃避するのではなく、
明日のたまに修正改善していかないといけないものだと思う。
ただ、同系列の話題が通じる日本人の感性と、
戦争に対する感情も違う韓国の感性が噛みあってくれないと・・・。
私の信仰は・・・
自分は、これといった宗派を持つものではないけれど、仏教徒と呼んでも差し支えないと思っています。
そして、その中でも、親鸞聖人ゆかりの「本願寺」系に属する考え方に近いかと思っています。
何故なら「本願寺第8世蓮如」に陶酔しているからなのですが、西でも東でもなく、専修寺系でもなく仏光寺系でもなく、ただ「蓮如さん」が好きなのす。
その要因として、北陸生まれの自分は、子どもの頃から「蓮如さん」と身近に生きてきたような錯覚も抱いているからです。
たった4年しか北陸にはいなかった蓮如さんです、親鸞聖人の礎を築いた功績は本当に大きいものだと感じている。
そう、自分には、歴史上から見ても、お坊さんは日本中にたくさんいるけれど、尊敬し敬愛しているお坊さんは「蓮如さん」だけなのです。
文明七年(一四七五年)、八月。
本願寺第8世蓮如上人が吉崎(現あわら市吉崎)に下向されて4年。
浄土真宗の布教の成果は言うまでもなく、北陸各地でお念仏の声は高まっていくと共に、政治への不満から強まる一向一揆、何とかその力を抑え込もうとした蓮如さんですが、もう手におえない処まで来ていました。自分の身にまで降りかかる火の粉は、ついに彼に「吉崎退去」の決断を余儀なく下す事になったのでした。
「蓮如さんが「吉崎を離れる」その声は北陸各地に広まり、嘆き涙する村人や門徒たち。苦汁の決断をした蓮如さんもまた、吉崎での暮らしを慈しみ、村人たちとの別れを惜しんだと云われています。
蓮如さんが吉崎退去の時に詠まれた和歌として、
「夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき」
この句が残っています。
現在、蓮如さんの吉崎への想いを伝えるものとして、この地を訪れた門徒や観光客にも胸を打たれる和歌のひとつです。
福井県あわら市吉崎、汽水湖である「北潟湖」に浮かぶこの地には「葦」(アシ)が自生しています。「ヨシ」とも言って同じ植物の事ですが、世界で最も分布のひろいイネ科の植物で、高さは2メートルくらいになります。
古くは、ヨシにおおわれた岬ということから「ヨシザキ」と名が付いたとも言われていますが、「良い御崎」から「ヨシザキ」となったという説もあります。ともかく、吉崎の色々な場所に「葦」が群生しており、それを掻き分けて舟に乗る事になります。
蓮如さんが吉崎から退去されるとき、一目見送りに、と駆けつけて手を合わせる門徒や村人たちには、その「葦」が蓮如さんの姿を阻んでいて困っていたそうです。
「後生だから、蓮如上人のお姿を・・・」
集まってきた人々が皆そう願った時に、北潟湖に一陣の風が吹き、葦の葉が一片に偏り、蓮如上人、吉崎での最後のお姿を拝む事ができたという話が今でも伝わっています。
これは蓮如伝説「片葉の葦」のお話しとして、吉崎七不思議のひとつに数えられています。このような蓮如伝説は、この吉崎だけでなく、日本各地でも色々残っていますが、蓮如さんへの愛着と、教わった教義への感謝が込められているものだと感じます。
この地を元にした著名な蓮如伝説には、歌舞伎や浄瑠璃の題材にも使われた「嫁おどし肉付きの面」と本光坊了顕の「腹籠りの聖教」のお話しがあります。このほかにも「鹿の案内」、「お筆草」、「お腰掛けの石」、「お花松」、「こうなご伝説」、「赤手ガニ伝説」、そしてこの「片葉の葦」を含め吉崎七不思議として語られています。
このような蓮如伝説には、自然を扱ったものが多いのが特徴です。それはやはり、人間が生きていく上に必要なものとして、自然との共存と生き物の尊さを知るという事が揚げられます。
たとえば「こうなご伝説」には、限りある資源を大切にする心があります。
吉崎の対岸にある「浜坂浦」(現あわら市浜坂)は古くから漁業を生業としていました。そこの漁師たちがある日蓮如上人の下を訪れます。
「蓮如さまぁ、近頃ちぃとも魚が取れねえんでございます。何とかなんねぇでございますかねぇ・・・」
すると蓮如さんがこう答えられたそうです。
