BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その4】

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比叡山https://www.hieizan.or.jp/


 本願寺に生まれ、やっと得度してから五年の間、蓮如比叡山で修業学問をしています。

 当時、各地の寺院から修業に来る若い僧は、自分の寺からの仕送りで生活をしていました。

 しかしながら、蓮如には本願寺からの支援はなく、五年間、一銭半銭の小遣いも持たされずに、裏地をつけて縫い合わせた「袷(あわせ)」と言う着物も、真冬を通じてただ一枚で、着のみ着のままのありさまだったのです。

 紙買う銭も、筆買う銭もなく、学友たちと机を並べて勉強していても、本当に不自由な有様だったのでした。そしていつしか、「蓮如は臭い、蓮如は臭い」という声が上がってしまい、机を並べて勉強もできなくなり、比叡山の北谷に掘っ建て小屋を建て、お師匠様から書物を借りて勉強を続けていきました。

 食べ物と言えば、木の実を拾って口にし、食べられる草を何もかも鍋に入れ、味付けもないまま炊いて食べる生活を送っていたのです。そのような生活の中で学んだ事が、後の蓮如の生き方を決めていく事になったのでした。

 蓮如が山を下りてすぐ、本願寺第六代法主蓮如の祖父である「巧如上人」は、蓮如の父「存如」にその座を譲りました。

 その頃の本願寺の貧窮さは益々ひどくなっていて、継母に虐げられている蓮如は、一日一食しか食べられなず、弟たちとは違うお粗末な物でもありました。

 それでも、父の補佐役としていろいろな書物を書写し、それをお金に変えていき、家計を助けていきました。

 祖父の巧如上人がお亡くなりになってしばらくして、蓮如上人は結婚することになります。

 伊勢平氏の流れをくむ伊勢貞房氏の娘で、法名を『如了』さまとおっしゃいます。

幼くして母と別れ、母の温もりにあこがれていた蓮如は、心のよりどころができた事で、益々布教や寺務に精を出していきます。そんな姿を、叔父の越中井波瑞泉寺の「如乗」はいつも見守っていました。

 如乗は父存如上人の弟で甥にあたるのですが、叔父甥と言っても蓮如と年はそう離れておらず、蓮如は兄のように慕っていた中なのでした。如乗も蓮如の聡明さをいち早く見抜いていて、一緒に語り合うことが大好きだったのでした。

 部屋住み時代の蓮如は、益々修行に励み、貧しいゆえ燈油を買えず、薪の火や月明りで聖教を読み、親鸞聖人の残した「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」や存覚上人の「六要抄(りくようしょう)」などは、表紙が破けてしまうほど読み、またそれを自分の手で書き写し、どんどん、どんどん、真宗の教義に精通していくのでした。そしてそれを、いかにやさしく大衆に説いていくかを考え、研究していたのでした。そんなお人柄から、多くの信徒が彼の人望に魅かれていってしまうのは、ある意味必然だったかのように思われます。

 本願寺に訪れた信徒達にこんな逸話が残っています。

 父、存如上人の説法が終わると、その説法に耳を傾ける信徒の人柄を見極め、自分の部屋に呼び入れて楽しく歓談されているのです。その中に、金森(かねがもり)の道西という人がいました。

 琵琶湖大津の対岸、今で言う守山市のあたりに住んでいた道西は名主、つまり大地主でした。その頃、このような地域の有力者が在所に寺や道場をつくり、周囲の人々を集めて説教し、法事を行っていたのでした。

 蓮如より十六歳年上の道西は、本願寺を訪れるたびに彼の部屋へ招かれ歓談し、彼の人格に魅せられ、彼を自分の道場へ招いて、在所の衆に説法をしてもらっていたりもしました。

 そしてある日、道西の甥の一人を蓮如側用人として彼に預けたのでした。その名を慶聞坊竜玄といって、当時まだ十歳でしたが、本願寺の貧乏時代から蓮如に仕え、彼が死ぬまで苦楽を共にした人となるのでした。

 蓮如には数多くの忠臣というべき人間がいます。武家でいう忠臣とは、栄達を求め、利害関係が絡みます。しかし、貧乏所帯の本願寺であり、後に首に賞金を懸けられるような蓮如の側近にいて、数多くの辛酸をなめさせられ、無償の行為を行う人間が大勢いたところに、蓮如の器の大きさと人望、そして魅力が知りえると言えるでしょう。