BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

政教分離の原則の中で

令和4年7月8日、元総理大臣[安倍晋三]氏が暗殺された。

安倍晋三元総理大臣

日本国としては「大事な人」を失くした哀しみで溢れかえっているたのだが、

オールドメディアを中心に容疑者の背景にある宗教に話題がすり替えられている。

いつものことだが、「アベガー」と呼ばれる人たちには、

安倍元総理は好かれてはいない。

間違った報道は相変わらず、今は「政治と宗教」の話題で持ちきりである。

そんな中、ある地方で語られていたニュースに目を向けてみたい。

真宗王国」と呼ばれる北陸での話である。

福井県あわら市は、室町時代

浄土真宗第8代法主蓮如』が布教の地として選んだ場所である。

その周知度を生かし、観光で地域活性化を目論んでいる処である。

そこの観光ガイドがつくる「Facebook」を読んでみると、

日本の歴史を語るには「宗教」というものが、

いかに大きいものなのかが理解できるはずである。

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【お寺では聞けない蓮如さんの話】

(吉崎語り部の会 Facebookより抜粋)

蓮如


<その1>「同業」・「同朋」という宗教的共同意識
「仏、ほっとけ」なんていう洒落を聞いたことがあるだろうか?子どもの頃、マージャンを楽しむ父親のそばでよく聞いた言葉である。実は蓮如さんの逸話を楽しみ出したのはこの頃だった。仏様のお話を聞くなんて、今ではお葬式の場でもないのかもしれない。でも自分たちは違った。日常会話の中で必ず「蓮如さん」が出てきていた。
運動会の日「今日はお天気が良くて良かったねぇ、蓮如さんのおかげやわ・・・」、そう常日頃から感謝の気持ちも、こうして覚えて行った。みんなで楽しむということもそうだ。仏の前でみんな平等であるというものを知ったし、キリスト教の聖職者は妻帯しないという事を知ったのもこの頃だ。その時日本のお坊さんが最初に結婚して子どもをもうけたのは親鸞聖人で、それは蓮如さんのお師匠さんだという事も知ったのである。
実はここ北陸地方浄土真宗が根付いた大きな理由があると思っている。それは雪深い気候と大きく関係していて、貧しい暮らし(生活)があったからだ。テレビもインターネットも無い暮らし、現代人では全く考えられないかもしれないが、そんな生活を送る人たちに楽しみを与えてくれたのが「法座」というものなのである。そしてそこで、倫理観や道徳観も学んでいったのである。わざわざお寺に行かなくても僧侶のお話を聞いていた時代であり、農業で暮らしている中で助け合うという事の大切さを知っていることが、非常に大きいと思っている。
真宗のお寺では信徒は檀家とは呼ばず「御同業」とか「御同朋」という。この宗教的共同意識が「自治体」の基本にある事を学ぶべきだと感じる。

国指定史跡『吉崎御坊跡」を案内する「語り部


<その2>商人の町「大坂」
親鸞聖人と蓮如さんの関係をよく質問されます。正確に言うと親鸞聖人(1173~1262)と242年の隔たりがある子孫が蓮如さんなのです。兄弟ですかとかほぼ同時期の人のように理解している方も多いのが現状ですが、作家五木寛之さんの著書「蓮如」の中では「親鸞を求道者とするなら蓮如は伝導者」だと述べていますし、宗教学者山折哲雄さんは「親鸞原理主義路線で蓮如は大衆伝道路線である」と著しています。日本最大の真宗本願寺教団が出来上がったことは、この二人の関係性が一般庶民に受け入れられた成果だと捉えるべきでしょう。正に日本の精神文化の神という神髄がここにあると思うのです。

