BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

人類宇宙人説を信じているから・・・

人間を作ったのは神・・・??
いつのまにか旧約聖書にも手を染め、仏も神も信じるようになった。

ダーウィンの進化論は「あらゆる生物は進化して今にいたる」という話ですが、

「突然変異」が起こらないと人類にはたどり着けないという話が、自分には解りやすいんです。

地球が誕生して46億年だとか、その間に生物が生まれ進化して現在に至るという考え方なのは想像がつきますが、その話にはいつも「?」を付けています。

というところから、宇宙人が人間を創り、その宇宙人を「神」と呼んでいるのだと考えるようになっています。

そしてその神を「仏」と同じように扱った方が、今現在過ごしやすいと思っています。

阿弥陀如来、逢ってみたいですよね、そして色々な話を聞きたい・・・

神様も同じです。

神も仏も、人間社会があるからそんなお話が通じる事なので、神道も仏教もキリスト教イスラムも、全て同じなのではないかと思っています。

 

人間は自然と闘って生きています。これからもずっと。

だから、自然に負けまいとする超越した人間がいても、おかしくないと思っていますから、神も仏も信じて生きて行く自分です。

 

そうそう、宇宙人はいます。地球人がいるんですから。

そんな考えを持つ自分が、今日は神棚を拝むことにしました。

「生きている事に感謝しています。何不自由なく、これからも生かさせてください。

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願い事を神棚に・・・


信仰心の溢れる場所~鴫谷山の切通し~

 福井県の最北端「あわら市吉崎」。石川県境のこの場所に、蓮如上人が一宇の坊舎を建てたのは一四七一年の事です。蓮如上人は親鸞聖人から数えて八代目の本願寺法主で、この北陸地区を中心に親しみを込めて「蓮如さん」と呼ばれています。
 蓮如さんが生まれる二年前のことですが、本願寺は大変貧しいお寺で、堅田の法住という人が本願寺に参詣したところ、あまりにみすぼらしいお寺だったために、同じ京都にある仏光寺へと参詣先を変え、そのままそこの門徒になったというお話があるほどです。
 しかし、その法住は五十四歳になった時に蓮如上人と出会い、蓮如さんの抜きんでた説法と人柄に惚れてしまい蓮如さんの弟子になったということです。その時蓮如さんは三十五歳、その八年後に本願寺法主になったのですが、それから「本願寺」は人で溢れかえるような場所となっていくのです。

 なんとなく蓮如さんの魅力を感じさせる逸話ですが、それゆえ、京都で人気の出た「本願寺」が妬まれるようになり、比叡山の荒法師たちに焼打ちにあい、自分の寺を無くすことになったのでした。そうした蓮如さんが、布教の拠点として吉崎に赴き、活発に活動するにつれ、北陸各地で多くの門徒集団が形成されていきました。
 雪深く決して住みやすい場所とは言えない北陸の地、そして「応仁の乱」という当時の日本を二分した戦の真っただ中で、貧しい農民をはじめ漁師や女、子どもたちまで、蓮如さんの話を聞きに吉崎へと集まってきたことは、今となっては想像する事しかできませんが、蓮如さんの魅力が生きる糧となって脈々と流れていった事が、今の暮らしへと繋がっているのだと気づかされます。
 「吉崎参り」という言葉はそこから受け継がれ、蓮如さんの教えと一緒に蓮如さんへの想いも人から人へと広がっていきました。蓮如さんが亡くなり、その百年後、天下分け目の関ヶ原の戦いを経て、戦国時代は幕を下ろし、徳川時代が訪れ、平和な日本が生まれていきましたが、北陸各地で灯のついた「真宗の教え」は、本願寺を二つに分裂させるなど、徳川幕府の度重なる寺院制度改革の中でも、民百姓の間に蓮如さんを慕う気持ちは繋がっていき、そうして吉崎は蓮如さんの古里として賑わい、テレビもインターネットもない時代に、その話が人から人へと伝わって、賑わう吉崎へ、一度は行きたいという人達が真宗を支えて行ったと言えるかもしれません。

