BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その6】

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如円尼ゆかりの地(https://naka-go.at.webry.info/201507/article_4.html


 後継者争いの蓮如を、強固に本願寺の後継者として押す人間が現れます。それは、叔父、越中井波の如乗でした。如乗は本願寺の親族の中で最大の発言力を持っていたのです。そのあと押しのおかげで、晴れて蓮如は、本願寺第八代法主の座に就くことになったのでした。

 相続争いに敗れた如円と「応玄」たちは、本願寺の土蔵に収めてあった宝物をいっさい、ひそかに持ち去り、後には小さな味噌桶ひとつと小銭が少々あったと言います。

 後継者争いの敗北に逆上した継母の最後の抵抗だったのではありますが、そんな継母が最後に何をするかを想像できた蓮如は、本願寺で最も大切な御開山ゆかりの遺品などは、しっかりと隠しておいたのでした。

 加賀の大杉谷に去って行ったといわれる継母と義弟たち。蓮如は、後に彼らを探し出し、新たに本願寺一族へと誘い入れています。蓮如は、たとえ虐げられた継母とはいえ、ある意味貧しい本願寺を支え、自分や子供たちを養ってくれた恩義を、いつまでも忘れていなかったのでした。

 本願寺第八代法主となった蓮如上人、四十三歳のことでした。

 

 法主となった蓮如は、さっそく宗門の革新運動に邁進し始めます。長い長い部屋住み時代に考え抜いた事を実践し始めたのです。

 

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元来本願寺は、山門延暦寺の庇護の下にあって、その末寺のような観を呈していました。近くには天台宗門跡寺院のひとつ「青蓮院」があり、本願寺法主は代々その「青蓮院)」で得度をしていたのでした。蓮如もそこで行っています。

 それゆえ、本願寺代々の法主天台宗の影響をうけていて、本堂の装飾物にも天台宗系統のものが数々あり、護摩壇もありました。それを蓮如は大胆にも風呂の焚き付けにしてしまったのです。

 つまり、天台宗の影響を取り除き、親鸞聖人独自の考え方に基づき、宗門全てを変えていこうとしたのです。

 また、法主が信徒と面会するときに座っていた上段の間を取り外して、平座に相対するようにしました。「門主の権威」というべきものすら、取り払ってしまったのです。

 蓮如上人のお人柄と業績を耳にするとき、よく『平座説法』という言葉が出てきます。阿弥陀如来の慈悲の前では、すべての人間が平等であり、教えるものと教えられるものとの差別もありえないのだということを実践されたのでした。このことは、現代の日本にも通じて来るもので、民主主義の基本である平等の精神を、六百年も前に蓮如上人は人々に知らしめていたのです。

 このような宗門改革と蓮如の人柄もあって、本願寺には多くの信徒が訪れ、貧乏寺から脱却していったのでした。ただそれは、内部改革から行ったことだったのではありますが、その様子を疎んじる組織からの、闘いのきっかけとなっていってしまったことは残念でした。

 寛正六年正月九日、比叡山延暦寺から一通の『牒状(ちょうじょう)』が突き付けられます。一四六五年のことです。

 天台宗から見れば邪悪なふるまいをしているとみられてしまう真宗の教え、それを戒めるぞ、という脅迫状です。

 そしてついにその日がやってきてしまいます。

 本願寺が焼き討ちにあってしまったのです。山門衆と呼ばれる僧兵たちなど、約百五十人が本願寺を攻めたててきたのです。

蓮如はどこだ~、蓮如はどこだ~」

蓮如を殺せ~、真影を壊せ~」

本願寺はたちまち火の海へと化してしまいます。

 蓮如の命も、そして御開山様の御真影すらも危なくなりかけましたが、とっさのところで下間法教が火の中へ飛び込み、御真影を背中にしょって逃げていきました。

蓮如様~、こちらへ~」

たまたま本願寺に居合わせた棺桶屋の「イヲケの尉(じょう)」という人が、蓮如上人を近くの正法寺へと落ち延びさせました。

 襲ってきた僧兵たちは、御堂衆の「正珍」というものを蓮如上人に間違えて捕らえ、大喜びしていたのですが、間違えに気付き、再び蓮如を探しまくることになりました。そのようなとき、本願寺が焼き討ちされたということで、多くの信徒が集まってきます。琵琶湖近くの堅田からも多くの門徒宗が集まりました。その人々の眼には涙がたまっています。

蓮如様はご無事か~、お命は~」

蓮如を助け出した「イヲケの尉(じょう)」もまた、本願寺堅田門徒の一人でした。門徒宗に助けられ、蓮如は京を離れたのでした。

 それから約五年もの間、蓮如は、堅田を中心に布教活動を行っていきますが、いつの日か京の都で本願寺の再興を堅く胸に秘められていたことは間違いありません。

 堅田本福寺に「法住」と云う人がました。法住もまた蓮如上人の人柄に引き寄せられ忠臣の一人となり、弟の「法西」とともに、本願寺の苦楽を蓮如上人とともに味わった一人でした。

 ある日、本福寺に身を寄せていた蓮如は法住にこう話します。

「儂は北陸へ向かうことにする」

「どうなさいました、いきなり・・・」

「北陸には本願寺ゆかりの寺もたくさんある。それに如乗殿の井波には恩義もある。今一度、御開山様の教えを正しく広めねばならないと思うのじゃ。それが本願寺の再興にもつながるであろうでのぅ。」

本願寺の再興であれば、この堅田でもよろしいのではないでしょうか」

「法住、この地ではあれが近すぎる・・・」

そういって比叡山を指さすのでした。

 蓮如五十七歳、本願寺焼き討ちの二年後に応仁の乱がおこり、日本中が東西に分かれ、多くの戦の真っ最中の時でありました。