蓮如直筆の和歌


また蓮如さんを語る一つのポイントに、『大阪』があります。大阪という地名の名付け親であり、1496年82歳の蓮如さんが堺や各地の商人とともに石山本願寺を建て、寺内町を作ったことが挙げられます。寺内町というのは城下町でも門前町でもなく、お寺を中心とした要塞都市です。このため、あの織田信長が10年かかっても攻め落とせなかったのです。そしてこの10年の戦いで信者の同朋意識、共同体意識は益々高まったことに、「商人の町大阪」が出来上がったと言っても過言ではないでしょう。
現代は「拝金主義」が主軸となり「金儲けのためなら何をしても良い」という風潮に染まっています。それが宗教分野にも広がり、新興宗教が台頭し、人間の心の弱さを突いた「霊感商法」と呼ばれるもので人生を狂わせてしまった人が出ています。また、宗教団体が会費を集め、その会員の中でお金を廻して行くという『組織だった動き』があります。実はその基になっているものが、蓮如さんが広めた「講」と呼ばれる『宗教的共同意識』なのです。本当に残念なことです。そこには、仏教の持つ「悟りの文化」などは消し去られ、単なる拝金主義だけの宗教だと気づいてほしいものです。
蓮如さんは、「仏の前では、貴賎の差はなく平等である」と門信徒と同じ高さに座り、どんな人でも、同胞、仲間、友達という『平座』の思想を説いていたのですから・・・。

石山合戦武者絵


<その3>どうなる?寺院経営
商人の町「大阪」を語るには必ず「石山合戦」の歴史を紐解かなければいけません。そしてそれは「一向一揆」のお話に通じていきます。そしてそれが、日本の歴史上はじめて「宗教国家」の誕生へと繋がっていきます。

残存する「御文」(お西では御文章)


蓮如さんが吉崎に来られた頃の日本の現状はどうだったのだろうかと質問されたことはあまりありませんが、御文(御文章)には1471年7月27日に『鍬入れ』という記述があります。京都から偉いお坊さんがお出でになるという事で、その土地や材木に人夫代などは全て有力豪族の「寄進」でした。今でも寺院の改築などの費用は、檀家や御同行からの寄付で賄うのが基本です。しかし、このやり方が未来永劫続いていく事はもう無理だと思っています。後継者不足と共に、一部の大寺院だけしか残ることになってしまうと思われるからです。特にここ北陸では「豪農」と呼ばれた人たちがいなくなってしまっていますから、小さなお寺の行く末は心配でなりません。その経済的に困った寺院の身売りなどが起こっているのは周知の事実です。非課税という特権を狙って「宗教法人株」が狙われているのです。これは真宗だけでなく多宗派の仏教寺院などすべてがその対象なのです。
1998年頃から蓮如さんの500回忌を開催するにつれ、寺院関係者から『550回忌にはどうなるかわからない』という声を聞いていましたから、北陸の小さな真宗寺院は潰れていく運命なのかと感じていたのは確かです。都会では寺院の有する巨大な土地を利用して、駐車場や貸店舗などあの手この手で、『寺院経営』を行っているのでしょうが、過疎化と高齢化に悩む北陸の農村部では生き残るのは難しいと思っています。作家百瀬明治さんは『大実業家蓮如』として著しているのですが、経済重視の現代こそ、この蓮如さんの遺徳を偲びその魂を次の時代へ運んでいく事が、与えられた使命のような気がしてなりません。真宗の宗祖親鸞聖人ではなくて、中興の祖としての蓮如さんの足跡を学び遺徳を伝えていく事が大切なのだと感じています。
では、蓮如さんの足跡の大きなものは何でしょう?
それは、経済発展と言えるものを作り出したことだと思うのです。その大きな具体例が「大阪」の発展です。蓮如さんは吉崎に一宇の坊舎を建て、大勢の信者を作り出したというだけでなく、毎日200以上の南無阿弥陀仏という御名号をお書きになり、それを一枚800文で信者に渡していた(下付していた)そうです。そしてそれが、今でいうご仏壇の代わりになり、各家々で「お勤め」が必要だと説いていったのです。
「商人の町大阪」の発展に真宗の教えがあったことを知れば、「拝金主義」に走っている人は驚きを隠せないかもしれません。
<その4>布教活動の苦労を忘れた現代
大阪の町を作ったのが蓮如さんの「教え」からだと思うと、真宗門徒だけでなく仏教に携わるすべての人が意外に思うことでしょう。真宗だけが偉いのかと言われそうです。経済発展した現代であるからなおさら解らないかもしれませんが、蓮如さんの教えからなる「宗教的共同意識」の確立が大事なのです。

