BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その3】

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越中瑞泉寺https://www.info-toyama.com/spot/41019/


 蓮如が6歳の時、生母が寺を去って暫くして、貧しい本願寺の正妻として、朝廷に近い山名氏に深いゆかりのある海老名家から新しい母がやってきました。

 けれど本願寺の暮らしは良くはなりませんでした。そんな中、異母兄弟が次々と生まれ、益々大家族になっていきます。

 ある寒い寒い冬の事です。布袋丸に学問を教える役目は、家老の下間法橋でした。その日、継母に与えられたという「綿入れ」を着せられた布袋丸の様子がおかしい事に気が付きます。

 法橋は自分の家で学問を教えたいと申し出て、家へ連れて帰ります。そして女房にその「綿入れ」を調べさせると、絹針の折れたものが何十本と出てくるではありませんか。驚いた法橋、

「なんとしたことじゃぁ、このままでは若様のお命にも関係する事じゃ。もう暫くの間お預かりいたせねば・・・」

 こうして勉強学問をお教えしましょうと言う口実で、布袋丸は法橋の家で過ごすことになったのです。

 本願寺では、跡を継ぐものは九歳になると「青蓮院」というお寺で出家得度をする習わしがあります。

 けれど布袋丸が十歳になっても十二歳になっても、「お得度」を・・・という声すらも出ないのです。継母が後継ぎとなる事を認めなかったのです。

 布袋丸は蓮如とよばれるようになり、十四歳の正長元年(一四二八年)、すさまじい大飢饉が起こります。「正長の大飢饉」と呼ばれ、飢えた民衆は不衛生なものを食べ、体力が衰え、三日病(みっかやまい)と呼ばれる疫病が蔓延しました。世の中は凄惨な地獄へと化してしまいます。

 足利将軍家の権力も弱まり、下剋上の時代が訪れます。飢えた民衆は、酒屋、土倉、寺院等を破壊して、略奪や殺戮を起こしていきます。

 それが土一揆とよばれるものでした。蓮如の思春期は、このような大飢饉と将軍家の弱体化の要因が重なり、乱世の真っただ中にありました。

 ちょうど十七歳になった時、越中井波の瑞泉寺から「如乗」という蓮如の叔父にあたる方が本願寺に来られました。そして、存如上人や寺の者たちにこう言ったのです。

「頭が悪い人間ならいざ知らず、気が狂っておる者ならいざ知らず。このような人一倍聡明な頭を持っている子を、何故得度を受けさせんのだ。得度を受けさせるまで、儂はこの京都の地を去らんからな。」

 そうして本堂に座り込まれたのでした。これには継母のいう事にしか耳を貸さない父親の存如上人もいたたまれず、蓮如は十七歳の時に本願寺の儀式に倣って出家得度することになったのでした。