BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

今の日本について考えてみたこと

f:id:yamamoto-awara:20191107180243j:plain

囀りって可愛い

f:id:yamamoto-awara:20191107180217j:plain

つがい




日本人だから・・・

今の日本について考えてみたこと

鳥の声を聞きながら朝を迎えた。

毎日同じように目を覚まし、なにげにパソコンのふたを開ける。

いつものようにツイッターをながめ、他のSNSもチェックする。

今日も生きている。そう感じる時間だ。

鳥たちの声は、いろいろ知らせてくれている。

たとえば、季節を感じさせる啼き方もあり、それは時の流れを教えてくれているし、風の音や雨の音と重なり合って聞こえるときは、天気を教えてもらえ、

今日一日の過ごし方を考えさせられている自分がいる。

楽しそうな囀りを聞くと人恋しくさせられ、

愛を語り合う恋人同士の光景を目に浮かばせてくれたりもする。

自然を感じ、自然の中で生きている自分は、自分自身を見つめ直し、

自分自身を確認できる朝となる。

パソコンの中から知り得る情報とはまた違うものを、

自然の中から感じ取る事ができ、

このような朝を迎えられた事に何かしら幸せを感じている自分がいる。

自然を感じながら、世界中からの情報に目を通し、

考えさせられ、平和なこの国の中で生きているということを実感している。

それと同時に、自分が日本という社会に生まれ、

平和な中で過ごしてきた「日本人」のひとりであることを感じさせてくれる。

各々が好きな事をつぶやき、いろいろな人が、その人それぞれの生活や暮らしぶりを、

知らせてくれている。

「みんな生きているのだ」と、そう感じるのである。

そして今、生きていることに幸せを感じ、

みんなと同じ時間を過ごせていると感じ、生きていることに感謝している。

それは、生きていることを実感しているからなのだ。

ひとりではない、自分ひとりではない。誰かがどこかで、

この地球のどこかで、同じ空気を吸っているのであるという安心感なのかもしれない。

平和な朝を迎えられたことに感謝している。

人間の価値はどう決めるのだろう。

生まれながらに平等であるというこの時代は、本当に平等なのだろうか。

自由な社会だと言われるこの時代は、本当に自由に生きているのだろうか。

日本という社会に生まれた自分は、本当に幸せなのだろうか。

そう考えさせてもくれる朝のひとときでもある。

人間の価値は、他人と比べるものではなく、人が決めるものでもなく、

自分の幸せは人から教えてくれたものでもない。

ただただ、日本という社会の中で生き、地球という大きな人間社会の一員として、

今日も朝を迎えられただけのひとりの人間である。

そのちっぽけな人間ではあるが、

この世界中を眺めてみれば孤独ではないと実感できている事に感謝しているのである。

 

子どもの頃、学校でからかわれ、少なからずイジメという境遇にあった。

この経験は今ではかけがえのないものになっている。

あの頃の孤独感は口で著せないくらい辛いものだった。

毎日学校へ行く事をためらい、朝起きる事ができない自分がいた。

当然両親に怒られてしぶしぶ登校となる。

面白くない毎日。

汗水流し、懸命に働いている両親の姿を見れば見るほど苛められているという事を口に出すことはできなかった。

当時は高度経済成長期で「もはや戦後ではない」と言われ始めた時代、

「苛められて弱音を吐いるようなヤツは男ではない」という強い風潮があった。

それ故誰にも相談できず、

苛める相手に心の中で「死んでしまえ!」と叫ぶ自分がいた。

この孤独感は味わったものしか理解できないだろうと絶えず思っていた。

この現実からの逃避をあれこれと考え、

「弱い自分」と位置づけ自己嫌悪に陥って行ったのである。

学校での孤独感は家庭の中でもそれを引きずってしまい、

毎日を楽しく過ごしていけたという想い出は全くない。

そんな中で最初に芽生えた自分への戒めは、

「強くなりたい」、「勇気が欲しい」だった。

 

