BAMUのつぶやき

日本人だから感じること・・・

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その8】

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泉慶寺(https://yaokami.jp/1257230/


 蓮如が、越前の敦賀でご布教を終えられ帰る途中の出来事です。堅田近くの山中で道に迷われてしまいました。

 周りには家の一軒もなく、このまま野宿かと諦めていたところ、やっと一軒家を見つけることができました。そこは中井長右衛門という人の家でした。

「夜分にすまないが、道に迷うてしまいこのような時になってしまった。すまないが、一晩の宿をお願いはできまいか。」

 そう言って蓮如はその家の戸を叩きました。主人の長右衛門は、木戸を少し開け、蓮如の顔をまじまじと眺めました。そして、

「これはこれはお坊様、小さくみすぼらしい家ではございますが、こんな我が家で良ければどうぞどうぞ。さすればお腹も減った事でしょう、何か作らせましょう・・・」

そう言って蓮如を家に招き入れたのでした。

「地獄に仏とはこのことか」と、蓮如も大変喜び、もてなしを受けることになりました。

 そこに十七歳の娘がいました。名をお初と言い、母と一緒に料理を作り運んでくると、蓮如と父の会話を、熱心に聞き入っていたのでした。

ささやかな酒宴となり、阿弥陀仏の本願について話し始める蓮如の目は輝き、ひっそりとした山村での生活しか知らないお初にとっては、どんな話も新鮮に聞こえ、ただただ感激したのは言うまでもありません。

 

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蓮如上人とお初(https://lib.city.takashima.shiga.jp/mukashi/m04_1.html


蓮如は一人一人の後生を念じて話され、お初も真剣に聴聞するのでした。

 話しが終わり、蓮如上人は眠りにつくことになります。旅の疲れと酒の酔いが廻り、すぐに床につかれ眠り着いたその頃です。お初は両親の大変な話しを耳にすることになります。

「おい、金の鳥が舞い込んできたぞ」

「あんた、金の鳥って何のことだい」

「俺が里におりた時立て札があった。あの坊主には賞金が掛っているらしい。名は蓮如とか。殺して首を出した者には金一貫文。どんな悪いことをした坊主かは知らないが、金一貫文とはすごい。お初も、もう嫁入りの年頃、嫁入りにも金がかかるからの~」

「しかし、あんた一人で大丈夫なのかい」

「落ちぶれても、元は播磨の国の山名さまの家来。あんな坊主の一人や二人・・。しかし、もしもの事があるから、隣の正右衛門の助けも借りようと思う。あいつも山名さまの家来だった事だし、きっと力を貸してくれるはずだ。隣まで行ってくる。蓮如を逃がさぬようにな。」

そう言って、お初の父、中井長右衛門は出かけていきました。母はすっかり寝入っている蓮如を確認すると部屋に鍵をかけたのです。

 両親が蓮如上人殺しという大罪を犯そうとしている。今ちょっと前に、阿弥陀如来の慈悲の中で生きているという教えを乞うたばかりなのに。お初は居ても立ってもいれませんでした。何としてでも止めなければ。

 お初はそっと部屋へ行き、鍵を開け蓮如を起こしました。

蓮如上人様、どうか急いでお逃げ下さい。父が仲間を連れてあなた様を殺しに来ます。前には母がいますので、裏口からお逃げください。里への道をお教えします。」

「私を助けたとなれば、そなたはどんな仕打ちを受けるか分らんぞ。」

「私は娘でございます。だから、だからきっと大丈夫でございます。」

蓮如が家から出て行くのを見届けると、家に残ったお初は、蓮如の身代わりとなって、ぬくもりの残る布団に潜り込んだのでした。そこには蓮如のぬくもりのほかに蓮如の香りも感じる事ができました。蓮如が教えてくれた話を思い返し、想いを寄せていました。そして、蓮如とお初が入れ替わったことも知らずにやってきた、長右衛門夫婦と隣の家の正右衛門。蓮如上人の寝室に、そっと忍び込み、暗闇の中で蓮如上人の首の辺りをナタで斬りつけたのです。