御文


吉崎を布教の地と決めた蓮如さんは、親鸞聖人の教えを説いて歩く時に、その地域の乞食坊主(こじきぼうず)や年寄(長老)村長(むらおさ)を最初に考えていました。その頃の「知識人」と呼ばれた人たちです。字も読めないし言葉の理解力も乏しい人が多かったのですからやむを得ない時代です。北陸は古くから京の都と行き来もあり野蛮ではなかったと言われています。確かに、奈良の都との交流がありましたし継体天皇の逸話もあります。何より「白山信仰」の恩恵を被っていた場所だったのが大きかったからです。蓮如さん御布教活動は、今で云う「新興宗教」と呼べるものです。ラジオやテレビましてやインターネットなど無い時代、その布教活動がいかに大変だったのかを考えてみてください。
蓮如さんのご苦労を考えていない真宗のお坊さんが、本当に多くなったと感じています。特に親鸞聖人の報恩講は行っていますが、蓮如さんは行っていないというか、目立っていないのが現状なのです。「親鸞を求道者とするなら蓮如は伝導者」という観点からすると、今一度蓮如さんの足跡を思い返す時代が来ていると思うのです。特にここ北陸では・・・
「宗教的共同意識」の確立が経済発展に繋がっていると記述しましたが、実はこれが蓮如さんの評価に繋がっています。日本の知識人と呼ばれる人は、おおむね蓮如さんに対しては批判的です。しかし高度成長期はとりわけ高く評価されていました。学者や文化人より商売人に評価されていると言っても良いのかもしれません。
 残念なことは、真宗大教団となった「本願寺」の流れをくむ寺院の各々が、布教のためにご苦労された「蓮如さん」のことを、語られなくなったことです。そう、現代社会の病と同じように、祖先を敬い尊敬し、先人たちの思いを未来へ繋げて行こうという「気概」が見えて来ない事なのです。

蓮如さんかるた


<その5>蓮如さんかるた
蓮如さんのご功績を語るのはおこがましいのですが、「お勤めの作法」というものをひとつに挙げたいと思います。これは、「宗祖」親鸞聖人の「正信念仏偈」(正信偈)と「三帖和讃」(和讃)を朝夕に唱えるという「勤行形式」の発案です。この「おつとめ」が蓮如さんの没後500年以上経った今でも、真宗の原点にあるという事を忘れてはならないと思うのです。「お経を唱える」のは僧侶だけでなく、「信心を得る」ために必要なことだったのです。そして、蓮如さんが下付した御名号が『仏壇』の原点であり、後に「仏壇文化」の発展へと繋がりました。そうです、新たな起業になったのです。これによってお寺へ通うことなく真宗の『心』を孫子の代まで伝えていく事になり、新たな「門信徒の拡大」にも繋がっていきました。
また、蓮如さんが始めた『講』という集まりの基本は、日本の根幹である農業からであり、助け合う精神のもとで、各村々で「集まり」が開かれ、蓮如さんからの「御文」(御文章)を読んで学び、また明日への労働の活力となるものだったのです。この歴史上『惣村』という共同体の確立は、『同行』として商業への発展にも繋がっていきました。商人に「信用を得る」という掛け替えのない力を与えていたのです。商売をする上で何よりも大切なのは信用であり、同じ宗教であることが同胞意識を与え信用を増すことになるということです。昔から「商人、奉公人、猟師これらの人は『浅ましき罪業』のひとである」とレッテルを張られていたのですから、この教えの事で『光』が見いだせた人も多かったことだろうと推察できます。「人は皆平等」という「教え」がもたらした実例だと思います。
仏教では古くから、「女性は『五障・三従の身』であり救われない」としていた考え方にも、蓮如さんは「女人救済」を語られています。つまり「仏の上では、男女や職業の差別なく平等である」という現代では当たり前のことを説いていたのです。魚や獣を採って暮らす漁師や猟師と同じように、仏の前では、どんな人でも、同胞、仲間、友達という平座の思想を説いてたのです。この『平座思想』、現代とはどこか違うと思いませんか?それは「信心」という「阿弥陀様への想い」だというものだけではありません。一番初めに『命の尊さ』を訴えているのです。
 残念ながら、現代は忙しい時代です。仕事に子育てに近所付き合い、それにストレスが溜まるから息抜きのための娯楽も必要です。時間がいくらあっても足りないというのが現状です。ですから「仏法」に親しむという事は、寺院関係者しか無いのかもしれません。それに、いつしか「仏法」は高齢者になってからという風潮が生まれてしまいました。本当に残念です。蓮如さんがお聞きになったら悲しくて仕方がないと思います。でも、その『蓮如さん』のことも、「誰・・・?」と言われてしまう時代になってしまいました。