しかしながらそんな自分の姿に転機が訪れる。

全校児童約七十人に満たない小さな小学校から、

千人近くいる中学校へと進学した時である。

これは人生初のカルチャーショックだった。

人が大勢いるというだけで、世の中がこうも明るく感じられるという経験が得られ、

今の自分がこうして、生きていられるという結果を生んでいるのだ。

そして世の中というものがぼんやりと見えて来た時でもあった。

ずっと言われるがままで、人に逆らわず、

人に言われた事をきちんと熟してさえいれば、

褒めてくれるし認めてくれるという世界しか知らなかったからだ。

自分の考えをはっきりと口に出すことの大切さを学んだ時期でもある。

世の中には色々な人がいる、自分より弱い人も、

自分より辛い思いをして助けを求めている人も。

そしてその時、自分の思いを口に出し、

自分らしさをはっきり表していく事が必要だと考え出したのである。

 

f:id:yamamoto-awara:20210819181818j:plain

先人の知恵は芸術!三倉の久右衛門炭(https://morimachi-gurashi.com/see/977)


今の自分は先人たちの知恵の中で生かされている。

これは無視できない。パソコンから流れて出てくる情報は、

パソコンという器械を作ってくれた人がいて、

通信技術というものを実用化してくれた人がいて、

写真というもの、動画というもの、音楽というもの、

その全ての技術があるからこそ楽しめている。

それは全て、人間社会の長い歴史の中で培われ、

一歩ずつ改良され、発展し発達して、現在に至っているのである。

人間社会に生きているからこそ、先人たちの知恵の恩恵を頂けているのである。

 

字が読める。

初歩的な足し算や引き算も出来る。

それも先人たちから教えてもらったものである。

中学や高校で習った数学の難しい計算式は、今の自分には必要のない事だ。

けれど、他の人には必要なのかもしれない。

そう、自分には必要でないものも他人には必要で、自分には必要なものでも、

他人には必要でないものがある。

何に価値があるのかと認めるという価値観の違いがあるから、

他人と自分の違いが判る。

そこから他人と自分で社会は成り立っていて、一人で生きている訳じゃなく、

社会の中で生かされていると考えるようになった。

自分がいるから他人がいる。

他人がいるから自分がいる。

今の自分は本当に幸せだと思う。けれど幸せだと感じていない人もいる。

同じ日本人でも。

そう、これは否めない。

なぜなら、幸せの価値観もまた、人それぞれだからだ。

価値観の違う人間同士が、

同じ時間、同じ空間で生きていることを知ることは大切である。

特に思春期を迎えた頃の自分には必要だった。

価値観の違いで社会ができていると考えられるようになったからである。

価値観はまた、時間と空間が違うと変化もする。

どの価値観が正しいとかと云うものではなく、

個人の価値観の考え方も普遍ではないという事を知ることが必要なのである。

そしてお互いがその考え方を尊重し合うということが、

社会の中で生きていく上では欠かせないことなのであると気がついたのである。

相手を認めその人を尊重するかどうかで友達はもちろん、

教師に対しても対応が違う自分を発見できた。

「先生がすべて偉いわけじゃない」、「成績の良い人が偉いわけじゃない」、

そう考えることができた時、自己嫌悪というものが消え去って行ったのである。

人間同士のコミュニケーションの基本は言葉である。

しかし、国が違うと言語も違う。

ひと昔前までこの壁は凄く高く大きいものだと思っていた。

ところが現在はどうであろう。技術の飛躍的な発達によって、

スマホやパソコンがあればその壁は簡単に乗り越えられるようになっている。

けれど、言語の壁が無くなったとしても、

本当に人間同士の意思疎通のすべてが可能になったとは言えない。

それは、人それぞれの価値観や考え方のすべてが違うからに他ならない。

国や文化、歴史の違いがある以上、全ての人間が地球上でひとつになることなど、

理想ではあるが現実にはありえないと言っていい。

日本という小さな国を取ってみてもそれが判る。

人間は全て平等であるという民主主義の考え方にも、

どこか無理があるのかもしれない。

平等の権利という考え方も理想に過ぎないのかもしれない。

グローバルに物事を進めていく上では、

やはり理想に走るべきなのかもしれないが、

今の日本にその考え方はもう過去のものとなっているのではないだろうか。

 

日本という社会を考えてみると、

江戸幕府の長い鎖国政策に終わりを告げ、明治維新という歴史の節目以降、

文化や科学の進んでいた欧米諸国には媚態的な外交を行うことで、

自国の経済発展と科学技術の発展を模索していた。

しかし、アジアを中心とした後進的な諸国には富国強兵と謳い、

高圧的な外交を進めた結果、太平洋戦争が勃発し、

そして敗戦という経験を踏んでいる。

そこから学ぶべきものの筆頭は平和の尊さであり、

大きな歴史の転換期を忘れることなく

未来へ繋げるべく考えていかねばいけない現代に至っている。

空襲などで亡くなった一般市民を含めると

二百七十万人という死者がでるという悲酸な結末を迎え、

日本を焦土と化したこの戦争のもたらしたものは何だったのだろうか。

 