 

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橘宿跡(北国街道分岐点)


旧橘宿にある分岐点(北国街道から吉崎へ)
朝顔に つるべ取られて もらい水」という俳句で有名な「加賀の千代女」も「吉崎参り」に訪れています。一七七二年、蓮如さんが吉崎に来られて300年後の、江戸時代中期の頃です。加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、六〇歳のとき「弥生二十日あまり、吉崎詣でせんと旅立ちけるに、今日という今日初めて吉崎に詣でける。その嬉しさ有り難さのあまり・・・」と題して記された句が、「うつむいた 処(とこ)が臺(うてな)や 菫草」です。その句碑は、国指定史跡となった「吉崎御坊跡」の山上にひっそりと建っています。千代女の吉崎への想いと感激が伝わってきますが、千代女の残した「吉崎紀行」には当時の様子を伝えるものも色々あります。金沢市近くの松任から北国街道を西へと向かうと、越前の国に入る一番近い宿場町「橘宿」があります。そこに泊った千代女は「四季色々 殊更春の 植木茶屋」という句を残し、そして北国街道を離れ吉崎へ向かうことになります。ここには、今「吉崎(蓮如道)」という道しるべが建ってあり、そこを経て吉崎に入る時に残した千代女の句「涼しさや はずかしいほど 行きもどり」があります。

 

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千代女句碑

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千代女句碑説明看板



加賀の千代女句碑
この吉崎には加賀の国吉崎と越前の国吉崎があり、その加賀の国側に「化粧が市」と呼ばれた遊郭群があったと伝えられている事から、千代女が吉崎に入る時、遊女たちの髪を洗う姿などを詠んだ句と思われます。


吉崎御山にある「加賀の千代女」句碑の説明

 

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鴫谷山の切通


のこぎり坂にある石碑
一方、北国街道を越前の国から吉崎へ向かう場合、細呂木の関所を抜けるとすぐに、「のこぎり坂」と呼ばれている場所があります。この場所には、「承元の法難」(一二〇六年)の時、浄土真宗の宗祖親鸞聖人が越後に流される事になり、北国街道を通り加賀の国に入る時に通った場所です。その際、「音にきく のこぎり坂を引き別れ 身の行く末は心ほそろぎ」と細呂木という地名の掛詞も入る上人の心中を詠った句碑が、吉崎へ向かう道と加賀へ向かう道の分岐点に建っています。この「のこぎり坂」はのこぎりの刃を縦にしたような、上ったり下りたりと行きかう人には大変な坂道でした。京の都にまで聞き及んだ険しい道「のこぎり坂」。その坂の下で道は二手に別れ、北国街道を離れて左へ行くと「よしざきみち」です。江戸時代、吉崎参りで必ず通らなければならなかった鴫谷山(しぎたにやま)のこの道は、参詣者にはたいへん厳しい道だったのでした。
江戸幕府が倒れ、近代日本が形成されていく中の明治二十年十二月のある日、旧尾張藩の水谷忠厚という人が細呂木の庄屋の家を訪れ、「吉崎参りの人々のために、鴫谷山の急な坂を切り下げたいから、その工事監督をしてもらいたい」といって辞令を渡しました。その辞令には「天爵大神」と書いてあったそうです。
その水谷忠厚は、尾張藩士水谷伝左衛門の子として生まれ、明治維新後、今坂の改修(愛知県瀬戸市、明治十三年)、矢田川橋の架橋(愛知県名古屋市、明治十七年)坂東嵭崎の改修(福井県勝山市明治20年)の改修や、明治二十一年の吉崎道、大森岩坂、上天下坂尻、杉谷坂、山内・四ツ合間、熊坂道、織田道、松岡道、金津・細呂木間、吉崎浦・芦原間、永平寺道、山奥口道、風巻八段坂、穏亡岩坂、笏谷坂、芦原新道の改修など、福井県各地の道路改修事業に携わりました。
吉崎参りのために「のこぎり坂」を切通した事業は、農閑期の一月から四月の蓮如忌までのわずか三ケ月間、周辺の多くの村から人足が集まり、農閑期ということで人々は手弁当で、「吉崎参りのために」という気持ちから出来上がったのでした。重機もなく、近代的な土木技術も無い時代に、手作業だけで、高さ約二〇メートルの「切通し」を作るエネルギーは、一体どこから生まれたのでしょうか。


