BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

日本仏教に未来はあるのか?【その2】

 日本仏教に未来はあるのか・・・などと大きく考えてみたものの、
そのテーマの大きさを深く感じている。

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村はずれにある石像。(聖徳太子が祀ってある)


そして自分の考えていたものが、単なる経済的な事ばかりだったことに恥ずかしく思えてきたのである。

 結論から述べていくと「日本仏教は地球に日本人がいる以上、
無くてはならないものだ!」と思っている。

諸説あるが、

聖徳太子によって仏教が導入されて以来、
紆余曲折がありながら、長い伝統と共に日本という国の歴史のように、
『哲学』としての日本仏教が世界に認められていく日が近いと感じるのである。

自分の「宗教観」だが、人それぞれ持つ感覚や感情は違う。
神であれ、仏であれ、信じるか信じないかは、誰かが決めるものでもないのだ。
そう、自分自身が決められるところに価値がある。


科学の発達によって、全く「宗教」を信じていない人も増えてきている。
しかし日本人は意外と信じている人が多いような気がするのである。


おみくじであれ、占いであれ、何かに縋りたくなる人が多いと思うからだ。
そしてそれは、日本人独特の感覚で、日本人のDNAの中に組み込まれているのではないかと、今ではそう思うようになってきている。

以前「アニマに抱かれて」という随筆を書いてみたが、
自分の思っている事の10%も書けなかったことは、残念に思っている。


あの時書きたかった事の本質は、どこにでも「魂」があるという事だ。
そしてそれは、人間の心が・想いが産み出すものではないか・・・という事なのだ。

そして生活の中で四季を楽しみ生きている中での日本人の持つ「魂」または「霊」という感覚は、西洋人には、多分ないものだとも思う。
これは天台思想の「山川草木悉皆成仏思想」である。
これが日本人のもつ「信仰心」ではないのか・・・

 

さて、「何を信じるか・・・」ということは、

『人間は一人では生きていけない』という事に繋がっている。

人間かもしれない、歴史上の偉人であり英雄であり、
作家であり、歌手であり。

生きていく上で「影響を受けたもの」に対して
「信じられる」という気持ちが生まれてくるところから始まる。

大事にしている大好きな「ペット」かもしれない
言葉を交わせない彼らからは、「目」というもので訴えてきていると、
そう感じたことは幾度となくあった

草や花かもしれない。

学校の帰り道のこと
綺麗な花を見つけた。
持って帰ろうと手を伸ばして引き抜こうとした時、
「やめて・・・」と声が聞こえてきて辞めた事があった。

錯覚かもしれないが、あの時はその花が喋ったと思っていた。

この様な経験が自分にはたくさんあったし、これからもあるやもしれない
と、そう思う毎日なのである。


人の出会いも不思議だ
あの時の花や草も、自分と出会わなければどうなっていただろう・・・


生きていれば苦しみも悲しみも、いろいろなことがある。
そしてその時、何を感じるかが、実は本当に大事な事だと、今は思っている。