日本国のためと死を覚悟した人たちは、

戦争が終わると虚無感が溢れ出し、生きる気力が出て来ず、

あてのない毎日を過ごす人が多くいたという。

大正生まれの母からこんな話を聞いた事がある。

当時では珍しい体育専攻の女教師だった彼女は、

男社会の厳しい中で暮らしていたのである。

身なりはもちろん行動すべてがチェックされ、

反論でもしようものなら、女でもビンタされることが当たり前だった。

しかし八月十五日にラジオから流れ出る玉音放送を、

涙しながら聴いていた彼らの態度が一変したという。

国民服のボタンをしようともせず、

靴のかかとは踏みつけているだらしない姿に変わっていき、

それまで口うるさかった礼儀などの生活態度に、

何一つ注意をされなくなったのである。

「敗戦とはこういう事なのか」と母は改めて悟ったのだという。

 

しかし、戦後の日本人は生きていく事に必死となった。

そう、不屈の日本人はここから立ち上がっていったのである。

大日本帝国憲法制度下において天皇主権という教育から、

国民主権という考え方の下で教育改革が行われ、戦後混乱期を見事に乗り越え、

飛躍的な復興を成し遂げ世界屈指の経済大国になったのである。

そこには、日本人の持つ勤勉さと、愛国心があったことを忘れてはいけない。

日本国という歴史の中で養われた日本人特有の感性と農耕民族独特の協調性が、

戦後の復興の基本にあったと感じる。

その感覚は、グローバル化された現代ではなかなか理解されなくなってしまった。

けれど、日本人としての遺伝子には必ず残されている。

なぜなら、阪神・淡路大震災東日本大震災などの、

度重なる大災害に対しても、

見事に立ち直っていく現実を垣間見る事ができるからである。

この件に関して海外メディアから、

驚愕の感想を云われていることは周知のとおりである。

日本人の持つ感性や理性が他の国から称賛されている事実を忘れてはいけない。

 

恥ずかしがり屋の日本人、

ひとりではできない事も、誰かと一緒ならできるという考え方は、

海外の集団心理とどこか違っている。

行動する中では協力し合い助け合うということが必要であり、

個の利害ではなく集団全体の利益を優先しているということである。

この姿勢こそ、地球社会で生きて行く、

生き抜いていくという考えに繋がる大切な要素ではないだろうか。

外交という国際間のコミュニケーションもまた

社会と社会が融合していく過程で新たな歴史が生まれていることも理解したうえで、

日本という個の価値観を他国に押し付ける事ができないことは

理解しなければいけない。

人それぞれ価値観は違う。

顔立ちや生い立ち、住んでいる環境などにより、

価値観が違うのは当たり前の事ではあるが、

生きていく上での価値観には大きな違いがないと言える。

大きな違いが生ずるとすれば、

それは政治という本来では集団で生きていく上での手法に

大きく左右されていることが揚げられる。

そして忘れてはいけないことは、

教育という社会における共通の知識の必要性である。

 

日本における基礎的な能力や学力では、

「よみかきそろばん」と呼ばれる初等教育がもっとも重要視されている。

しかし地球上のすべての人間が、

満たされた教育を受けているのかというと決してそうではない。

そして、価値観が違う人間だからこそ争いが起こり、

同じ教育を受けているからといって争いが無くなることはないのが現実なのである。

 

なぜ争いはなくならないのだろうか。

人間が生きて行くために食料の確保という問題が

昔から大きな原因の一つとされていた。

だが、現代では国家間の資源確保、宗教の違い、政治への不満など、

グローバル化された現代だからこそ生まれた争いも多々起こっている。

地球上の人間が一つになって争いのない世の中にすることは、

単なる理想だけの空論だと感じてしまう。

しかし、このような現代だからこそ、

日本人の持つ勤勉さと協調性をしっかりと把握し世界へ発信することが、

必要だと感じているのである。

これは、日本人である事に誇りを持つことと、

日本という国をもっともっと世界に知ってもらうためにも

大切なことなのではないだろうか。

 