 あわら市では、蓮如上人ご生誕600年をお祝いし「蓮如さんかるた」を製作しました。一般公募のなか『レ』の字には、当時吉崎小学校児童が応募した「蓮如さん御文で教え広めたよ」が選ばれましたが、廃校となってしまった今考えると、淋しいものがあります。


<その6>おもてなしハンドブック

 蓮如さんのお話を聞かなくなったことは、お寺に対する考え方が変わったことが上げられますが、それ以上に、『縁』というものへの考えも変わってきてしまいました。お寺はお葬式の時だけの関係で良いと思い、核家族化が進み、離れて暮らす親子もお葬式の時だけの親戚付き合いと同じように、地域との繋がりも薄くなり、親子親戚という大事な血縁関係の大切さも忘れられてしまっているのです。そしていつしか、人間は多くの人や祖先と繋がって生きているという事をも忘れてしまい、一人で生きているという錯覚に陥ってしまっています。ですから当然祖先への敬意などは失われてしまっているのです。
 今、生きていられる事への感謝を忘れてしまった以上、仏壇やお寺と関わる事はなくても良いと思うだけです。「御文」や「おつとめ」など蓮如さんの『遺された』ものを考えみれば、現代の悪いとろが見えてきます。まったくの「拝金主義」で『心』のない世の中になってしまったということです。もちろん「仏教界」も同じようなものです。全てがそうだとは言えませんが、「お葬式を喜ぶ」人がいて、葬儀屋さんをはじめお花屋さん、お弁当屋さんにお坊さんとすぐ頭に浮かんできてしまいます。人が亡くなったことの「哀しみ」が二の次三の次になっているからです。そうです、悲しみを抱いている人の気持ちが「後回し」になってしまっているからです。この感覚は『死』というものだけでなく『病』というものも含まれています。病気で苦しんでいる人の「苦しみ」を考えてあげられない人、つまり、相手を思いやれない人がいる事に、かぎりない辛さを感じてしまいます。『口先だけで心がない』時代になっていると思うのです。そしてそれは、商売や仕事にも通じています。「給料だけ貰えればいい」ということに・・・、「相手の心が解らない」、「相手を思いやれない」時代は、ある意味、「相手の心がわかりやすい」時代かもしれません。「お金か…」ということです。
 蓮如さんは、「寒いときには酒などをよく温めさせて『道中の寒さを忘れられるように』 と仰せになり、また暑いときには『酒などを冷せ』 と仰せになられた」そうですが、思いやりのある言葉をおかけになった方です。「おもてなし」の原点がそこにあると思いませんか。『心』のない行動や言動は慎むべきだと思うのです。
 以前、あわら市では「おもてなし」という観光パンフレットを作りました。今はこの存在すら忘れられてしまった感じがしますが、その底辺には「蓮如さんの心」が流れているのです。
 御文と言えば「白骨」が有名ですが、これは他宗派でも使われていると言います。ところが真宗でもあまり使いたくないものがあると言います。それは「電光朝露」というものです。「門徒より施物(せもつ)を受け取り、その門徒を良い弟子と言い、信心の人であると言っていますが、それは誤りです。」という御文です。機会があれば、ぜひお寺で尋ねてみてください。お坊さんにたくさん施しさえすれば、自分の力は及ばなくても、お坊さんの力によって阿弥陀様はお助けになるのかということです。そして今一度、御文を学び蓮如さんの「お心」を考えてみてください。今から500年以上前に、蓮如さんが考えていたことを・・・

 

吉崎蓮如忌の紹介



江戸時代の近江商人伊藤忠商事」のHPより)