すると、

「ギャー」

という若い女の声、転がったのは娘のお初の首でした。

「お初、なぜこんなところに・・・」

しばらく呆然としていた二人には、やがてお初の心が分かりました。

欲に目が眩み、尊い蓮如上人まで手にかけてようとしていた恐ろしい心。

それをお初は、身を挺して教えてくれたのだと。

しかし、蓮如上人殺しの大罪は犯さなかったものの、代償はあまりにも大きすぎました。我が子を手にかけてしまった事に、長右衛門夫婦はただ泣き崩れたのでした。そして二人は、蓮如の跡を追う事にしました。一部始終を話し、自分達が犯した罪の恐ろしさに打ち震えるのでした。

 夫婦の後悔を受けて、蓮如は二人にこう言います。

「我が子を手にかけることはこの世のものとも思えない恐ろしい所業。しかし、阿弥陀仏の本願を聞信するならば必ず救い摂られるだろう」と。

 そして長右衛門の家に戻り、ねんごろにお初を弔いました。

「お初殿、きっと儂はそなたの分まで生き長らえばならぬ。阿弥陀如来のお教えを、広く広く、多くの民に伝え広げねばならぬの~」

そう手を合わせ、お初の亡骸に誓う蓮如を見て、長右衛門夫婦が蓮如の弟子となったのは言うまでもありません。

この長右衛門が、蓮如上人の生きざまを語りつぎ、荒廃して行く世の中に、一つの光明を灯していく申し子として、末永く蓮如上人に仕えた忠臣の一人「空善坊」であると言われています。☆

 

 この頃、京都を離れ、堅田に隠れ住みながら布教活動を行っていた蓮如上人は、新たな「住みか」を探していました。焼け野原となった京の町は、やはり当時の日本の中心地であり、将軍家や公家と結びつこうとする有力武将の情報収集の場所でもありました。そんな情報をいち早く得ようとしていた人間は、武家ばかりではなく、蓮如もその一人でした。

 蓮如上人が最初の妻「如了」を娶ったのは二十八歳の時、嘉吉二年、一四四二年の事です。その年、本願寺の跡取りとして長男「順如」が生まれました。まだ部屋ずみで、貧しい時代の本願寺にあって、「順如」は跡取りとして蓮如上人の下で、幼・少・青年時代を過ごしています。弟や妹たちは、七歳くらいになると、いわゆる口減らしのため、浄土真宗以外のお寺に奉公させたりしていた頃です。

 蓮如上人が第八代の法主になった時、「順如」は十五歳になっていましたから、衰退した本願寺の立て直しに父の行動を術からず知り、助けていた事は言うまでもありませんでした。堅田にいる蓮如に、いろいろと京都での情報を掴み運んでいたのは、この順如二十八歳の頃です。そして、もたらしてくれた情報を基に、蓮如上人は、自分の教えを広げていくための、安住の地を探していたのでした。

 蓮如上人には二十七人の子どもがいました。妻帯運が悪く、奥様が病気で亡くなられては新しい奥様を娶るという形だったので、五人の奥様との間に生まれた子供たちの数です。そして、その子ども達は皆仲良く、蓮如上人を慕っていたことは、よく知られています。

大量の人骨が新国立競技場建設現場から・・・

 

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2


https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20191108-00000086-ann-soci

人骨は江戸時代のもので、そこには日蓮宗立法寺の墓地があったとか。
考古学は大変だけれど面白い学問。東京の街が発展していくようすを、お墓の下から見てくれていたんだと考えると、胸にジーンと来るものがある。
「発展」ばかりに目をやって「歴史」というものを深く考えない現代への「忠告」のような気がする。

死者数が10万人以上という「東京大空襲」から75年。この人骨はその様をも見てきたのだと考えた時、今の日本の現状を、どう意見するだろうか・・・(合掌)

 

山ぞ恋しき~蓮如上人「吉崎建立ものがたり」~【その7】

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賞金がかかった蓮如さん


第2章

 蓮如が吉崎に布教の地を求めた十年前から、日本では餓死者が何万という大飢饉がおこり、「応仁の乱」という戦乱と飢饉で、人々の暮らしはどん底状態のありさまでした。本願寺の再興を願う前に、今一度お念仏の尊さを教え広めるという考えが、蓮如には大きかったのです。