鴫谷山の切通
この近隣の村々には今でも、預金講(よきんこ)という無尽が今も盛んに行われています。これは蓮如さんが信者に「講」を勧めたことの名残りとされていますが、現在では浄土真宗の信仰とは無関係です。町内会や同級生など形も色々ありますが、その基本的なものは、みんなで協力し合って何かをし、みんなで楽しむという姿勢だと思われます。
「講」は今から約五五〇年前、蓮如さんが北陸の地へ来てから行った布教の手段の一つです。今のように娯楽のない時代、各村の人々は蓮如さんから届いた御文(御文章)に対して、坊主や長老、村長(むらおさ)がみんなを集めて読み上げ、蓮如さんからのお言葉として学ぶ場所となっていたのが「講」の始まりでした。識字率の低い時代、いかに読み易く書かれた御文(御文章)も、なかなか学識のない人たちには理解しにくいものなのだった事でしょうが、みんなが集まり、そこで聞き、そこで話し合うという布教方法は、民百姓たちの、一つの楽しみとして成り立って行ったことが想像できます。
日本という骨格を形成していくべく奈良仏教から、平安仏教は貴族社会の日本を造っていきました。そして武家社会へと続く鎌倉仏教として生まれた親鸞聖人の教えは、庶民のための仏教という形で特段のスピードで日本中に広がっていきました。その教えを確立していったのが蓮如さんです。浄土真宗では蓮如さんを「中興の祖」として言われているように、現在でも多くの門信徒でつながっている真宗では、門信徒の事を「御同行」と呼んでいます。仏教の持つ基本的な考え方の一つに「自利利他」というものがあります。「他人の幸せ」は「自分の幸せ」、「自分の幸せ」は「他人の幸せ」、というものなのですが、「吉崎参り」の人たちのためにと作られたこの「切通し」に来るたび、そこに蓮如さんが生きていると感じさせられます。自然と闘い、いろいろな苦しみの中で生きて行く人たちと一緒になって、同じ目線、同じ心を持って生きて行こうという教えを広めた人が蓮如さんだと言っても良いかと感じるのです。この「鴫谷山の切通し」に来るとその事を再認識させられ、真宗への信仰心の凄さと日本人の持つエネルギー、そして、蓮如さんの想いが今でも残っている場所だと感じるのです。

観光ガイドとして

 2019年、今年も残すところあと一か月。

 語り部として、13年目も過ぎ去ろうとしています。


 この間、多くの人と出会えたのも、「蓮如さんのおかげ」だと思っています。
 生きている事に感謝をするようになった事も、食べ物や飲み物に対しても、「美味しい」と感謝ができるようになった事も「蓮如さんのおかげ」と言えるようになって来た。
 どちらかというと信心深い方ではないけれど、神様にも仏さまにも頭を下げれるような人間になってきたと云えるかもしれなません。
 語り部をやっていて、気の付いた事や勉強し直したこと、学んだことをメモしてきた事を今のうちにまとめておくべきと考えたましたので、このブログに残しておきます。

 

 

