BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

お寺では聞けない蓮如さんのお話 その24

雑誌「URARA」に掲載された写真から・・・


 「福井県あわら市吉崎」、この北陸地方の片田舎に生まれ住んだ自分は、蓮如さんと出逢えて本当に良かったと思う今日この頃です。「観光ガイド」をさせてもらっているからだけではなく、この風光明媚な場所、山紫水明に富んだ地域だからこそ「知り得たもの」があると思っているからです。
 昨日、とある喫茶店で大変信仰心があふれ、信心深い方と時間をともにさせて頂きました。そこでの会話が弾んでいたわけですが、山菜取りの話から始まり、最後は「蓮如さん」のお話で楽しく『時』を過ごすことができました。この様な出逢いに感謝致しますと共に、相手から学ばせて頂くこともあり、「縁」という言葉を思い出していました。会話の途中で「この方の心の中にも蓮如さんが生きている」と感じたのは言うまでもありませんが、このような会話ができ、「生きている」と感謝できたからなのです。きっと蓮如さんが行っていた『法座』の中で、見知らぬ者同士の「信心」についての会話も、こんな感じだったのではないかと思いました。
 暦の上では「春」だというのに、まだまだ寒いこの季節なのですが、北潟湖で遊ぶ「鴨たち」の姿に、なんとなく笑顔がこぼれてしまい、いつの間にか寒さを忘れさせてくれます。自然がいっぱいのこの場所だからこそ、蓮如さんの「御教え」が理解できるのだとも感じています。「風光明媚」や「山紫水明」などの4字熟語も、学校で習ったから理解できるのではなく、いつの間にか覚えていった言葉なのです。そう考えていくと、蓮如さんの言葉から「信心を得る」という事も、識字率の低かったあの時代の方々でも、心に染み渡ってきたのだと思うのです。
 「『信心』とは何ですか?」と聞かれることがあります。それと、「他力本願」もです。僧侶でもない自分ですから即答はいつもできません。ただその方が「自然に寄り添うことですか?」・・・と云われたときに、つい『そうです』と答えたくなりました。日本人は元来「自然宗教心」を持っている人間なのですから、「霊」であるとか「魂」だとか「肉体から独立した」考え方があります。このへんが「欧米人」には理解できないみたいなのですが、日本人の持つ『精神性』こそ『親鸞哲学』の本筋なのだと感じるのです。常に「生きる事の辛さ」を感じながら日本の歴史が動いているという「事実」を基本において、「命のありがたさ」が理解できた人が、人間界のリーダーになってほしいと願うだけです。
蓮如さんのご詠歌を口に出しながら、新しい「気づき」を探す毎日です。
「浜坂の 山のあなたに打つ波も 夢驚かす 法の音かな」・・・

雑誌「URARA」より