 蓮如上人の布教手段の一つに「御文(御文章)」というものがあります。

 浄土真宗の教えや、蓮如の考えを、「文」という形で各地へ送り、識字率(しきじりつ)の低かった民百姓に、村長や長老、そして京から流れていった坊主達からそれ読み聞かせ、浄土真宗の教えを広めていくという手法です。

 現存する御文(御文章)で一番古いものは一四六一年、蓮如本願寺をついで四年目のことで、本願寺が焼き討ちにあう四年前のものです。それは、堅田門徒の、道西に与えられたものです。

 それを読んでみると、災害や犯罪で涙を流す現代に通じるものがあると思ってきます。引用してみましょう。

(原文より)『当流上人の御勧化の信心の一途は、つみの軽重をいわず、また妄念・妄執のこころのやまぬなんどいう機のあつかいをさしおきて、ただ在家止住のやからは、一向にもろもろの雑行雑修のわろき執心をすてて、弥陀如来の悲願に帰し、一心にうたがいなくたのむこころの一念おこるとき、すみやかに弥陀如来光明をはなちて、そのひとを摂取したまうなり。

 これすなわち、仏のかたよりたすけましますこころなり。またこれ、信心を如来よりあたえたまうというもこのこころなり。

 さればこのうえには、たとい名号をとなうるとも、仏たすけたまえとはおもうべからず。

 ただ弥陀をたのむこころの一念の信心によりて、やすく御たすけあることの、かたじけなさのあまり、如来の御たすけありたる御恩を報じたてまつる念仏なり、とこころうべきなり。

 これまことの専修専念の行者なり。これまた当流にたつるところの一念発起平生業成ともうすもこのこころなり。あなかしこ あなかしこ 寛正二年三月日』

 

簡単に意訳すると、「親鸞聖人がお広めになった一筋(ひとすじ)の信心(しんじん)は、私たちの罪の軽重(けいちょう)や、つねに忘念(ぼうねん)や忘執(ぼうしつ)にとらわれる私たちの愚かな人間性を、いっさい問題にしないということです。

 私たち在家の者は、さまざまな仏道修行にたいする執着を捨てて、ひたすら阿弥陀如来の悲願に帰依し、疑いなく如来の慈悲を頼む信心さえ起こりますと、すぐさま如来が光明を放って摂取してくださるのです。

 ですから、仏様のほうから助けてくださるというのが、私たちの信心です。私たちは、こういう信心さえも、実は如来が授けてくださるのだと信じているのです。

 だから私たちはいったん信心を得たなら、その後で、たとえ名号をとなえるとしても、もう、仏様お助け下さいとは祈ってはいけないのです。後はただ、ひたすら弥陀をたのむ信心が起こったことによって、容易に助けていただけることをかたじけなく思って、如来のご恩にお礼を言うために念仏するのです。それが本当の念仏ひとすじの行者の態度です。私たちの宗旨で言っている『信心さえ起これば、死にぎわを待つまでもなく、平生のままで極楽往生が約束されている』というのも、この絶対他力の信仰を意味しているのです」

 これが、親鸞聖人の教えだと御文(御文章)に書かれています。

 本願寺第八代法主蓮如上人はこのような御文(御文章)をたくさん書き、信徒の輪を広げていきました。この時代に、飢えや争いで、ただただ悲しく死んいく人たちのために、自分の出来ることが信心を与えることだと思い、布教に励まれて行ったのです。本願寺という自分の家をなくし、後に、京から遠く離れた北陸の地「吉崎」を布教の地と定めて旅する彼の心の中には、社会不安の情勢が、大きく深く関わりあったものなのでした。

 後々、戦国時代の三英傑と言われる「信長・秀吉・家康」を恐れさせた「一向一揆」。日本という国を動かした日本人の心には、この蓮如の人柄や行動力から生まれたものだけでなく、自分の生い立ちからの苦労を背負って生まれた、「幸せに生きる」という責任感だけなのでした。

 血で血を洗う「応仁の乱」。室町時代の日本を二つに分けて争うこの戦いが、京の町を全て焼き尽くしたのは、応仁元年、一四六七年のことです。

 室町時代の将軍家は、守護大名による合議制の連合政権であるため、権力基盤が脆弱でした。そして当時の将軍「足利義政」は気まぐれな文化人であり、政治的混乱が生じても何ら策を取らないため、幕府を支える三管領四職守護大名たちの力が大きくなっていったのです。

