BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その2】

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鹿の子の御影


 蓮如上人が生まれた頃の日本は、第四代将軍足利義持の長期政権により、政治的には小康状態が続き、室町時代の中でも、比較的安定した時代でした。

 当時、幼名を布袋丸と言った蓮如上人の本願寺は、父である存如上人のほか、祖父巧如上人も存命だったので、大家族であり、貧窮に浸る貧しいお寺でした。

 現代のように、飽食飽満で自由に生きている私たちには想像するだけですが、この頃日本では、生きていくのがやっとだった時代です。

 飲み水にも困り疫病も流行り、日々の暮らしの辛さは言うまでもありません。荘園公領の時代ですから、最上級の支配者である、朝廷、幕府、寺社による国家権力が構成されていました。

 そして、それぞれの支配の中で身分関係がありました。当時の身分には、人間は生まれながら尊いものといやしいものとにわかれるという考えがありました。

 「非人」と呼ばれる身分があり、これは人間以外のものという意味で、当時の被差別民衆を全体としてとらえる概念です。

 その寺社の中でも、朝廷と距離を置かざるをえなかった本願寺で、布袋丸は貧しいながらもすくすくと成長していったのでした。

 けれど六歳になったある日、悲しい事がおこります。布袋丸の母、『蓮の前』は、本願寺に下働きに来ていた方で正妻ではありませんでした。けれど大変な働き者で、大家族である本願寺の裏方の切り盛りと、お参りに来られる方々の接待などを全て引き受けて熟し、みんなから信頼される素敵な女性でした。そんな母親を布袋(ほてい)丸(まる)は大好きでした。

 ある日、布袋丸は母に呼ばれます。

「布袋丸、あなたの絵を書いてもらいますから、そこに立ってじっとしていなさいね」

そこには見ず知らずの絵師がいて、じっと布袋丸を見つめていました。

しばらく時が過ぎ、

「終わりました。」

そう絵師が言い、出来上がった絵を母に渡すと、母はボロボロぼろぼろと涙を流し始めたのです。

 幼い布袋丸に母の涙の意味が解るはずがありません。ただ、今までに袖を通したことのないような「鹿の子柄」の着物を着させられ、髪もちゃんと結んだ自分の姿の書かれた絵を見て、心の中に、何とも言えない不思議な想いが浮かんだのでした。

 そして、十二月二十八日、月こそ違え御開山、親鸞聖人の命日の事でした。布袋丸をぎゅっと抱きしめる母。そのわきに先般書かれた絵があり、只々涙を流す母。

「お母さま、なぜお泣きになるのです。お母さまがお泣きになられると、麿も悲しくなります。麿がお母様を泣かせるようなことをしたのなら、明日から良い子になります。だから、お泣きになるのはお止め下さい。」

 そして、小さな手で母の涙をぬぐうのでした。すると母はその紅葉のような手を払い、こう言いました。

「どうして布袋丸が悪かろう。あなたは本当に良い子です。

 お母さまを泣かせるような子ではないのです。けれど、今わらわが泣いている訳を話しても、幼い布袋丸にはわからないと思いますよ。ただ時が流れ、大きくなって、きっとその訳が判った時は、どうか布袋丸、わらわを思い出しておくれ。」

 それは、母親として可愛いわが子との別れの言葉だったのでした。日もとっぷり暮れ、眠りについていた布袋丸が目を覚ますと、荷物をもって部屋を出て行く母を見つけてしまいます。

「お母さま、どこへ行かれるのです?」

何も言わず、その声の先に顔もむけず、ただ下を向いて歩き始める母。

「お母さま、お母さま」

泣き叫びながら母の足にしがみつく布袋丸。その幼い手を振り払い、母は本願寺を後にしたのでした。

 布袋丸の手には、荷物からはみ出たと思われる「鹿の子柄」の小袖が破れ、握りしめられていました。

 蓮如上人六歳、実母との別れが、彼の人生を大きく変えた出来事でした。