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蓮如


吉崎のシンボル「蓮如像」(高村光雲作)
 蓮如
 あわら市吉崎の国指定史跡「吉崎御坊跡」にそびえ立つ「蓮如像」は、高村光雲の作で、昭和9年に完成しました。高村光雲4代作の一つとされ、最大のものです。
 昭和9年と云えば、 昭和4年(1929年)に世界恐慌が起こり、それが第2次世界大戦の引き金となった、まさに世界経済が大パニックになっていた真っ只中のときです。
 その時代に、当時のお金で5万7000円の寄進が集まり、この「蓮如像」が建立されたのです。
 米価を基準にして、現在の通貨に換算しますと約1億円、でも米価自体が安くなっていますので、その3倍から5倍という事になります。
 つまり世界経済がパニックになっている状況でこれだけのお金が集まったということに驚かざるを得ません。

 

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御坊跡説明看板


国指定史跡「吉崎御坊跡」
 約2000坪あると言われるこの「吉崎御坊跡」ですが、地権者は「吉崎西別院」と「吉崎東別院」です。
 この本願寺系の二つのお寺で管理しているこの地は、昭和50年に国の指定史跡に認定されました。
 元々蓮如さんの時代は本願寺が分裂していませんでした。
 蓮如さんが吉崎にいらしたのは西暦〇〇〇〇年(文明3年)のときです。それから約130年の時を過ぎ、江戸幕府が開かれる寸前の1602年(江戸幕府は1603年徳川家康征夷大将軍に任官した年から)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、そこから東西の分立時代が始まったとされています。ですから、この地がその後東西管理でずっと続いているという事になります。

 江戸時代を築いた徳川家康が、一番困った相手が「一向一揆」です。
そのため、一向一揆の起こった基本となる本願寺の力を弱めるために、本願寺を東西に分立させたと言えるのですが、信長・秀吉・家康という日本の歴史上、戦国時代のヒーローであるこの3人との戦いに、本願寺を分裂させて終止符を打った家康は、本当に策略家であったと言えます。
 寺請制度という仏教教団が江戸幕府の統治体制の一翼を担うこととなる制度を法制化し、幕府の出先機関の役所と化していった寺の力が弱くなって現在に至っているのです。

御正忌に想う(一人だけの報恩講)

 今日は親鸞聖人の御命日。浄土真宗では各寺院で報恩講が開かれ、なんとなく仏教に親しむような感のある今日なのです。

 敬愛する蓮如上人は、親鸞聖人から数えて8代目の本願寺の御門跡ですが、蓮如上人の御命日である3月25日よりも、今日、11月28日の方が仏教に親しみたくなる日です。

 蓮如上人のお言葉に、

「物をいえいえ」と仰せられ候う。

「物をいわぬ者は、おそろしき」と、仰せられ候う。

「信不信、ともに、ただ、物をいえ」と仰せられ候う。

「物を申せば、心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり。ただ、物を申せ」と仰せられ候由候う。」

(御一代聞書より)

 

何年か前にこの言葉を知った時、自分の意見は言わないと相手には解ってもらえないという事だと感じ、いろいろな場所で発言するようになった経緯がある。

研修会や講演会、一方的に話を聞くだけの時間ではなく、自分の思った事、感じた事、疑問に思った事などを口に出す事にしたのである。

 どちらかというと日本人は、「沈黙は美徳なり」という風潮があるが、今の日本、どこか歯車がくるっていると感じるとき、この日本人気質が現代の悪い流れを作ってしまっていると感じている。

 特に、政治に対しての日本人は、西洋人と比べて意見を言わなさすぎる・・・!