教育において重要視されるべき「よみかきそろばん」も、

地域によって差が生まれているが、それ以外の学校教育に関してもの対応も、

かなりまちまちになっている。

日本において、ひとりの子どもを教育するにあたり、

家庭教育・学校教育・地域教育と

それぞれが協力し合って進めていくという現代の一般的な考え方は、

重要な意味を持っている。

家庭という社会、学校という社会、

そして生活環境である地域社会が、

一人の子どもを育てているという認識の共有を基本とする考え方なのである。

しかしその主張ばかりが走り回り、

本来重要な指導者を育てなければいけないという

根本的な問題を忘れてはいないか。

家庭教育の指導者は誰なのだろうか、

学校教育の指導者は制度的に資格を持ったものだけでいいのだろうか、

そして地域教育の指導者は人生経験があるような年配者中心だけでいいのだろうか。

そう、現代における指導者養成の考え方には疑問を持つべきである。

初等教育は別物として、

生きて行くための教育は生活即応の考え方が必要である。

そこには教育というもの原点に、

集団で生きているという考え方と、

人が人に教えていくという姿勢と、

人生経験という歴史を造っていく上で学んだことを

後世に伝えていくという姿勢を、決して忘れることは許されないのである。

そしてもうひとつ。

科学技術のすさまじい進歩により、

教育現場そのものが変動していることを理解する必要である。

 

自分も年齢が上がるにつれ、時代が変わったからとか、

昔はよかったなど、

何かにつけそのような理由をつけてコミュニケーション力不足を感じるようになった。時代に対応できていない自分を感じるときがあるのだ。

そんな自分に出会うたびにある種の自己嫌悪を感じている。

これは子どもの頃に味わった事のないものなのだが、いろいろな人と出会う場所を避けるのではなく、もっと多くの人と出会うことで解決できると思っている。

自分の様な人間が、他にもたくさん存在していると感じているからだ。

そのためにも、

自発的に、そして自主的に学んでいくという、

教育の根本たる考え方が必要である。

そして、「先生」と漢字で書かれているように、

先に生まれたものは全て指導者になるという自覚を持つことが、

日本における教育の基本的な考え方ではないか。

それは全て生きていくためのものだということを忘れてはいけないし、

人それぞれの能力も違うと認識し、

均一的な教育は現代にはそぐわないのである。

そして何より、社会の中で生きているということには

「責任を持つ」という自覚が、学ぶ者も教え指導していく者も、

教育の根底にあるということを忘れてはいけない。

自分から進んで違う社会に飛び込んで行く勇気もそこには必要であるし、

時代に取り残されていく前に

時代を先乗りできるような自分に生まれ変わる必要性を感じている。

「自分から学ぶ姿勢を持つ」これが必要なのだろう。

家庭という基本的な社会で育った人間が、

やがて学校という社会の中に入っていく。

そして就職して一般社会の中で暮らしていくようになる。

その間、一体どれくらいの人と出会う事になるのだろう。

出会った人すべてを「先生」と呼べるようになるのかもまた、

人生の考え方には重要である。

人を認め合うということは、年齢が上でも同い年であっても、

さてまた年下の人間であっても、

自分が生きていくうえで学ぶべきことを教えてくれた人は、

全て「先生」と成り得ると理解しなければいけない。

その中で。自分が本当の「師」と呼べる人に出会えることが、

ある意味「生きている」という証しになるのではないか。

生まれてから死ぬまで「学ぶ」という姿勢の必要性とともに、

教育とは何かという疑問を持つことも、今の日本には必要なのである。

 

美味しい食べものに出合ったとすると、

それを作った人、それを調理した人。

また、その器を作った人や売ってくれた人。

そうやって一つの物事を考えていくと、

数多くの人がその食べものに携わってくれていると気づくはずだ。

それだけを考えても、

人間はひとりで生きているのではないと確認できる。

しかし、グローバルな時代になればなるほど、

顔を見る事のない人間の存在を忘れてしまい、

一人で生きていると錯覚をしてしまう。

同じように、それを教えてくれた人、これを教わった人などがいるという事も、

時の流れとともに忘れてしまう。

また、個人に対して影響を与えているという人も、

誰かに影響を貰っているという考え方も、

忘れられているのが現代の特徴なのかもしれない。

誰かが「師」となり誰かの「師」となることが

人間社会の基本であるということを改めて確認し、

教えていくことや学んでいくことも重要な時代になっていると感じるのである。

そして、個人個人が尊重し合い、

責任をもって人と付き合えるようにならなければ、

本当の平和な社会とは言えないのではないだろうか。

これは、国家同士の付き合い方にも繋がっていると思うのである。

 

