BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

お寺では聞けない蓮如さんのお話 その9

福井県あわら市の「北潟湖畔の夕べ」


政治と宗教
経済重視の現代では、蓮如さんへの信頼度が薄らいでいると感じる時があります。
それは政教分離のせいでもなく、ただ仏教への信頼度が無くなってしまい、蓮如さんの教えを学ぶ機会が無くなったことに理由があると思っています。
日本は仏教国です、仏教によって日本国という集団形成が成された訳ですから「鎮護国家」という言葉が持ち入れられても仕方がないでしょう、飛鳥時代に仏教が伝わり「金光明経」や「仁王経」といった仏教仏典が基本となっているのですから。そして平安時代になり、中国で学んできた「最澄」と「空海」から新たな天台宗真言宗が生まれ、そこで学んでいった人が、また新たな宗教を唱えていくようになりました。まさに鎌倉時代に日本独自の仏教が確立されたと言っても良いと思います。
その時代にたくさんの「日本宗教」が生まれていった訳ですが、浄土真宗の宗祖「親鸞」もその時の人です。ただ知っておかなければいけないのは、その頃の人は皆「仏教家」の生まれではなかったという事です。しかし蓮如さんは生まれながらにして「仏教家」の世界で育っているのです。その違いが蓮如さんの苦悩に出ていると感じるのですが、宗祖「親鸞聖人」の教えと自分自身で考え抜いた教えとの違い、そこから蓮如さんの人間臭さが生まれてきていると思うのです。
貴族社会から武家社会へと変貌する日本国家のあり様をみて、また、自分の生い立ちの淋しさの中や、世間が飢餓や戦乱の中で「生きていく」という形を作った姿が、民衆の心を掴んだんだと思うのです。道徳心や倫理観は仏教で獲得し、生活から学んだ「生きる術」を持った宗教家、それが蓮如さんだと・・・
倫理的で情緒的な感性を持ち、主観的で客観的な「眼」を持っていた蓮如さんは、講という集団の中で「ものを言え」という事を何度も語っています。「蓮如さんかるた」の中でも「の」の字は、私たちに教えてくれるものがあります。自分で考えて行動せよということを。
「法(のり)の座で ものを言え言え 皆の衆」

法(のり)の座でものを言え言え「皆の衆」