 

御正忌の話に戻すが、以前にも書いたが、親鸞聖人の流れを持つ宗教、学派は数多い。いや、多すぎる。

念仏ひとつの事にいろんなうんちくが付いて廻り、そこに「お金儲け」主義の矢からがうようよ居過ぎる。こう思っているのは、自分だけではあるまい。

 

今の日本に、宗教観は必要だと感じているし、日本人の気質に一番合っている考え方が、蓮如上人が広めた「浄土真宗」だとも感じている。

もしできる事なれば、親鸞聖人の流れを持つ宗派が一様に、ただ親鸞聖人の御教えのみだけでひとつに纏まる事が出来ないのだろうか。願わくばだが・・・

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現代に通じる話ばかり・・・

 

修学旅行の夜

中学の修学旅行。行き先は「東京」だった。

2泊3日、前日は富士急ハイランドで一泊し、修学旅行最後の夜は東京。

予定通り、夜には悪友と女子生徒の部屋へ。

確か、トランプをしようということだったと思う。

そこへ先生の見回り。

そこにいた全員、近くの布団をかぶり静まり返る。

気がつくと憧れの彼女と同じ布団の中。

高鳴る鼓動、彼女の息がかかる。

15歳、まだまだ子ども。でもこの時の事を鮮明に覚えているのは、

やはり「好き」という一言が言えなかった時代だからだろう。

 

後日、この日の事を話すと、彼女もまた鮮明に覚えていた。

淡い初恋の想い出の一コマなのだが、今でも心が熱くなる。

 

その事を想い出しながら、一曲浮かんできた。

B’zの「熱き鼓動の果て

(^^♪ 鳴りやまない 熱き鼓動の果て

♬ 僕たちは 何を見つけるんだろう・・・

あぁ戻りたい、あの頃に・・・

若いって素晴らしい!!!

青春の忘れ物 ~再会~

 

何年前だったか・・・

こんなことがあった。
早春のある日のことである。

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北陸道(北国街道)


いい天気である。長い冬から抜け出し、やっと咲き出した桜の花を見ようと、ウォーキングツアーに参加した。

 

 集合場所で、総勢20余名の参加者に囲まれながら係の人の案内を待っていたその時、後ろから声がした。

 

「淳之君?」

 

ちょっと驚いて後ろを振り向くと、同じくらいの年齢の女性が立っていた。覗き込むようにその人の顔を見ると、大きな驚きに変わった。

 

「馨さん?」

 

「そう、久しぶりだね・・・元気だった?」

 

「うんおかげさまで、馨さんも?」

 

「相変わらずよ、すっかりおばさんになっちゃったよ」

 

「俺だっていい親父だよ」

 

 彼女は初恋の人だった。もう40年になる。生まれて初めてラブレターを書いた人、忘れるわけがない。今でもその文面を覚えている。たった一言だ。

 

「たんじょうびおめでとう、I LOVE YOU」

 

恥ずかしくて自分の名前を書けなかった。

 

4月生まれの彼女、その誕生日を知るまでに長い長い時間がかかった。

 

初めて会った時が中学一年の時。でもクラスも違うしクラブも違う。男子からすごく人気のあった子で、自分はただ、遠くから見ているだけだった。スポーツクラブの彼女を見に行くのは簡単な事だ。放課後体育館へ行けばいいのだから。自分は文化部だったが結構遅くまでやっていたので、帰る時間は彼女と同じになる事が多かった。でも言葉なんて交わす事は出来ない。ただじっと見ているだけだ。2年になって隣のクラスになり、学校行事で2クラス一緒に動くような事があり、初めて言葉を交わした。その時の言葉も覚えている。

 

「クラブ大変だね」

 

「大会前だからね」

 

心臓が高鳴ってくる。でも大勢の友達での会話だったので、高鳴る音が周りに気づかれまいと彼女から少し遠ざかった。それから夏休みをはさみ、何度かグループ同士で会話できるようになり、やっと誕生日を聞き出す事ができた。

 

「誕生日はいつ?」

 

「4月28日、春なんだ。だから桜が大好き」

 

ちょっとガッカリした。その時はもう秋も終わりになっていた。

 