「そなたら漁師は、魚をとったら全て喰ぅてはしまわんかのぅ。そなたらと同じように魚たちも生きておるんじゃ。だからせめて百匹捕ったら二匹だけは、逃がしてやってもらえんかのぅ。」
今では限りある資源を大切にしようという考え方は当たり前ですが、六百年近い前から、蓮如さんはそう教えを広めていきました。
生きる事がやっとの時代、自分たちが生きて行くのと同じように、魚たちもまた生きていかねばならないのだという事を、文字もろくに読めない者たちへ教え広めていたのです。
そしてある朝、漁師たちと一緒に海へ出かけた蓮如さんは、舟の穂先に乗って、コヨリを巻いていったのです。その時たくさんの白いコヨリが「こうなご」になって泳いで行ったというお話が「こうなご伝説」です。
コヨリを海に巻いた事により小さな魚が集まり、今度はその小さな魚たちを求め大きな魚たちが集まるようになり、漁師たちの暮らしが楽になって行ったのです。
蓮如伝説には子ども達が喜びそうな話題を入れ、そして生きているものの尊さを教え、その中に感謝する心を植え付けられるようになっています。
蓮如さんの偉大さは、江戸時代以前の日本国という貧しい社会に生きる人間たちに、生きる術を教え、生きていく上での一筋の光を与えていった事ではないでしょうか。
北陸の長く雪深い冬で生き抜く民百姓に、蓮如さんの心がありがたく、そしてかけがえのないものになって行った事の理由は、そんなところにあると感じられます。
蓮如さんがお亡くなりになったのは一四九九年の三月です。
毎年四月には蓮如忌が「あわら市吉崎」で行われます。年々訪れる人は少なくなりましたが、江戸中期から昭和中期にかけて、吉崎蓮如忌を訪れる人の波は大変大きく、大勢の人が「吉崎参り」に訪れています。それには舟を使う人が多く「吉崎舟参り」と呼ばれていました。そして吉崎に来て「片葉の葦」を見つけると大そう喜んだものだそうです。それは、「阿弥陀様には感謝をし、片葉の葦には願いを掛ける」と云われ、そっと懐にしまい込んで土産として持ち帰ったということです。
自分の願いをかける「片葉の葦」、今では舟参りも無くなり、吉崎で釣りに親しむ人も少なくなり、また護岸工事も行われ葦の数は少なくなりました。ですから、なかなか「片葉の葦」を見つけることは難しくなっています。
しかしながら、生きていく事が大変だった時代、蓮如さんの教えに耳を傾け、一日一日に感謝を抱き、貧しさの中で暮らしていた村人や門信徒の気持ちを振り返り、いにしえの吉崎を感じながら、「片葉の葦」を探してみてはいかがでしょうか。
そして、「吉崎こうなご」を肴にして酒を飲み話し合い、また、それを土産として持ち帰り、吉崎での蓮如さんの話を交わしていく事が、蓮如さんへの感謝となるような気がしています。
「吉崎蓮如忌」は毎年四月二三日から五月二日まで行われます。
浄土真宗本願寺が東西に分かれ四〇〇年以上になります。蓮如さんに対する東西での 評価の違いはありますが、「本願寺蓮如」の足跡は大変大きなものがあると思います。
なかでの吉崎東別院(真宗大谷派吉崎別院)の事業「御影道中」は、毎年四月一七日に京都の本山から吉崎まで、歩いて蓮如さんの絵像を運ぶ事業です。
四月二三日、夜七時半頃、吉崎に御到着される道中には、今もなお「お帰りなさい」と声をかける人たちがいます。北陸の春の歳時記とされるこの日に、是非吉崎を訪れ、北陸の文化と歴史を繋いできた先人たちの苦労を感じ取ってもらいたいものです。
麻薬取締法違反で沢尻エリカ容疑者(33)の代役
NHKは好きじゃないのだが、来年放送予定の大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」に出演予定の女優、沢尻エリカ容疑者(33)が麻薬取締法違反容疑で逮捕されたことを受け、沢尻容疑者の代役として女優の川口春奈さん(24)を起用すると発表したという。
戦国武将の明智光秀を中心に、戦国時代の英傑たちが描かれる「麒麟がくる」で、沢尻容疑者は、織田信長の正妻となる帰蝶(濃姫)役を担当していた。沢尻容疑者は初回から出演予定で、すでに10話程度までの登場場面を撮り終えていた・・・というが、こんなに迷惑をかけているという事を、もっともっと報道すべきだろう。NHKだからこそ。
いつもながら、なぜ覚せい剤などの薬物がダメなのか・・・
