BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

お寺では聞けない蓮如さんのお話 その16

 

蓮如さんのご詠歌(残存するものは200首あまり)


文明7年(1475年)、8月。
 本願寺第8世蓮如上人が吉崎に来られて4年経ちました。浄土真宗の布教の成果は言うまでもなく、北陸各地でお念仏の声は高まっていくと共に、政治への不満から強まる一向一揆、何とかその力を抑え込もうとした蓮如さんですが、もう手におえない処まで来ていました。自分の身にまで降りかかる火の粉は、ついに彼に「吉崎退去」の決断を余儀なく下す事になったのでした。その進言をしたのは。蓮如さんの長男「順如」であったとされていますが、その「順如」は42歳で亡くなっています。蓮如さん28歳の時に生まれた順如です。
 京都の本願寺比叡山の「山門衆」によって破却されてから、父を助け本願寺再興を願って布教活動をなさる父の片腕となり、幼い兄弟たちと連絡を取り合い、面倒を見ながら働き詰めだった彼の心境を考えると居たたまれなくなってしまいます。
 ただ、そのような人たちの支えがあって、蓮如さんは本願寺の再興を果たし、現在の東西本願寺が存在する事を、忘れてしまってはいけないと思うのです。
 今、あわら市吉崎には「道の駅『蓮如の里あわら』」の建設が、この雪降る季節でも行われています。「蓮如の里『あわら』」ではなく、なぜ「蓮如の里『吉崎』」にしないのですか?と聞かれることが多々あります。所詮「観光目的」だけの施設、蓮如さんの心などは関係のない所での発想です。日本の歴史を考えるならば、「一向一揆」という事件の重さを考えられない人が増えてしまったという事だろうと思っています。
 科学の発達は、先人たちの知恵と労力で成し得てものであり、その恩恵を被っている現代人は、その人たちに敬意を払い、感謝することが必要だと思っています。だからこそ、真宗寺院の必要性があるのではないかと思うのです。
 蓮如さんが吉崎を離れる時のことです。「蓮如さんが吉崎を離れる」その声は北陸各地に広まり、嘆き涙する村人や門徒たちがいました。苦汁の決断をした蓮如さんもまた、吉崎での暮らしを慈しみ、村人たちとの別れを惜しんだと言われています。蓮如さんが吉崎退去の時に詠まれた和歌として、
「夜もすがら たたく舟ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき」
この和歌が残っています。蓮如さんの心を伝えるものとして、吉崎の地を訪れた門徒や観光客にも胸を打たれる和歌のひとつです。汽水湖であるあわら市の「北潟湖」に浮かぶこの地には「葦」(アシ)が自生しています。「ヨシ」とも言って同じ植物の事ですが、世界で最も分布のひろいイネ科の植物で、高さは2メートルくらいになります。古くは、ヨシにおおわれた岬ということから「ヨシザキ」と名が付いたとも言われていますが、「良い御崎」から「ヨシザキ」となったという説もあります。ともかく、吉崎の色々な場所に「葦」が群生しており、それを掻き分けて舟に乗る事になります。

離別の日 湖畔で見送る 片葉葦(蓮如さんカルタより)



 蓮如さんが吉崎から退去されるとき、一目見送りにと駆けつけて手を合わせる門徒や村人たちには、その「葦」が蓮如さんの姿を阻んでいて困っていたそうです。
「後生だから、蓮如上人のお姿を・・・」
集まってきた人々が皆そう願った時に、北潟湖に一陣の風が吹き、葦の葉が一片に偏り、蓮如上人、吉崎での最後のお姿を拝む事ができたという話が今でも伝わっています。
これは蓮如伝説「片葉の葦」のお話しとして、吉崎七不思議のひとつに数えられています。このような蓮如伝説は、この吉崎だけでなく、日本各地でも色々残っていますが、蓮如さんへの愛着と、教わった教義への感謝が込められているものだと感じています。

蓮如さんがいらした「吉崎」は実に『風光明媚』なところです