<その7>現代経済界の歴史
【お寺では聞けない蓮如さんのお話】
 高度経済成長を果たした『日本』においては、蓮如さんの布教活動が花開いたと言っても良いと思います。それは、有名な「近江商人」の成功の秘訣を調べていくと、先祖を祀り伝統を重んじていたことが良く判ります。家訓や店則に「和合」「出精」(精を出して働くこと)「不奢」(贅沢しない)「孝行」の言葉がよく出てきます。つまり、真宗の倫理観が受け繋がれていると思うのです。近江商人がよく口にする「三方よし」は「売り手よし、買い手よし、世間よし」で、この「世間」とは社会の事を指しています。売り手買い手の利益だけを求めるだけでなく、社会にも認められるような商売を行っていたのです。特に代表的なものが「陰徳善事」です。そう、「目に見えぬ陰の間に人のために」という事です。仏教の「自利利他」の教えから、商業上の利益を宗教上の『ご利益』として正当化していったことが挙げられるのです。この辺が、蓮如さんを「職業的宗教人」と呼び、宗教研究家や知識人から好まれなかった原因だと思われます。そして、逆に考えますと「非僧非俗」と自称した親鸞聖人とは、ここが違うところですから、江戸時代の上方商人に受け入れられたのだと思います。つまり、経済重視の現代において、ただの利益追求だけの商売ではなく、『心』のある行いがその商売に繋がる事を望むばかりです。欧米文化に追いつき追い越せの歴史を考えなおし、日本古来からある仏教の『精神文化』と融合した経済活動が大事なのではないでしょうか。
 「他力本願」という本質が理解されにくいところかもしれませんが、人の命というものは儚いものです。
親鸞聖人の和歌、「独り来て、独り死ぬべき旅なれば、つれてもゆかれず、つれられもせず」の中には、その儚さと淋しさが埋めいていますが、「阿弥陀様は見ておられる」という信心こそが、商売の「基本」にあったのではないでしょうか。
 コロナ過の中、経済重視の政治が表に出ていますが、日本人の心の中にある「思想観念」が、世界に通用する時代が来ていて、日本が「世界のリーダー」と成り得る時代だと思うのです。

廃校となった吉崎小学校児童の「地引網体験」


<その8>小女子伝説

【お寺では聞けない蓮如さんのお話】

 マスメディアを騒がせている「旧統一教会」の問題は、政治家と宗教団体の関係が取りざたされているわけですが、結局は寄付に頼っている宗教団体の金額がどうだのこうだのと言っているだけです。そしてその集め方が「強制的」であるということがおかしいというわけです。憲法で定められている「思想信仰の自由」での、人の精神の自由について保障する自由権について議論されているわけではありません。そして、なぜ日本において、このような憲法で「政教分離」が定められているのか?そこが本当の問題だと思っています。
 かつて「百姓の持ちたる国」と呼ばれた時代がありました。加賀の一向一揆のお話です。優雅な貴族の時代に別れを告げ、680年に及ぶ武士の時代が訪れました。それが江戸時代の260年を経て、いつしか現代日本の礎となり明治維新を迎えました。その日本の歴史を紐解くと、実は日本文化の下支えが仏教にあることが解ってきます。今では歴史の勉強も深く行われていなくて、欧米化が進み、日本古来の文化が軽くあしらわれてしまっています。すごく残念です。この、『日本の精神の軸』に東洋思想が基本にあり、儒教、仏教、聖教、禅仏教、そして神道と、これらが融合された「日本文化」が世界に誇れるものであることを学ぶ人も教えるも、いなくなってしまったからです。   

 蓮如さんは、「悟り」の宗教である仏教の核心の、『いのち』の大切さ」というものを語るために、多くの動物の逸話を残しています。若い時に「延暦寺」で学んだ「天台思想」がその基本にあります。後にその延暦寺との関係を断つために、色々な軋轢が生まれてくるのですが、『一切衆生悉有仏性』という「全ての生きとし生くるものには仏性がある」という大乗仏教における重要な思想です。ですから動物の出てくる逸話を聞いていると、知らぬ間に命の大切さが学べるのです。面白おかしくです。
 この頃の延暦寺の存在は、日本の歴史を知るためには大変貴重であり、そこは当時の「総合大学」の位置づけにありました。そこで学んだお坊さんに対して、一般庶民が敬意を持って接したことは理解できると思います。ところが蓮如さんの「平座思想」は、そんな僧侶への敬意を失くさせてしまったところがすごいのです。職業での差別も男女の差別もないという教えをなさる蓮如さんが、大衆の心をつかんでいったことも良く判るというのも納得です。
 現代は「皆平等」と言ってはいるものの、どこかで権威と権力が渦を巻き「おごり」を表に出しているに人や『富めるものと貧しいもの』から、「妬み」や「恨み」を与えてしまっている「人間関係」が見て取れます。そしてそこに『命の大切さ』を忘れてしまったかのような行動が出てしまっているのではないでしょうか。いつのまにか上座に上がる事が当たり前だと思う僧侶のように、「法治国家」であるという事を条件に「法の抜け道」を探し出し、『共同で生きている』事も忘れ、「自分だけの特権」を蔓延らせているところを見ると、益々蓮如さんが恋しくなってしまうのです。今一度、蓮如さんの逸話から「人間のありし姿」を学ぶ時代が訪れたのだと思うのです。

