BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その5】

 

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親鸞聖人ゆかりの地


三十五歳の時のことです。本願寺代々の門主の例にならい、蓮如は初めて関東布教の旅に出ることになりました。これは、正しい布教をするためには、世の中に出て大衆の意識を学ぶということと、御開山である親鸞聖人のご苦労を学ぶというものでした。

 こうした布教旅行に蓮如は、非常に積極的で、部屋住み時代に三度も出ているのです。何百里といった道のりを草鞋で歩き通します。

 彼の足にはその草鞋が食い込んだ跡が、一生消えなかったのは、このころからの行動力があったからなのでしょう。晩年、蓮如は側近のものにその足を出して見せ、贅沢になって呑気になった彼らをいましめていたそうです。

『布教は足でおこない、お念仏の尊さを知ることこそが、御開山様からの教えだ』と伝えているのでした。

 布教の旅をする蓮如が、京都を離れ、目の当たりに見た当時の日本は、農村地帯の貧しさ、数々の飢饉のたびに餓死していく人の姿でした。

 ですから、自分自身の貧乏や苦労などは、何ほどのこととも思っていなかったことでしょう。

 父、存如上人と初めて行った布教の旅。京都から琵琶湖を通り過ぎ、越前から加賀へ向かう時のことです。

「ここが、のこぎり坂じゃ、御開山様が越後へ流されるとき、この地までついて来てくれた信徒さんに、歌をお詠(よ)みなされたそうじゃ。」

「この地で、でございますか。」

「そうじゃ、ここはのこぎりの刃を縦にしたように、上っては下り、上っては下り、本当につらい坂なんじゃ。この地を細呂木と言うてな、御開山様はこう詠まれたのじゃ。

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場所が移動された「のこぎり坂」の碑


『おとにきく のこぎり坂の ひきわかれ 身の行く末は 心ほそろぎ』とな。

遠い遠い越後の国、自分がこれからどうなるのか、本当に不安で悲しくて仕方がなかったのじゃろうな」

 浄土真宗の開祖親鸞聖人もまた、数多くの苦労を重ね、ご布教されたのだな、と蓮如は深く深く考えたのでした。

 のこぎり坂を上り終えると、波の音が聞こえてきました。

「父上、この先は海なのでしょうか。」

「そうじゃ、この辺りは、本願寺と姻戚関係にある大和興福寺の荘園でのぅ、海が近くに望める場所があり、『よい岬』というところから「よしざき」と呼ばれているそうじゃ」

「よ・い・み・さ・き・・・か」

この北陸行脚の布教旅行が、後の蓮如の行動の基盤となっていくのでした。

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日本海は見えません!

 長禄元年六月、蓮如の父「存如」がお亡くなりになられます。

 一四五七年のことでした。貧しくはあっても本願寺には由緒正しい血筋があります。必然のように、継母「如円尼」と不仲であった蓮如に相続争いが巻き起こります。如円は、自分の長男である応玄に本願寺を相続させようと画策します。蓮如は、氏知らずの下働きの女中の子であり妾の子です。正妻の子である「応玄」が家督を相続するのが本筋だというのでした。分割相続のないこの時代、相続問題は「すべてか、無か」という争いになるのです。画策する如円を横目に、ただただ蓮如は黙視を続けます。六歳の時に実母と別れ、たとえ虐げられていたとはいえ、長年養ってもらっていたという恩義を感じていたのです。それゆえ存如上人の葬儀では、門主代理という大役でさえ、義弟の「応玄」に譲っていたのでした。