2年の終了式を迎え、運命のクラス替え。彼女と同じクラスになる事をただ祈った。神様は見ていてくれた。同じクラスになれたのだ。嬉しくて嬉しくて、受験生になるという事なんかすっかり忘れていた。彼女と1年同じクラスでいられるという事の大きさが、暗い受験のイメージを吹き飛ばしていた。始業式の後、初めてのホームルーム。彼女の席は自分のななめ右隣。いつでも彼女を見る事ができる。毎日がバラ色に染まる。そして運命の日を迎える。

 

彼女に渡したバースデーカードは始業式の時に買ったものだ。そして考え抜いた一言の文を書き、休み時間に誰もいないのを見計らって、彼女の机の中に入れた。彼女が帰ってくる。それをドキドキしながら見ている自分。今でもその様子を鮮明に浮かべられる。机の中の手紙に気づくと彼女はびっくりして大きな声を出した。

 

「何これ・・・」次から次へとクラスメートが集まり、差出人の捜査が始まったのは言うまでもなかった。ただただじっと、その騒ぎを遠目で見るしかなかった。

 

中学を卒業し高校も別々になり、彼女への想いは淡い思い出になっていった。

 

社会人になって初めて同窓会に出席した時、彼女に再会した。恥ずかしい思い出は心にしまいながら時間が過ぎていく。トイレに立った時に偶然彼女と一緒になった。初めての二人きりの会話である。昔話のなかで彼女がこう言った。

 

「あの手紙、淳之君だったんだよね」

 

「わかってたの?」

 

「うんそれでね、あんな大騒ぎになっちゃって、悪いことしたなぁってずっと思ってたんだよ。遅くなったけど謝るから、ごめんなさいね。貰って凄く嬉しかったんだから」

 

淡い思い出は、熱い想い出に変わってしまった。

 

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歌碑


それから何年経っただろう。今こうして『旧北国街道を歩くツァー』で再会した。

彼女との会話が楽しくて、地元ガイドの話に真剣に耳を傾けられなかったが、これは耳に残った。

 

「ここはのこぎり坂と言って、のこぎりの刃を縦に考えて下さい。上ったり下りたり、本当に険しい道だったのです。親鸞聖人が越後に流されるときにここを通り『音に聞く、のこぎり坂の引き別れ、身の行く末は心ほそろぎ』という句を残したと言われています。」

 

自分の人生も浮き沈みがあり、喜びも悲しみもいろいろ背負ってきた。辛く険しい道を歩んでいく時、林道の脇に、小さく咲いている淡いピンクのショウジョウバカマのように、心にほんのりと安らぎを与えてくれる想い出は、本当にありがたい。そして、戻れるものであれば戻りたいなどと考えてしまうのは、世の常なのかもしれない。

 こののこぎり坂には『歌碑』が建っている。

『おとにきく のこぎりざかのひきわかれ みのゆくすえは こころほそろぎ』

親鸞聖人)

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親鸞聖人ゆかりの地

 

今日は憂国忌

 

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三島由紀夫は天才だと思っている


私が「三島由紀夫」という人を知った日が、この11月25日だった。12歳、

中学1年だった、何も世の中を知らなかった私が、テレビの前に釘付けになった事を覚えている。もちろん、三島文学に触れた事もなかった時の事だ。

 鮮烈なイメージを抱きながら高校になった時、「金閣寺」という三島の作品を読破した。授業中でありながら、夢中になった事を忘れてはいない。

 当然のように先生に見つかり小説は没収され、「後で職員室に取りに来るように・・・」と言われた。

世界史の授業だった。

「何故授業中にこんなことをするんだ?」と先生に聞かれ、「面白かったんです」と答えたと思う。そして「先生の授業より…」と一言多く応えた事も今更ながら自分らしい・・・(苦笑)。

あれから45年。今一度ゆっくり読んでみたい小説だ。

 

 今日の憂国忌は「リセットライフ」として新たなスタートを切った自分への、何かしら青春時代を思い出させる一日となった。

 一冊の本が、人生へ与えてくれるものの大きさを、感じる一日だった。