 吉崎には「小女子伝説」という逸話があります。ある日さっぱり魚を採れなくなってしまった漁師たちと困って蓮如さんに相談したところ、漁師たちと一緒に蓮如さんが海へ出て、紙の「こより」を海に巻くと、その「こより」が「小女子になった」というお話です。まあ科学の発達した現代ですから、嘘のような逸話ですがよく考えてみてください。和紙で作った「こより」を餌として小さな魚が集まり、それに伴ない大きな魚が集まるようになったと考えれば、「理にかなった伝説」だと感心できるでしょう。ところがその逸話には続きがあって、漁師たちにこう蓮如さんは告げたそうです。「おまえたちは魚を100匹取ったら全部食べてしまうだろうから、せめて2匹だけ逃がしてやってくれんかのぅ」ということです。つまりは、生かしてあげるのもそれを繋げて行くのも必要なのだと・・・

蓮如さんかるた」にある「の」・・・


<その9>政治と宗教
 経済重視の現代では、蓮如さんへの信頼度が薄らいでいると感じる時があります。
それは政教分離のせいでもなく、ただ科学の発達とともに「神」や「仏」の存在が無意味だと考えるようになり、仏教への信頼度が無くなってしまったことと、蓮如さんの教えを学ぶ『機会』が無くなったことに理由があると思っています。

 人間弱い生き物です。『自然』という大きな力とに闘いの中では、全く弱弱しく小さな生き物が「生きていく」ために知恵を出し合い、助け合う必要があったのです。
 日本は仏教国です、仏教によって日本国という集団形成が成された訳ですから「鎮護国家」という言葉が持ち入れられても仕方がないでしょう。

 飛鳥時代に仏教が伝わり、「金光明経」や「仁王経」といった仏教仏典が基本となっているのです。そして平安時代になり、中国で学んできた「最澄」と「空海」から新たな天台宗真言宗が生まれ、そこで学んでいった人が、また新たな宗教を唱えていくようになりました。まさに鎌倉時代に「日本独自の仏教」が確立されたと言っても良いと思います。
 その時代にたくさんの「日本宗教」が生まれていった訳ですが、浄土真宗の宗祖「親鸞」もその時の人です。ただ知っておかなければいけないのは、その頃の人は皆「仏教家」の生まれではなかったという事です。しかし蓮如さんは生まれながらにして「仏教家」の世界で育っているのです。その違いが蓮如さんの苦悩に出ていると感じるのですが、宗祖「親鸞聖人」の教えと自分自身で考え抜いた教えとの違い、そこから蓮如さんの人間臭さが生まれてきていると思うのです。
 貴族社会から武家社会へと変貌する日本国家のあり様をみて、また、自分の生い立ちの淋しさの中や、世間が飢餓や戦乱の中で「生きていく」という形を作った姿が、民衆の心を掴んだんだと思うのです。道徳心や倫理観は仏教で獲得し、生活から学んだ「生きる術」を持った宗教家、それが蓮如さんだと・・・
 倫理的で情緒的な感性を持ち、主観的で客観的な「眼」を持っていた蓮如さんは、講という集団の中で「ものを言え」という事を何度も語っています。「蓮如さんかるた」の中でも「の」の字は、私たちに教えてくれるものがあります。自分で考えて行動せよということを。
 『蓮如さんカルタ』の『の』字は、「法(のり)の座で ものを言え言え 皆の衆」です。知識を自分のものにするには、聞いているだけではなく、話し合い、疑問を相手に投げかけて「学べ」とおっしゃっていられました。それは、科学の発達した現代でも、とても大事な事だと思います。人間が他の「生き物」と違うところは、「考える力」があるところです。そしてその知識を先達から現代人へと渡して行って今の「科学」があるのです。今後、益々科学は発達するでしょう。どんどんと新しいものが発見されて、知識の集積力が高まり深まるものと思われます。