タレントだから、こんなに大きく報道されているが、このような犯罪が亡くならないのはなぜなのか。
人間は「弱い」いきものなのだ。
現代に「電気」が無かったら・・・
今、電気が無かったら本当に困る。
台風の影響で停電になった地域もあったが、本当に困って生活を送っていた。
科学の発達に感謝しなければいけないのだが、
原発事故の問題や、原子燃料に頼っている発電問題など、
実はこの大切な電気というものを、あまりにも軽く考えているのではないかと思っている。
誰かが新しい発電技術を考えだし、
人間の暮らしに何不自由のない時代が永遠に来る・・・
そう思っているのは自分だけではないだろう。
まぁ、そう深く考えなさんな・・・と
いつも誰かが後ろで話しているように聞こえてる。
戦争も嫌だが、電気のない社会も嫌なのである。
信心で救われた命は新たな蓮如伝説へ
日本にはたくさんのお寺があります。宗派が色々あるからですが、その中で一番多いのが浄土真宗系のお寺です。浄土真宗では、開祖「法然」・宗祖「親鸞」・中興(ちゅうこう)の祖「蓮如」と呼ばれ、それぞれの時代で仏教を論じ、布教活動で活躍なさった人達がおられます。
それから、親鸞聖人ゆかりの宗派もいろいろあります。特に「真宗十派(じゅっぱ)」と云われますように「真宗各派(かくは)協和会(きょうわかい)」として結成された十派(じゅっぱ)のうち、なんと4つの本山が福井県にあるのです。
越前市にある真宗出雲路(いづもじ)派『毫摂寺(ごうしょうじ)』・鯖江市にある真宗誠照寺(じょうしょうじ)派の『誠照寺(じょうしょうじ)』・同じ鯖江市の真宗山元(やまもと)派『證誠寺(しょうじょうじ)』・福井市にある真宗三門徒派(さんもんとは)『専照寺(せんしょうじ)』、は、それぞれの宗派の本山として名高いのですが、このような福井県の浄土真宗の基礎を築かれたのは、何を言う「蓮如上人」だと言われています。
もともと親鸞聖人の流れを汲むお寺はたくさんありましたが、現在浄土真宗という宗派の基礎をきずかれたのが「蓮如上人」で、落ちぶれた「本願寺」の再興を願い、親鸞聖人の教えを形よくまとめ上げていかれたのが「蓮如上人」ということになります。
その教えが広まるにつれ、各地に点在するいろいろな宗派の寺院も、「本願寺」の系列へと移転するものも現れてきます。そして、室町幕府の衰退とともに下剋上の世界が訪れ、「惣村(そうそん)」と呼ばれる「百姓の自治的・地縁的結合」が「一向一揆」と言う形で反政府的な活動を起こし、京都を焼け野原にした「応仁の乱」以降の戦国の時代から、太平の世を作り上げた徳川家康の政策によって大教団「本願寺」は二つに分裂させられてしまうのです。 この徳川幕府はその後約260年間、日本の統治をおこない現在の日本の原型を築いていったのです。このような歴史を考えていくにつれ、「蓮如上人」の教えは、単に浄土真宗内だけでなく、現在の日本の基礎のながれを作って行った張本人の一人であると言えるのではないでしょうか?
「吉崎御坊」という名で知られるあわら市吉崎には、浄土真宗の二つの別院があります。しかも真宗の東西別院が隣り合わせで並んでいる処は、日本国中でここだけと云われています。
その別院のひとつ「真宗大谷派別院」、通称「東御坊」の門をくぐりますと、『地獄極楽丁半かけて 弥陀にとられて丸裸』という石碑が立っています。
これは、ある女性の遺徳を偲んでつくられたものですが、親鸞聖人の血脈の方でもなく、御門跡の歴史的な史跡でもありません。一つの石碑の中には、真宗の原点を知る、「ある人の生き方」を、後の世まで伝えてほしいという願いがこもった石碑です。
三味線ばぁちゃんの説明
昭和21年、終戦直後の「吉崎」を訪れ、それから84歳で亡くなるまでの25年間、吉崎蓮如忌で賑わう中で三味線を弾き、唄い、投げ銭を溜め、それを「東御坊」に全て差し上げて行った人のお話です。その人の名前は「岡部つね」さん。でも誰も本名で呼ぶ人はいなかったそうです。「三味線ばぁちゃん」、みんなにはそう呼ばれ親しまれていました。