日本古来の考え方には「先人たちに学ぶ」という姿勢があった。

また、「師を敬う」ということから人間は成長するという考え方もある。

では現在の日本において、「師」と呼べる人に出会ったと、

はっきり言える人間はどれくらい存在するのだろう。

単なる学力や職業技能などだけでなく、

「人生の師」と呼べるような人との出会いが

大切な時代になっていると感じるのである。

知識や技術はインターネットを検索すればそれなりに習得できる。

しかし、社会の中で生きているという自覚を持った場合、

その社会で実際に出会って

「師」と呼べる人と出会う機会を得る事になかなか恵まれず、

その出会いを感じることが現代には本当に必要なことだと感じるのである。

人との出会いで学ぶ中には、その人の持つ暖かさも知る事ができるからである。

このような思想的な発想は、

これといった宗教心を持てていない日本人だから考えられることである。

多種多様な宗教があり、その宗教同士の争いも人間社会だから起こることで、

宗教を政治に生かしている社会もある。

同じ社会認識と同じ思想によって

一つの社会をまとめ上げていこうということなのだが、

選択肢がたくさんある以上、今の日本の教育制度に、

そのどれかひとつを奨める事は出来ない。

これが日本の素晴らしいところではないだろうか。

価値の押しつけと一人の考え方だけで左右してしまうことがない処が

日本という国の利点であると言えるのである。

 

社会は無限にある。

その中で自分が存在している社会は、いろいろな形で融合し合い、

立場を変えて動いている。

社会も動いているのである。しかし残念なことは、

時の流れとともにその節々の経験を忘れてしまいがちなのである。

自分自身が得られた経験だけでなく、

次の世代に伝えていくべきことも然りである。

社会の中で生きていることを実感してくると、

実はその集団での自分の立ち位置というものを客観的に判断できるようになってくる。

それは「大人の感覚」と呼ばれ、

「周りが見えてくる」という風に捉えられるようになる。

「集団の中にいる自分の発見」である。

自我の芽生えとともに社会性というものを身につけていった結果、

自分が他人と一緒に生活しているということに疑問を持つことになったのである。

もともと価値観や考え方の違う人間同士であるという認識がなければ、

相手に対して非難や批判をし、争い事が絶えない状態を回避できない。

相手と距離を置いたりする行動が必要なのである。

「集団の中にいる自分の発見」は集団の中での自分の行動を左右するものとなる。

 

また、「常識」という社会的な共通認識に疑う余地もなかった時代は、

個人よりも家や共同体、さらに国家といった、

より大きな集団社会を重視する考えに流されて生きてきた。

だがそれに反論できるようになり、

集団での自分の立ち位置というものを考え、

そして行動するようになってきたのである。

それが今の日本の現状ではないのか。

「常識」という概念も人それぞれであり、あいまいなものであるのは、

その尺度の違いから生まれてくるものなのだと理解しておかねばならない。

人間には元々自己顕示欲というものがあり、

食欲、睡眠欲、性欲という三大欲求に次ぐ人間の欲求と考えられ、

集団で生きている人間だからこそあり得るものと言える。

個人の価値観や考え方、性格の違う人間の集まりだから、

いろいろな集団で同じ立ち位置に成れるはずがない。

それに、元々器用な人間は少ないのであるから、

自己顕示欲の強い人間ばかりだと争い事が起こる場合が多々ある。

その争いを回避するためにこそ、教育というものが必要となるのである。

道徳とかマナーとか呼ばれるものも、実は知識や知恵であり、

その習得が集団社会での自分の立ち位置を決めるべく

有用なものとなるではないだろうか。

 

サッカーというスポーツの世界を考えてみよう。

チームにはひとりひとりの役割が重要で、ポジションによって動き方は変わり、

瞬時に自分の判断で動くことで勝敗が決する場合も生じてくる。

監督やコーチの指示で動き方を学んだとしても、

試合中での判断というものは全て個人で決めるべきものとなる。

チームワークが良くてもプレーがバラバラだと勝利へ導く事が難しくなる。

ひとりひとりが尊敬しあい、認めあって、良いところをひきだし、

勝利への目的達成という共通認識を持っていないと、

チームとして良い結果を生み出す事ができないのである。

このようなスポーツチームの中で、

自分の立ち位置を考える人間がたくさんいるチームこそ、

成熟した「大人の社会」となり、

良い結果をもたらすことが多く生まれるものなのである。

もちろん、スポーツの世界には「運」というものが左右することもあるが、

能力差をみんなでカバーしあうところや、

目的達成のため協力し合うという

「社会」で重要視されることを経験できる場であることを忘れてはいけない。

 