 ただ『愚かなことをしてしまう人間』だけに、共有できる精神文化が必要となるのはもちろんです。「倫理観」とともに、「宗教心」を養わなければいけない時代がやってくると思っています。そのために、「仏教」は必要だと感じるのです・・・
<その10>
【太子・食物連鎖(輪廻転生)・貧乏・支配者階級・奴隷・法華経宮沢賢治自由主義
 「蓮如さん」のことを語っていると、必ず他の仏教宗派や他の『教え』の事を述べる方がいらっしゃいます。その都度、御文の「立山・白山」を揚げるのですが、吉崎に来られた蓮如さんの布教活動は、前途多難の毎日だったのでした。特に此処北陸の地は、「白山信仰」が基本としてあり、雪深い地であり、日々の暮らしに困窮していて尚且つ白山信仰に染まっている農民と民衆が多く、その人々達に、「教え」を浸透させてしていく事はとても大変だったのです。そんな人たちに「親鸞聖人の歴史や教え」を説いて廻られた蓮如さんのご苦労を、今、思い返す時が来ているのです。
 忘れてはいけないのですが、「真宗」は、政治からも弾圧された時代があり、元祖「法然上人」や宗祖「親鸞聖人」は「承元の法難(建永の法難)」に有っています(1207年)。蓮如さんの場合は「寛正の法難」です(1465年)。

 当時、政治の中心にあった比叡山延暦寺との紛争で、本願寺が焼き討ちの目にあったのです。それがあったから、北陸「吉崎」の地へ来られて布教活動をなさり、今日があるのです。それからというもの蓮如さんへの想いも広がり、真宗門徒の大教団が出来上がり、大衆の目覚めから政治への対抗意識の現れとして一向一揆がおこり、「百姓の持ちたる国」が出来上がったのです。つまり、蓮如さんの教えの広がりが加賀の国を統治するようになったのです。蓮如さんが入滅された後も、その力がより一層大きくなり、あの織田信長と「石山合戦」です。その歴史を振り返ってみても、蓮如さんの偉大な力を感じるのですが、その時代時代に、宗教上の紛争も起こっています。信長時代の「法華経」との争いは「安土宗論」とも呼ばれていますが、その「折伏」の基本を作った「戸田城聖」は、ここ吉崎の隣の塩屋という村の出身で、父や母からの「おつとめ」や御文の影響を受けていたことを知ってほしいと思います。
 この歴史を知っていくと、「日本」という国が「聖徳太子厩戸王)」の時代から、源平合戦の時代、そして、「信長・秀吉・家康」という「戦乱の世の日本がどうあったのか?」を知るきっかけとなると思います。昨日までの『平和な日本』は、数限りない人間の血と汗が、それを作っていたことに気がつくはずです。
 いつの世も「是」と「非」があり、「支配者階級」と「被支配者階級」、「富める者」と「貧しい者」が対比されて社会は動いています。同じ仏教であっても「浄土教」と「法華経」のように、受けた人間によって解釈や扱いも変わっていきますし、その時代の人間によって、「仏教に対する解釈」が変わって来ているのも解るはずです。

 ただ、聖徳太子が仏教を奨励されたことで、儒教、仏教、聖教、禅仏教、そして神道と、それらが融合された「日本文化」が現在存在し、世界に誇れるものであると思うのです。世界共通の、命の尊さを知り、弱い人間という生き物が共同で生きていく事を重視するならば、そこに日本人ならではの『精神の軸』があるのですから・・・

法華経の影響を受けた宮沢賢治


「アメニモマケズ」で有名な宮沢賢治法華経の影響を大きく受けているように、自分の信じているものに自信を持って、「信頼」する人、「守りたい人」と一緒に、楽しく幸せな人生を送っていきたいと願うだけです。(了)