 そのような中、二十九歳の義政は政治が嫌になり、早々と隠居を決意しました。そしてそれが、継嗣争いとなり、管領家細川勝元」と四職山名持豊」らの、守護大名の争いに発展し、日本中を東西に分けた争いへと広がっていったのです。

 寛政六年、一四六五年に「本願寺」を焼き討ちされた蓮如は、滋賀堅田門徒たちの力を借り、応仁の乱の真っただ中でも、焼きだされた庶民の力になるため、各地で布教活動を進めていました。

 当時、蓮如には、比叡山から多額の賞金がかかっていました。その額「金一貫文」。今の額にすると、約二千万円以上になりますが、当時の相場ではそれ以上の金額ではないでしょうか。それゆえ、金目当てで蓮如の命を襲うものはたくさんいました。

 

 

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その6】

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如円尼ゆかりの地(https://naka-go.at.webry.info/201507/article_4.html


 後継者争いの蓮如を、強固に本願寺の後継者として押す人間が現れます。それは、叔父、越中井波の如乗でした。如乗は本願寺の親族の中で最大の発言力を持っていたのです。そのあと押しのおかげで、晴れて蓮如は、本願寺第八代法主の座に就くことになったのでした。

 相続争いに敗れた如円と「応玄」たちは、本願寺の土蔵に収めてあった宝物をいっさい、ひそかに持ち去り、後には小さな味噌桶ひとつと小銭が少々あったと言います。

 後継者争いの敗北に逆上した継母の最後の抵抗だったのではありますが、そんな継母が最後に何をするかを想像できた蓮如は、本願寺で最も大切な御開山ゆかりの遺品などは、しっかりと隠しておいたのでした。

 加賀の大杉谷に去って行ったといわれる継母と義弟たち。蓮如は、後に彼らを探し出し、新たに本願寺一族へと誘い入れています。蓮如は、たとえ虐げられた継母とはいえ、ある意味貧しい本願寺を支え、自分や子供たちを養ってくれた恩義を、いつまでも忘れていなかったのでした。

 本願寺第八代法主となった蓮如上人、四十三歳のことでした。

 

 法主となった蓮如は、さっそく宗門の革新運動に邁進し始めます。長い長い部屋住み時代に考え抜いた事を実践し始めたのです。

 

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https://www.shorenin.com/night/


元来本願寺は、山門延暦寺の庇護の下にあって、その末寺のような観を呈していました。近くには天台宗門跡寺院のひとつ「青蓮院」があり、本願寺法主は代々その「青蓮院)」で得度をしていたのでした。蓮如もそこで行っています。

 それゆえ、本願寺代々の法主天台宗の影響をうけていて、本堂の装飾物にも天台宗系統のものが数々あり、護摩壇もありました。それを蓮如は大胆にも風呂の焚き付けにしてしまったのです。

 つまり、天台宗の影響を取り除き、親鸞聖人独自の考え方に基づき、宗門全てを変えていこうとしたのです。

 また、法主が信徒と面会するときに座っていた上段の間を取り外して、平座に相対するようにしました。「門主の権威」というべきものすら、取り払ってしまったのです。

 蓮如上人のお人柄と業績を耳にするとき、よく『平座説法』という言葉が出てきます。阿弥陀如来の慈悲の前では、すべての人間が平等であり、教えるものと教えられるものとの差別もありえないのだということを実践されたのでした。このことは、現代の日本にも通じて来るもので、民主主義の基本である平等の精神を、六百年も前に蓮如上人は人々に知らしめていたのです。

 このような宗門改革と蓮如の人柄もあって、本願寺には多くの信徒が訪れ、貧乏寺から脱却していったのでした。ただそれは、内部改革から行ったことだったのではありますが、その様子を疎んじる組織からの、闘いのきっかけとなっていってしまったことは残念でした。