「三味線ばぁちゃん」は、能登半島の入り口、石川県内灘町で明治23年に産声をあげました。この地はもともと信仰の厚い土地柄で、お茶を出してもらうと「ああ、なんまんだぶ、なんまんだぶ」と言うそうです。これは「ありがとう」と言っていることなのです。そこで生まれ育った方ですから、両親はもちろん近所の人まで「阿弥陀様の教え」は、体の一部として浸み込んでいたのかもしれません。
「三味線ばぁちゃん」が、能登の貧しい漁村を離れ、大阪へ出るのは17・8歳の頃です。身を寄せたのは芸者屋で、そこで厳しい修行を受けます。ろくに字も知らなかったのに、日記を付けたり、ハガキを書いて出せるようになっていくのです。「蓮如さん」が吉崎にいらしてご結婚された、3番目の奥様となった「如勝(にょしょう)」という方も、生まれてから字など学んだ事もない方だったのですが、「蓮如さん」と出会い、真宗の教えを学ぶことから、字を覚え、人に教えを説けるようになっていく姿と、どこか似ている気がしてはなりません。
「三味線ばぁちゃん」は、ひと通り芸を身に付け、エンタツアチャコとして一世を風靡した漫才師の「横山エンタツ」・「花菱アチャコ」と一緒に吉本興業の舞台にも出ていました。その頃が「三味線ばぁちゃん」の絶頂期だったかもしれません。金やダイヤの指輪を幾つもはめ、一座の座長となって地方回りをしたそうです。
そんな「三味線ばぁちゃん」の生活が崩れ始めたのは、結婚に失敗したからです。最初の男はやくざ者で、ほどなく別れたものの、牢屋から出て来てからも身を隠しながら生きていた「三味線ばぁちゃん」の行く先々に現れては金を強請っていました。その後何年かしてこの男と別れはしたものの、次の男がまた悪かったのです。自分の弟が早死にしてしまい、その末の娘を養女として芸を仕込み、自分の跡継ぎにと入籍して育てていたのですが、事もあろうに再婚した亭主が手をつけてしまったのです。同じ屋根の下で、毎日同じ釜の飯を食べている者同士が、一人の男を張り合う仲になってしまったのです。まさに、地獄の苦しみの中で丸3年間を過ごしたのでした。
そしてある日、「わてとあの娘とどっちかこっちか決めておくなはれ・・・」と亭主に迫ったのですが、もちろん亭主は若い方を選んだのです。「三味線ばぁちゃん」51歳の時の事です。
それから自分の手で髪を切り落とし坊主頭になり、男か女かわからない姿で巡礼の旅へと、放浪生活が続いたのですが、行く先々で色々なお坊さんの説教を聞き歩き、小さな小さな「阿弥陀様の教え」だったものが、大きく大きくなっていったそうです。
何が大きくなったかと云うと、「鬼や畜生(ちくしょう)やと思ってた亭主と娘に、阿弥陀様の見守る大きな世界へと導いてくれたんや」、そう思ったのです。再会した二人に、「ありがとう!」そう言えた「三味線ばぁちゃん」の姿を、是非想像してみて下さい。「鬼やと思うて憎んどった二人が、自分を助けてくれた阿弥陀様やった・・・」、そう人に言ったそうです。
毎年4月23日から5月2日まで、吉崎で「蓮如忌」が行われています。今ではすっかり淋しくなってしまいましたが、終戦直後の「吉崎蓮如忌」は、人で溢れかえっていました。別院の階段には白装束(しろしょうぞく)の「傷痍(しょうい)軍人(ぐんじん)」が並び、「吉崎御山」と呼ばれる吉崎御坊跡に登る道には乞食(こじき)が並び、サーカスや大道芸人が来ていて、北陸屈指の「大レジャーランド」でした。
その10日間、「吉崎御山」にある吉崎の象徴「蓮如上人像」前に三味線で歌を唄う「三味線ばぁちゃん」の姿は、吉崎に訪れた人たちの目を引いた事は言うまでもありません。「お賽銭(さいせん)」と称してもらった投げ銭も多かったと思います。「三味線ばぁちゃん」は、それを全て「東御坊」へ寄進(きしん)して行きました。
「三味線ばぁちゃん」のお話はまだまだ続くのですが、詳しくは東本願寺出版部発行の「三味線ばぁちゃん~『念仏(ねんぶつ)内局(ないきょく)の影に』~」を読んでいただきたいと思います。
蓮如忌中の法話に聞き入り、寝る事もお寺で、食べ物も人様から頂くもので、着た切りの姿を見れば「乞食」としか見えない「三味線ばぁちゃん」の一生は、「蓮如上人」が広められた「御教え」に救われ、その感謝の念が込められています。
この石碑「地獄極楽丁半かけて 弥陀にとられて丸裸」を感慨深く見て頂きたいものです。約600年前、北陸の地で多くの人に影響を与えた「蓮如上人」の心は、今もなお生き続けているのです。