近年、就職採用の決め手の一つに、

学生時代のクラブ活動を重要視する企業も多くなってきている。

これは、人間が成長するにあたり、

忍耐力や行動力を体得している経験値が高いと判断されていることと、

チームプレーを経験したことによる

コミュニケーションスキルが高いと確認されているからに他ならない。

スポーツにおける同じ目的を持った社会と、

一般社会とを同じ土壌で考えることに抵抗のある人は多い。

ただ、「社会」と言うもの、

社会という仕組みを考えるモチーフとして捉えていればいいと思うのである。

共通認識を持った集団であればあるほど、

堅固で目的達成のための行動が明確なのである。

そして、「集団の中にいる自分の発見」を学ぶ場所としては

一番経験しやすいと感じるのだ。

それとともに、スポーツにおけるトレーニングの厳しさを経験する事によって、

忍耐力はもちろんのこと、人間のありとあらゆる欲望に対して、

「自制」という経験が生ずる。

自制心を養う事は社会に対しての責任へも通じ、

人間が社会の中で生きていく上で、

学びの場所と成り得るのがスポーツ体験であり、

「社会性」を認識するための習得場所と言えるのではないだろうか。

また、スポーツから得られる心身ともに健康であるということへの感謝と、

多くの人に助けられているという経験は、

社会の中で生きているという「群像の感覚」を得られることに繋がり、

人間の成長には本当に大切なことである。

健康であることが当たり前なのではなく、

健康でいられることに感謝をするという考え方が大切なのである。

この心の成長が、生きているという証しなり、

生きて行く活力にも通じる。

このような「社会性」を収得する場所はスポーツに限ったものではない。

吹奏楽や合唱など同じ目的をもって構成された集団ではどこにでも存在する。

つまり「社会教育」と呼ばれる全てのものにそれが与えられていると言える。

「社会教育」という場に参加し、他人と一緒に行動することで「社会性」を認識でき、

新たな自分の発見を期待できるのである。

ただ、「社会」から教わることに必要なことは、

指導的な立場の人間も含め、

物事に対して「俯瞰の視点」を持って行動するということが必要不可欠となる。

学ぶ者も教える者も、一面性を考えて接するのではなく、

「広く多くの人間の住む世の中」のなかの小さな人間だと理解することである。

そして、自立した人間であっても自発的に行動していかなければ

この視点を感じることはできない。

人間はひとりではない、

ひとりで生きているのではないという認識の中で行動していくことが、

現代の日本には重要なことなのではないだろうか。

 

「社会教育」と呼ばれるこの考え方は、

海外に例を見ない包括的な日本独自の概念と云える。

ここから日本人に染み着いた「助け合う」という考え方を学び合い、

日本という国全体を包み込める考え方を持つ教育が必要であり、

この考え方を地球上で理解して貰えるためにも、

現代における「社会教育」が必要だと言えるである。

 

現在、少子化と高齢化が問題になっている。

少子化は子どもの頃に社会性を植え付けにくい減少となって現れているし、

高齢化は、社会的な行動範囲が狭められていることに問題がある。

そして、地域格差は都会と田舎の考え方の違いと

行動の仕方を生んでいるという確認が必要だと思う。

そのような点から、現代の日本は人と出会い、

人から学ぶ経験と姿勢を待ち望んでいるのかもしれないと思うのである。

そして、お互いが尊重し合い、

責任をもって行動していこうという学習を、

できるだけ早い年齢から与え、そして学ぶ必要性を感じているのである。

格差社会が広がるにつれ、経済的に余裕のある人も、

個人主義から地域主義へと変貌していくことを理解し合い、

家族への感謝とともに他人への感謝、

そして生きている事への感謝を忘れてはいけないことが、

必要な時代だと思うのである。

争い事は起こってから対峙するのではなく、

それが起こらないように努力することが必要である。

それには人間の個の力ではなく、まとまって行動していく事が大切であり、

「群像の感覚」という社会での自分の発見を学ぶことが必要であろう。

相手を理解し、自分を理解して貰えるように、

相手を認め尊重しあうところから、全てが始まっている。

 

小鳥たちの囀りの中で明日も朝を迎えたい。

だから、今の日本で良いとは思わないが、日本人の持っている良さを、

もっと世界中の人たちに知ってもらいたいし、平和が続いてほしい。

そう願いを込めて綴ってみた。