 寛正六年正月九日、比叡山延暦寺から一通の『牒状(ちょうじょう)』が突き付けられます。一四六五年のことです。

 天台宗から見れば邪悪なふるまいをしているとみられてしまう真宗の教え、それを戒めるぞ、という脅迫状です。

 そしてついにその日がやってきてしまいます。

 本願寺が焼き討ちにあってしまったのです。山門衆と呼ばれる僧兵たちなど、約百五十人が本願寺を攻めたててきたのです。

蓮如はどこだ~、蓮如はどこだ~」

蓮如を殺せ~、真影を壊せ~」

本願寺はたちまち火の海へと化してしまいます。

 蓮如の命も、そして御開山様の御真影すらも危なくなりかけましたが、とっさのところで下間法教が火の中へ飛び込み、御真影を背中にしょって逃げていきました。

蓮如様~、こちらへ~」

たまたま本願寺に居合わせた棺桶屋の「イヲケの尉(じょう)」という人が、蓮如上人を近くの正法寺へと落ち延びさせました。

 襲ってきた僧兵たちは、御堂衆の「正珍」というものを蓮如上人に間違えて捕らえ、大喜びしていたのですが、間違えに気付き、再び蓮如を探しまくることになりました。そのようなとき、本願寺が焼き討ちされたということで、多くの信徒が集まってきます。琵琶湖近くの堅田からも多くの門徒宗が集まりました。その人々の眼には涙がたまっています。

蓮如様はご無事か~、お命は~」

蓮如を助け出した「イヲケの尉(じょう)」もまた、本願寺堅田門徒の一人でした。門徒宗に助けられ、蓮如は京を離れたのでした。

 それから約五年もの間、蓮如は、堅田を中心に布教活動を行っていきますが、いつの日か京の都で本願寺の再興を堅く胸に秘められていたことは間違いありません。

 堅田本福寺に「法住」と云う人がました。法住もまた蓮如上人の人柄に引き寄せられ忠臣の一人となり、弟の「法西」とともに、本願寺の苦楽を蓮如上人とともに味わった一人でした。

 ある日、本福寺に身を寄せていた蓮如は法住にこう話します。

「儂は北陸へ向かうことにする」

「どうなさいました、いきなり・・・」

「北陸には本願寺ゆかりの寺もたくさんある。それに如乗殿の井波には恩義もある。今一度、御開山様の教えを正しく広めねばならないと思うのじゃ。それが本願寺の再興にもつながるであろうでのぅ。」

本願寺の再興であれば、この堅田でもよろしいのではないでしょうか」

「法住、この地ではあれが近すぎる・・・」

そういって比叡山を指さすのでした。

 蓮如五十七歳、本願寺焼き討ちの二年後に応仁の乱がおこり、日本中が東西に分かれ、多くの戦の真っ最中の時でありました。

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その5】

 

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親鸞聖人ゆかりの地


三十五歳の時のことです。本願寺代々の門主の例にならい、蓮如は初めて関東布教の旅に出ることになりました。これは、正しい布教をするためには、世の中に出て大衆の意識を学ぶということと、御開山である親鸞聖人のご苦労を学ぶというものでした。

 こうした布教旅行に蓮如は、非常に積極的で、部屋住み時代に三度も出ているのです。何百里といった道のりを草鞋で歩き通します。

 彼の足にはその草鞋が食い込んだ跡が、一生消えなかったのは、このころからの行動力があったからなのでしょう。晩年、蓮如は側近のものにその足を出して見せ、贅沢になって呑気になった彼らをいましめていたそうです。

『布教は足でおこない、お念仏の尊さを知ることこそが、御開山様からの教えだ』と伝えているのでした。

 布教の旅をする蓮如が、京都を離れ、目の当たりに見た当時の日本は、農村地帯の貧しさ、数々の飢饉のたびに餓死していく人の姿でした。

 ですから、自分自身の貧乏や苦労などは、何ほどのこととも思っていなかったことでしょう。

 父、存如上人と初めて行った布教の旅。京都から琵琶湖を通り過ぎ、越前から加賀へ向かう時のことです。

「ここが、のこぎり坂じゃ、御開山様が越後へ流されるとき、この地までついて来てくれた信徒さんに、歌をお詠(よ)みなされたそうじゃ。」

「この地で、でございますか。」

「そうじゃ、ここはのこぎりの刃を縦にしたように、上っては下り、上っては下り、本当につらい坂なんじゃ。この地を細呂木と言うてな、御開山様はこう詠まれたのじゃ。

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場所が移動された「のこぎり坂」の碑


『おとにきく のこぎり坂の ひきわかれ 身の行く末は 心ほそろぎ』とな。

遠い遠い越後の国、自分がこれからどうなるのか、本当に不安で悲しくて仕方がなかったのじゃろうな」

 浄土真宗の開祖親鸞聖人もまた、数多くの苦労を重ね、ご布教されたのだな、と蓮如は深く深く考えたのでした。

 のこぎり坂を上り終えると、波の音が聞こえてきました。

「父上、この先は海なのでしょうか。」

「そうじゃ、この辺りは、本願寺と姻戚関係にある大和興福寺の荘園でのぅ、海が近くに望める場所があり、『よい岬』というところから「よしざき」と呼ばれているそうじゃ」

「よ・い・み・さ・き・・・か」

この北陸行脚の布教旅行が、後の蓮如の行動の基盤となっていくのでした。

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日本海は見えません!

 長禄元年六月、蓮如の父「存如」がお亡くなりになられます。

 一四五七年のことでした。貧しくはあっても本願寺には由緒正しい血筋があります。必然のように、継母「如円尼」と不仲であった蓮如に相続争いが巻き起こります。如円は、自分の長男である応玄に本願寺を相続させようと画策します。蓮如は、氏知らずの下働きの女中の子であり妾の子です。正妻の子である「応玄」が家督を相続するのが本筋だというのでした。分割相続のないこの時代、相続問題は「すべてか、無か」という争いになるのです。画策する如円を横目に、ただただ蓮如は黙視を続けます。六歳の時に実母と別れ、たとえ虐げられていたとはいえ、長年養ってもらっていたという恩義を感じていたのです。それゆえ存如上人の葬儀では、門主代理という大役でさえ、義弟の「応玄」に譲っていたのでした。

山ぞ恋しき ~吉崎建立ものがたり~【その4】

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比叡山https://www.hieizan.or.jp/


 本願寺に生まれ、やっと得度してから五年の間、蓮如比叡山で修業学問をしています。

 当時、各地の寺院から修業に来る若い僧は、自分の寺からの仕送りで生活をしていました。

 しかしながら、蓮如には本願寺からの支援はなく、五年間、一銭半銭の小遣いも持たされずに、裏地をつけて縫い合わせた「袷(あわせ)」と言う着物も、真冬を通じてただ一枚で、着のみ着のままのありさまだったのです。

 紙買う銭も、筆買う銭もなく、学友たちと机を並べて勉強していても、本当に不自由な有様だったのでした。そしていつしか、「蓮如は臭い、蓮如は臭い」という声が上がってしまい、机を並べて勉強もできなくなり、比叡山の北谷に掘っ建て小屋を建て、お師匠様から書物を借りて勉強を続けていきました。

 食べ物と言えば、木の実を拾って口にし、食べられる草を何もかも鍋に入れ、味付けもないまま炊いて食べる生活を送っていたのです。そのような生活の中で学んだ事が、後の蓮如の生き方を決めていく事になったのでした。

 蓮如が山を下りてすぐ、本願寺第六代法主蓮如の祖父である「巧如上人」は、蓮如の父「存如」にその座を譲りました。

 その頃の本願寺の貧窮さは益々ひどくなっていて、継母に虐げられている蓮如は、一日一食しか食べられなず、弟たちとは違うお粗末な物でもありました。

 それでも、父の補佐役としていろいろな書物を書写し、それをお金に変えていき、家計を助けていきました。

 祖父の巧如上人がお亡くなりになってしばらくして、蓮如上人は結婚することになります。

 伊勢平氏の流れをくむ伊勢貞房氏の娘で、法名を『如了』さまとおっしゃいます。

幼くして母と別れ、母の温もりにあこがれていた蓮如は、心のよりどころができた事で、益々布教や寺務に精を出していきます。そんな姿を、叔父の越中井波瑞泉寺の「如乗」はいつも見守っていました。

 如乗は父存如上人の弟で甥にあたるのですが、叔父甥と言っても蓮如と年はそう離れておらず、蓮如は兄のように慕っていた中なのでした。如乗も蓮如の聡明さをいち早く見抜いていて、一緒に語り合うことが大好きだったのでした。

 部屋住み時代の蓮如は、益々修行に励み、貧しいゆえ燈油を買えず、薪の火や月明りで聖教を読み、親鸞聖人の残した「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」や存覚上人の「六要抄(りくようしょう)」などは、表紙が破けてしまうほど読み、またそれを自分の手で書き写し、どんどん、どんどん、真宗の教義に精通していくのでした。そしてそれを、いかにやさしく大衆に説いていくかを考え、研究していたのでした。そんなお人柄から、多くの信徒が彼の人望に魅かれていってしまうのは、ある意味必然だったかのように思われます。

 本願寺に訪れた信徒達にこんな逸話が残っています。

 父、存如上人の説法が終わると、その説法に耳を傾ける信徒の人柄を見極め、自分の部屋に呼び入れて楽しく歓談されているのです。その中に、金森(かねがもり)の道西という人がいました。

 琵琶湖大津の対岸、今で言う守山市のあたりに住んでいた道西は名主、つまり大地主でした。その頃、このような地域の有力者が在所に寺や道場をつくり、周囲の人々を集めて説教し、法事を行っていたのでした。

 蓮如より十六歳年上の道西は、本願寺を訪れるたびに彼の部屋へ招かれ歓談し、彼の人格に魅せられ、彼を自分の道場へ招いて、在所の衆に説法をしてもらっていたりもしました。

 そしてある日、道西の甥の一人を蓮如側用人として彼に預けたのでした。その名を慶聞坊竜玄といって、当時まだ十歳でしたが、本願寺の貧乏時代から蓮如に仕え、彼が死ぬまで苦楽を共にした人となるのでした。

 蓮如には数多くの忠臣というべき人間がいます。武家でいう忠臣とは、栄達を求め、利害関係が絡みます。しかし、貧乏所帯の本願寺であり、後に首に賞金を懸けられるような蓮如の側近にいて、数多くの辛酸をなめさせられ、無償の行為を行う人間が大勢いたところに、蓮如の器の大きさと人望、そして魅力が知りえると言えるでしょう。

日本の政治って・・・

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https://neutralman.exblog.jp/22892979/


「自分の1票では何も変わらない。」
そうなんですけどね、何かアクションをしないと日本は益々おかしい方向へ行ってしまうような気がしているのです。

政治に期待をしないという時代になってしまったのは、あの悪夢の「民主党政権」からじゃないかと感じます。もちろん、それ以前から政治への無関心さが大きくなっていったのはわかります。
 

「誰かがやってくれればいいんだ」という無責任さは日本独特の考え方なのかもしれないと、この頃特に感じています。

憲法問題も、今は何処吹く風のような気がしていますし、消費税が上がっても、「仕方ない…」とあきらめている風潮が見えて来て残念でなりません。

政治の抱える問題は、財政から福祉・外交・教育などと、大きすぎる事も原因でしょう。

小泉首相のかつての郵政問題の時のように、〇か×かという解りやすい選挙ならまだしも、政治家も多すぎるし、二大政党政治にもなっていないし、本当に複雑になってしまいました。
政治が停滞しているというのに、生きて行けるというこの日本の幸せ感。
災害が多々起こっているのに、当事者しか知らないような話題には、ついて行けてない報道にも問題はあると思いますが、もっとまじめに、「この国の未来」を考えてもらえる政治家が増えて来てほしいですね。

「自分さえよければいい…」「今だけ何とかできればいい…」「選挙だけ頑張ればいい…」等々、あまりにも「おかしい心理」がこの国を動かしているような気がして残念でなりません。

争い事は嫌いですが、政治に対しては戦う姿勢を、もっともっと強く出してほしいものです。

そして、戦ってくれてる人間に対して、応戦しましょう。
ラグビーやサッカーと同じように、日本の国のために闘ってくれている人を見極め、声をあげて応援しましょう。

足の引っ張り合いはやめて、同じ方向で戦ってくれている人は、実はたくさんいると思うのです。

あの太平洋戦争で亡くなった方々に、顔を向けられない「未来」は嫌です。

https://www.youtube.com/watch?v=Ra_CuW8iu0M&t=11s